水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

徳川家康と朝廷

2023-08-15 08:44:40 | 日記

 水戸・歴史に学ぶ会では「徳川家康シリーズ」の最終講演会を令和5年8月6日(日)に那珂市ふれあいセンターごだいで開催しました。講師は、本会事務局長の仲田昭一です。

 徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉の轍を踏まないように、「百世子孫」即ち子孫の繁栄と永続に腐心しました。征夷大将軍を絶対として江戸に開幕し、平氏や足利氏のような武家の公家化を警戒し、鎌倉時代に直結し、公家と武家を峻別して公武合体を否定しました。家康の政治の経典は『吾妻鏡』であり、立法の精神は北条泰時の「御成敗式目」(貞永式目)であり、模範とする人物は「源頼朝」でした。頼朝も家康も同じく尊王家でしたが、家康は承久の乱を鏡として朝廷の勢力拡大を警戒し、抑圧策を採っていったのです。今回は、その内容を見ていきました。

1.家康の学問
 家康の好学は、今川氏の人質時代が大きく影響をしていたと思われます。その学問内容は京風の和歌・物語ではなく、経世済民、実用、治国平天下の学問でした。それは、論語、中庸、史記、漢書、六韜、三略、貞観政要などを学んだことによく表れています。
 また、伏見学校を開いたことは、全国に学校を弘めるきっかけとなりました。『貞観政要』や『東鑑』を出版したことも学問普及には大きな事業でした。

2.徳川家康の尊王と抑圧
①家康は後奈良天皇の13回忌に献金し、散在していた皇室御料地を集合させ、大内仙洞御所が狭隘であるために公家の邸宅を移転し、東北各々1町余りを拡大したり、後陽成天皇の即位の大礼に際し、諸大名に内裏修造および御料進呈を命令するなど尊王に努めています。
②しかし、慶長14年(1609)に起こった猪熊事件(宮中の美少年猪熊の宮中女官との淫行乱行事件)では、厳重処罰を命じた後陽成天皇の勅命を退けるなど、「承詔必謹」の姿勢を拒み、朝廷への関与を進めていきます。京都に幕府の出先機関として京都所司代や伏見奉行を置いて監視を強めていきました。幕府と朝廷の関係では、領地でいえば幕府が700万石、朝廷が10万石との大差をつけています。
③慶長20年7月17日には禁中並公家諸法度発布を発布し、その第1条に「天子諸芸能の事、第一御学問なり」として、天皇は治国平天下の学問をなさず、ただ花鳥風月の学問をしておればよいとの姿勢を取りました。
④武家諸法度の中では、諸大名が皇室や公家との自由な結婚を認めず、幕府の許可制としていましたが、実態は下の表に見るように、将軍家や御三家をはじめ諸大名も縁組していました。歴史的に積み重ねられてきた皇室の存在・権威には権力や金銭ではとてもかなわないことを示しています。

3.天皇の激怒
 徳川家康の抑圧に加えて2代将軍秀忠も皇室へ無理難題を持ち込みました。
 元和6(1620)年6月、秀忠の娘和子を後水尾天皇の下に入内させます。寛永4年(1627)7月には、後水尾天皇が大徳寺などの僧侶に授けた紫衣に対して無効宣言をしました。
 寛永6年に、無位無官の家光の乳母を宮中へ参内させ、「春日局」の称号も授けることになります。
 後水尾天皇は、「葦原やしげらばしげれおのがままとても道ある世とは思はず」と詠まれ、怒りの譲位(34歳)をされたのです。

4.朝廷と領民
 徳川家康は、幕府絶対、朝廷抑圧の姿勢でしたが、朝廷の情報は朝廷側の情報担当役人「武家伝奏」から「京都所司代」へと伝えられていました。天皇の即位や崩御をはじめ、皇族の誕生・薨去などの情報もその中に入っています。幕府は、京都の情報も、諸藩に伝え、藩も領民へ伝えています。それらは、庄屋文書の「御用留」に残っています。
 弘化3年(1846)2月の仁孝天皇、同年11月の光格上皇の崩御とそれに伴う服喪として鳴物普請殺生武芸の禁止などが通知されています。それらは、庄屋から農民に伝えられていたのです。江戸時代を通して、強弱の差はあるものの、農村へも朝廷の存在は伝えられていたのです。

 尊王の基盤は、決して浅いものではなかった言うことができます。

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徳川家康と水戸頼房

2023-08-07 19:41:04 | 日記

「徳川家康シリーズ」の第2回講演会を令和5年7月30日(日)、那珂市ふれあいセンターごだいで開催しました。
講師は、当会事務局長の仲田昭一です。

徳川家康は、水戸を重要な地点として重視し、実子5男信吉、10男頼宣、11頼房をと次々に送り込み、天領的位置づけをしました。その家臣には有力な側近を付けました。戦国の雄の一人佐竹氏の支配地であったことを強く意識したのです。御三家の一つとされた水戸藩の実質的初代は頼房と捉えます。
今回は、家康の頼房への期待と愛嬢に触れながら、頼房の水戸城下整備や家臣団の結成、後継者光圀への遺訓などを紹介しながら頼房の人間像に迫ってみます。

1 家康と頼房

徳川家康は、「百世子孫」と唱えて徳川家が百代も続くような施策を練っていきます。その基本は子だくさん策です。中でも、晩年の頼房には眼をかけ、期待もしています。頼房は、慶長8年(1603)8月10日伏見城で誕生し、寛文元年(1661)7月29日に59歳の生涯を閉じました。生母は家康の側女上総大多喜城主正木頼忠の娘「萬」で、養母は太田道灌の子孫である「勝」(英勝院)です。補導役(傅)は、武蔵八王子衆17人の一人中山信吉です。信吉は、「国家を創業し世子を立る、その功尤も大なりとす」と『水戸紀年』に称えられた人物です。

頼房の家臣には、家康付き伏見衆の岡崎平兵衛綱住(大番頭)・三木仁兵衛之次(大老)、伊藤玄蕃友玄(大老)、武田信吉の家臣芦沢信重、市川三左衛門、今川氏の旧臣朝比奈康雄らに加え、備前堀新造で知られる関東郡代伊奈備前守忠次が書記の水戸藩政を担いました。これらの顔ぶれから、家康の水戸藩造りへの気概が非常に高くかつ偉大であったことを知ることができます。

家康が、頼房の非凡なることを感じ取った次のようなエピソードが有ります。
① 頼房10歳頃、家康、諸公子に「汝ら何か欲しきや」、頼房「家臣を多く欲す、天下を知らすため」聴く者皆愕然タリ 
② 家康天守上段へ登り、諸公子に「誰か飛び降りる者は?」、頼房「我こそ」、家康「身、微塵になるぞ」、頼房「身微塵になるとも一旦天下を得の名は長く萬世に伝うべし」。家康、は大いに    奇となしましたが、「天下は長子が継ぐものである、汝には常に好める唐の頭(勇者を示す馬標)を与えよう」と称えています。

2 水戸城の整備
藩政の中期ごろ家臣の高倉胤明がまとめた『水府地理温故録』によって見ていきます。
大掾氏、江戸氏在城までは、本城曲輪のみで、大手門は南・東の柵町方面の浄光寺郭口から入るように建っていました。はじめは、家康も家光も水戸城に石垣を築く予定があったようですが実現しませんでした。頼房が水戸へ入ったのは元和5年(1619)です。頼房17歳の年です。
水戸城の整備が始まります。大手橋をかけ替え、本丸から屋形を二の丸に移しました。そこには、昔は三階物見といい、今は三階やぐらいう小規模な城郭が建てられました。この建立には、藩から大工が姫路城に派遣されてそのノウハウを学ばせていました。規模は播州姫路の殿守の四分の一の積りだったそうです。二の丸より本城へ移る処に橋が有り、その向こう本城側に付けた門を橋詰御門といいいました。
慶安4年(1651)に千波湖畔に柳堤を築造しましたが、それには梅香の土ら武熊古城の土が使われました。

3 尊 王
水戸藩の尊王は二代藩主光圀からとされるのが一般的ですが、頼房は元和9年(1623)と寛永3年(1626)に将軍秀忠・家光とともに、寛永11年(1634)には将軍家光に随従して上洛しています。寛永3年(24歳)の上洛の際には、後水尾天皇に陪宴して「幾千代をかさねても猶呉竹の かはらぬ風を誰かたのまむ」と自らが皇室の永遠を担うとの気構えを詠み、それは第一等に賞されました。寛永5年からは城下北側を流れる那珂川の初鮭を朝廷に献上しました。それは、以降水戸家の家例となります。尊王心は頼房の時から持たれていたのです。

4 頼房と光圀父子の愛
(1)鍛錬 頼房は、後継者の光圀を鍛えます。寛永11年(1634)、小石川の屋敷内桜の馬場にて永野九十郎が手打ちとなりますが、その夜、光圀を試すために「その首取り来たるべし」と命じます。光圀はその刑場に至り、見事に首を取り来たりました。この刑場は大樹蒙鬱、況んや闇夜で四方不明です。また、力も首の重さに堪えがたく、髪を引きずって来たのです。その勇気に父頼房は喜んで褒美に短刀を授けました。光圀時に7歳でした。
寛永16年 父頼房は、光圀に浅草川で水練を試されました。光圀は往返数行に及びます。頼房は大いに感賞し、褒美に宗近の短刀を与えました。光圀時に12歳でした。

(2)頼房の遺言「殉死の禁」 寛文元年(1661)6月朔、頼房は癰を患います。藩はもちろん幕府や有力藩からも医師が駆け付けますが、治療の効果は無く、覚悟を決めた頼房は光圀に遺言します。「戦国の風である殉死を禁ぜよ」と。光圀も感じて家来に説きますが、容易に理解されず、その覚悟の家臣が多くおりました。
光圀は大いに怒り、父の思い、厳命を徹底させます。「殉死をして名を求める者は子々孫々に至るまで義絶する」と。家臣たちは、各々頭を垂れ涙を流して両公の命に従いました。この殉死の禁止は、その後まもなく幕府からも命ぜられました。

5 頼房の評価と逸話(「水戸紀年」より)
① 公、資性剛毅にして勇武人に過ぎたまう、好んで士を愛し、事に臨んで不撓、勢いを見て不屈、古良将の風あり。
②下町に宝鏡院あり、大水あり、士人城に入るに院中を過ぎ下駄をつけて仏殿に上がる、寺僧その 無礼を訴える、頼房曰く、平常の日にあらず、危難を恐れず懸命に城中へと試みる士人ら、いざ      となれば命を懸けて我に代わろうとする面々である、僧もまたこれらの志を嘉すべきものをと怒り、追放す。
③ 幼とき台徳公秀忠に陪侍す、台徳公仰せに「誰ぞの婿になしたきと。御台所(おごう)これを聴きたまい、あのいたづらもの、誰が婿になすべきやと。公頼房これを心中に含みたまい一生御室   なかりしと也(頼房に正室はおりません)」
④ 公、極めて倹なり、民を貪らず、風俗を乱さず、義理を正して威強し、幼より今に至るまで改めず、寵妾の親族に職禄を与えず。

6 戸藩家臣団の構成
家 康は頼房のために優れた家臣たちを付けています。
家康付;岡崎平兵衛綱住、武田氏の旧臣:芦沢伊賀守信重、望月五郎左衞門恒隆、市川三左衛門、武田耕雲斎の祖先、伊藤玄播、朝比奈孫左衛門(旧今川氏)、後北条氏家臣(武州八王子衆):中山備前守信吉(武州中山出身)、徳川一門の改易によりその家臣ら:額田久兵衛昭通(徳川忠輝家臣、額田城主)、その他:山野辺右衛門大夫義忠(最上義光の第4子)、宇都宮弥三郞国綱・高綱父子

徳川家康は没収した佐竹領の常陸、徳川家への反感渦巻くこの地を江戸を護る重要な後背地として、藩主が幼いうちは天領のように位置づけした。
家康は信頼の置ける伏見衆・駿府衆など譜代の家臣たちを頼房に付けた。譜代の家臣たちは水戸藩創設の自負心を持つと同時に藩運営への責任感が旺盛であった。

 

 

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令和5年 秋期講演会のお知らせ(終了しました!)

2023-08-07 19:05:22 | 日記

「文化遺産」シリーズ

  9月17日(日)「河内の駅家の謎を解く」 樫村弘明氏
10月  1日(日)「明治天皇と文豪たち」  仲田昭一氏
10月15日(日)「岡倉天心と近代日本画」 齋藤郁子氏
11月  5日(日)「旅して学ぶ琉球・壱岐・対馬の歴史」 谷口邦彦氏

会 場 那珂市ふれあいセンターごだい(茨城県那珂市)
時 間 10:00 ~ 11:30
参加費 各回300円(資料代等)
定 員 100名(申込み不要 ; 当日先着順)

問い合わせ先 📞090-8038-2087(事務局)

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