水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

令和4年度 秋季講演会のお知らせ(終了しました!)

2022-08-29 04:47:59 | 日記

今回のテーマは「博愛の政治家たち」です。

会 場 茨城県那珂市ふれあいセンターごだい

時 間 10:00 ~ 11:30   参加費 各回300円(資料代等)

定 員 100名(申し込み不要 ; 当日先着順)

10月16日(日)演題「水戸藩慈愛の郡奉行小宮山楓軒」  講師  仲田 昭一 氏

11月  6日(日)演題「文明開化のあけぼのを見た男たち」― 高松凌雲と佐野常民・渋沢栄一  講師  谷口 邦彦 氏

11月20日(日)演題「岩上二郎と妙子夫妻」  講師  齋藤 郁子 氏 

○ コロナ感染防止のため、健康状況、マスク着用などにご留意ください。
  変更・中止の場合もあります。

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ロシアの南下と水戸藩

2022-08-10 14:08:29 | 日記

水戸・歴史に学ぶ会では、夏季講演会「ロシアの南下と水戸藩」を8月7日(日)に開催しました。

ロシアのウクライナ侵略も半年になります。
また、今月に入って中国軍は台湾を包囲する形で軍事演習を開始し、緊張を高めています。
いつ何が起こるか予断を許しません。
対岸の火事と油断は禁物です。

このような中、ロシアの南下策に対する水戸藩の対応と幕末の幕府の対応を学び、今日の日本人としての心構えの在り方を再認識しました。

1 水戸藩の蝦夷地を護る決意
  ロシアがウラル山脈を越えてシベリアへ進出したのは16世紀末、日本では織田信長の頃でした。それ以降、ロシアは東方へ進出し、清国の沿海州をも獲得しました。
  日本では、水戸藩主の義公光圀は北方への関心を高め蝦夷地へ快風丸の派遣始めました。
  中期には、木村謙次が幕府の役人近藤重蔵らとともに択捉島へ渡り、南端のペルタルペ丘に「大日本恵土呂府」の標柱を建てました。
  九代藩主烈公斉昭は、幕府へ蝦夷地拝領の願いを出し、自ら北方の警備・経営を模索します。
  そればかりか、「本朝66ヶ国、壱岐・対馬を入れて68ヶ国なれば、松前・蝦夷西はカラフト東はシコタン等、北は千島よりカムサッカまでを北海道と定め、
  「新たに国名御附に相成云々」と北方の境界を定めて国名を「北海道」と命名する案まで表明しています。

  水戸藩が、対ロシア南下の砦になろうとの決意を見ることができます。

2 ロシアとの国境交渉 ― 北緯48度線と50度線に注目!!―
(1)嘉永6年(1856)7 月18日 ロシア極東艦隊司令長官プチャーチン長崎へ来航
   幕府の正使筒井政憲・副使川路聖謨、原市之進らが応対しました。 (『日露交渉北海道史稿』)

……「原市之進目撃談」要約……………………………………………………
 川路と幕府役人中村為弥は言う。
 ロシア軍艦のプチャーチンの居室には、地緯50度を以て日露の境界をなし、唐太(樺太)は日本に属したオランダ人刊行の輿地図を掲げてあったのを見た。
 後日、応接の日、論弁すること数十回。
 川路曰く「唐太の境界互いに譲らず、これは世界の公論に従おうではないか」
 プチャーチン曰く「外国人の地図、何ぞ拠(よんどころ)とするに足らん、且つ緯度は天に属するもの、土地によって画するものではない。山河の形勢は度数を以て分画することができようか」
 後、中村為弥をして数回交渉するが、この時には先の地図ははずしてあった
 川路記す、「為弥の交渉は命懸け、戦起こらば命を捨てる覚悟。終日の心痛実に感服、中々以てわが及ぶべき所に非ず」(交渉の難航を乗り越える気魄)
………………………………………………………………………………………

(2)安政元年(1854)12月21 日露通好条約 (1855.2.7「北方領土の日」)
    エトロフ・ウルップ間に境界を引き、樺太は雑居とする。国際条約で日露間の国境が確定した画期的なことであった。しかし、ロシアはこれで全樺太が自由となった(ロシアのものにできる)と喜んだ。雑居はいわば共有、これは力が強い方が管轄権を握ることになる。

(3)文久2年(1862)、条約締約国と開港延期及び樺太談判に使節団派遣
        派遣団は正使竹内下野守保徳(56)・副使松平石見守康直(33)・京極能登守高朗(39)38名。
   一行は英国 → 仏国 → 蘭国 → 独国経由して → 露国へ(8月19日  露国首都ペテルブルク会談

……副使松平康直と露国アジア局長イグナチェフの激烈談判 ……
 松平康直曰く「英国・仏国・蘭国の地図、みな北緯50度を限って国境としている」
 イグナチェフ曰く「外国の地図は信用できぬ」
 康直曰く「ここにロシア語の地図有り、同じく北緯50度に国境が引かれている」
 イグ曰く「民間発行の地図は信用できない」
 康直曰く「ロシア政府発行の地図があるか」
 イグ曰く「ある、明日見せよう」
 あくる日、イグナチェフ持参の地図、見ると樺太全島がロシア領と鮮やかに色塗り。
 松平康直少しも騒がず、曰く「ロシアの天文台は世界一というがまことか」
 イグ曰く「然り」と。康直曰く「案内してくれるか?」と。イグ曰く「何故に?」と。
 康直曰く「魯国に着くや否や、天文台に行った。3個の地球儀はみな北緯50度に国境線があった。世界一の天文台にある地球儀は偽物か!」
 イグ曰く「これまでの長い外交官時代、あなたのような優れた外交官に会ったことはない!皇帝に再交渉を奏上しよう」
………………………………………………………………………………………

……… 樺太境界50度を限る説は幕府から ……………………………………
理由:初めオランダ船が伊豆の下田に入るや一つの世界地図を幕府に献上した。それには樺太50度を境にして北が青色、以南は日本と同じ色となっていた。これを以て、幕府は樺太境界を50度と意識していた。(オランダ船の入船時期は不明。また、いつ頃から世界地図に、樺太の北緯50度に国境線が引かれたかは今後の課題)

 結局、ロシアは北緯48度線をもって妥協してきたが、 日本側があくまでも50度線にこだわって妥結せず、雑居のままとなる。しかし、樺太の国境問題にあたる当時の先人の用意周到さと気迫を感じ取ることができる。
………………………………………………………………………………………

3 北方領土はソ連・ロシアが不法占拠中
その後、明治8年(1875)の樺太千島交換条約、明治38年(1905)のポーツマス条約で北緯50度以南が日本領となりました。
昭和20年(1945)2月のヤルタ秘密協定で、米英はソ連に樺太・千島列島の所有権を持てるようになることを条件に日本への参戦を誘ったのです。
そういったことから、ソ連は日本との中立条約を破棄して参戦し、北方領土をソ連の支配下にしてしまったのです。
昭和26(1951)9月8日、サンフランシスコ平和条約締結で日本は樺太・千島を放棄しましたが、その帰属先は定められませんでした。

日本が非常な決意で護ろうとしている北方の領土が日本の領土と確定される確率は実に低いです。
これは、ロシアのみならず米英にも責任はあると思います。
現状のまま時が流れれば、北方領土はロシアが支配するようになってしまうかもしれません。
北方の島を故郷とする日本人たちの為にも、私たち日本人は「島を返せ!」を叫び続けなければならないと思っています。

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