水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

水戸と会津Ⅱ ― 市川三左衛門と松平容保 ―

2024-06-18 05:14:30 | 日記

6月9日(日)、当会事務局長仲田昭一が、「水戸と会津」Ⅱ ― 市川三左衛門と松平容保 ― と題して講演を行いました。

会津藩は、戊辰戦争に於ては「賊軍」とされ、薩長両藩を中心とする新政府軍は「錦御旗」を掲げて「官軍」と称されました。しかし、果たして会津藩は反朝廷の「賊軍」であったのかに疑問を呈した内容で、今後は「官軍」「賊軍」の呼称をやめようではないかと訴えました。

会津藩は、決して朝廷に抵抗したのではなく、途中で降伏も嘆願していたのを、「会津憎し、会津を倒すことが本願」の思いで迫った新政府軍の方針に問題があったのではないか。それに対して会津藩は、旧藩主松平容保、新藩主喜徳を中心に家臣、領民とも一致して新政府軍に向かい、結果は責任感に満ちた悲劇となったが、藩祖保科正之の家訓、日新館での教えは貫かれ、朝廷及び幕府への義は尽くされた。
そこには、武士道の美に溢れていたと思われます。

水戸藩は、そのような義は見られず、藩主の命は通らず、藩政を担った門閥派は分裂、領民も含めた天狗派と諸生派の対立抗争が展開された。理由はともあれ、水戸を脱して会津助力へ向かった家老市川三左衛門たちであったが、会津藩の必死の覚悟を受け入れる所ではなかった。家訓に基づいた藩全体の姿勢、至誠のレベルの違いではなかったか。

水戸藩の分裂抗争には、尊王の「家訓」も弘道館教育の「尊王攘夷」も理解されず、生かされることもなく、私憤・怨念・報復に満ちた残虐な結果のみが際立った。誰も責任を取って、鎮めることができなかった。そこに、とても美を見出すことはできない。

日本の歴史が大きく転換する際に、それぞれの藩に於て、責任を取る潔さが見出されています。自らを省みて、学ぶことのあまりに多い事を痛感させられました。

 

<以下関連事項抄> 

孝明天皇と松平容保 <松平容保への孝明天皇からの御製と御宸翰>
 会津藩主松平容保は孝明天皇の信任を得た。決して反朝廷ではない。武士の忠誠の心をよろこばれて次の御製を下されている。

    やはらくも 猛きこころも相生の 松の落葉の あらす栄へむ
    武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひで

  容保は、終生これらを肌身離さず保持していたことは特筆される。

 水戸市川勢と会津藩
水戸藩内の対立>
江戸邸の藩主慶篤と本圀寺勢尊攘派と水戸城内の市川ら門閥派の対立抗争となったが、門閥派内でも元家老尾崎為貴ら有志数百人が大挙して水戸城中へ進入し、水戸城を奪回した。市川・朝比奈・佐藤ら500余人は、万一城に向かって発砲することがってはならないと水戸城を脱出し会津へ向かった。新政府軍の攻撃から必死に藩を護ろうとする君臣一体の会津勢にとっては、内紛で逃亡してきた水戸藩勢は迷惑な存在であった。

<白虎隊の殉節>8月23日(午前11時頃)
隊員20人、城に入らんと欲し、間道より飯盛山に登る。時に西軍本道の兵を追撃して城下に迫る。砲声地に震い、煙霧天を掩い、城外火。衆これを望み見て思えらく、城陥り君侯難に遇うと。是に於いて共に殉国に決し、即ち城に向かいひざまづいて拝して曰く、臣等が事畢ると。(『会津戊辰戦史』)(会津教育の精華)

<会津藩に殉難烈士烈婦多し>
家老西郷頼母の家族 = 母律子(58)、妻千重子(34)、妹(26)・妹(23)、長女(16)・次女(13)ら子女に向かって云う
「我等も城に入り、君公に従わんとすれども、幼子を伴い、却って繋累とならんことを恐る。むしろ自刃して国難に殉ぜん。今日は実に汝らの死すべきときなり。いたずらに生を偸みて恥を残すことなかれ」と。千重子、長子を城へ入れ、3人の子女(9、4、2)を刺殺して母、妹と共に自刃す。

<9月22日 会津藩降伏>
重臣ら嘆願書
  重臣ら補導の道を誤れりと自らを責め、新旧藩主容保、喜徳の勤王、幕政、藩政への実を掲げて至慈寛大之御沙汰を「泣血奉祈願候」嘆願した。ここに、会津藩の君臣の美をみて感慨新たなり。

〇 容保・喜徳の開城
  二公(容保、喜徳)は式(降伏式:軍監薩摩藩中村半次郎:桐野利秋、軍曹山縣小太郎)了るの後、城中に帰り、重臣将校らを召して、その苦戦辛勤を労い、訣別の意を表し、然る後城中の空井、及び二の丸の墓地に至り、香花を供して礼拝し、諸隊の前に至り、一隊ごとに辛勤の労を慰して、訣別を告げたるに、三軍の将卒、皆恨を忍び、涙を呑み仰ぎ見る者無し。

<水戸藩市川三左衛門らの迷走>
9月22日 会津若松城  ⇨ 会津田島 ⇨ 那須板室 ⇨ 湯津上 ⇨ 馬頭 ⇨ 小砂 ⇨ 小野河岸(大宮)⇨ 9/28石塚 ⇨ 9/29水戸城下(家老山野辺義芸ら防戦に失敗)
10月1日 弘道館の戦い(正庁残し文武教場・寄宿舎・医学館賛天堂など焼失)⇨ 長岡 ⇨ 紅葉 ⇨ 玉造 ⇨ 霞ヶ浦 ⇨ 潮来 ⇨ 松岸村(高崎藩飛地銚子)上陸

〇 市川三左衛門の最期
    八日市場の高野村剣士大木佐内保護、大木の助力を得て東京へ(久我三左衛門と変名)。娘の嫁ぎ先宝徳寺に潜伏 ⇨ 明治2年2月26日青山百人町の剣道師範村松某宅に潜居中捕縛 ⇨ 長岡原にて逆磔 (長く生きさせるために額に錐で穴を開け血を出させ、その党数人残らず処刑せらるるを見せ、その上にて突き殺し候事の由)「水戸藩紀事(明治新聞の書抜)」 

市川の辞世 「君ゆへにすつる命はおしまねと 忠が不忠に成そかなしき」
      主君の為に命は惜しまないけれども、その忠誠心は、藩主の意向に沿うことなく、結局は謀反(不忠)となってしまったことは無念なことだ

<その後の会津藩の選択>
会津28万石没収される。猪苗代3万石案は狭い地域への閉じ込めとなり、家臣たちの屈辱感も残り、領民への卑屈感もある。寒冷地斗南3万石を選択。開拓成功に期待と希望を抱いた。
旧藩主容保は鳥取藩・和歌山藩にて幽閉の後赦免となり、明治13年(1880)日光東照宮宮司拝命。明治26年12月4日に58歳を以て歿した。

 

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