水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

会津若松・猪苗代の歴史を訪ねる

2024-07-24 15:44:02 | 日記

7月3日(水)は大型バス、7月11日(木)は中型バスで会津若松・猪苗代方面への移動教室を実施しました。
両日とも梅雨の最中で小雨交じりの空模様でしたが、時には晴れ間も見られ、猛暑を避けての恵まれた日となりました。
観光地として整備されているのは勿論ですが、会津精神、会津魂は心に響くものがありました。

〇白虎隊士を弔う
 飯盛山へ上り、白虎隊士の墓所をお参りする。
 日新館の教育を受けて忠義を貫いた少年、少女の霊に額づいた。
 まさに「線香の煙が絶えない霊地」である。

〇会津松平家の墓所
 2代藩主以降歴代藩主の墓が、一山墓所として整備されている。
 幕末、京都守護職を務めた9代藩主容保もここに眠っている。
 現在は、熊の出没があり入山は避けて、入口正面から一同揃って参拝する。
 水戸徳川家の瑞龍山墓所と比較しながら藩主たちに思いを馳せた。

 

〇会津鶴ヶ城
 蘆名家時代は黒川城と呼ばれた。
 巨岩で築いた石垣と高い土塁、水を湛えた深い堀が回っている城址、その中に雄大な姿を現わす白壁と赤瓦屋根の城郭は美しい。
 城は、正に外から眺めるに尽きる。
 戊辰戦争で、最後まで藩主、重臣、家臣たちが団結した往時に思いを馳せると、水戸藩の混迷の無念さが一層増してくる。

 

〇野口英世記念館
 かつての生家は、巨大な蓋いで保護されていた。
 板敷の煤けた部屋の囲炉裏を見て、清作(英世)を火傷させてしまった母シカ思いを馳せる。
 奮起した清作も偉大であるが、支援者となった小林、血脇両先生も偉大であった。
 部屋の柱には、「志を得ざれば、再びこの地を踏まず」「忍耐は苦くその実は甘い」の名訓が刻まれていた。
 コロナの大流行に、細菌学者の先達野口英世に感謝する声はほとんど聞こえなかった。
 清作を育んだ猪苗代湖と磐梯山は今も不変、雄大である。

 

〇土津神社(はにつじんじゃ)
 この会だからこその参拝地である。
 二代将軍徳川秀忠の子であり会津松平家の初代藩主となった保科正之公を祀る。
 正之の履歴を刻んだ亀石に乗る神霊碑は、日本最大といわれる。
 寄合家臣団の団結に意を用い、幕府第一を説いた「家訓十五か条」や子どもたちへの「十の訓え」、飢饉対策の社倉設置など、藩の基礎を築いた偉大な藩主である。
 水戸藩の徳川光圀、岡山藩の池田光政とともに、三代名君と称される一人でもある。

 

 

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男爵 佐藤進 博士 ― 常陸太田が生んだ東洋一の外科医 ー

2024-07-15 06:12:28 | 日記

令和6年7月7日、「常陸太田の生んだ東洋一の外科医、男爵佐藤進博士」と題して当会事務局長仲田昭一が講演しました。

佐藤進は、弘化2年(1845)に常陸太田の醤油業を営む高和家の長男として誕生し、母親の妹が嫁いだ佐倉順天堂の医師佐藤家の養子となって医学の修行に専念し、湯島順天堂病院の3代目の堂主、有能な外科医として活躍しました。大正10年(1921)、76年の生涯を閉じました。墓は東京駒込吉祥寺にあります。

 

〇ドイツ留学
明治元年(1868)~明治2年の戊辰戦争では新政府軍の医師として参戦し、新政府軍および会津藩兵士の治療に従事しました。明治2年(1869)、24歳の時にドイツへ留学し、ベルリン大学医学部を卒業。ドクトル学位取得はスエズ以東では空前の人となりました。独仏戦争中、敵味方なく治療する赤十字社運動に感動しています。
その後、木戸孝允や徳川慶喜夫人、小松宮彰仁親王実母の癌治療、手術を行っています。

〇日清戦争
明治28年(1895)50歳、日清戦争の際、2月に軍医総監として広島予備病院御用取扱として治療に専念、野戦衛生長官石黒忠悳をして「広島に帰航候患者は、悉く軍医佐藤博士の懇切なる療治を受けるために候故、この点についても小生瞑目するも毫も遺憾なくと存じ候」と言わしめています。

下関講和会談に来日した清国全権李鴻章が暴漢に狙撃され負傷、その治療に当たります。李鴻章は、「予を狙撃したものは予の生命の敵であるが、貴官は予の生命の恩人だ。創傷の早く治り、使命を全うして本国に帰ることを得ば、予は、わが大清国皇帝に奏上して、貴官に勲章を贈りましょう」とその治療ぶりを称え、李は生涯佐藤に毎年謝礼金を贈っています。

 この戦争には、久慈郡からは200人からが出征し、22名の戦死者を出しています。明治29年、久慈郡の有志者の要請により、「征清殉難之碑」の撰文を認めています。碑は、市内若宮八幡社の境内に建立されました。昭和20年8月の敗戦後、碑は撤去されましたが日本の独立後再建されています。

〇日露戦争
明治37年(1904)、同38年の日露戦争に際しての、愛媛県松山収容所おけるロシア兵捕虜の待遇は人道的であった。病室御用掛であった佐藤進は、寺内正毅陸軍大臣に「松山俘虜患者総数は現今凡そ七百名内外に御座候、治療上の成績は何れも佳良にして、彼等将校はじめ一同満足の姿にて、深く我が医術を信頼の様子に相見申候」と書き送っています。

日本軍は日本海海戦で圧勝します。その際、島根県浜田沖にはロシア海軍軍人230余人が漂着、それらを救済するために佐藤は山口県三田尻から人力車で中国山脈を越え160㎞を浜田へ急行ししています。

戦後、満洲の地、旅順・大連・奉天等々の兵站病院視察した際に詠んだ
    見渡せば山も木立もなかりける 宿るは何処渡る初雁

また、「いったい人道より見れば、人を殺すのが戦争の目的でない。兵は凶器なりで、お互いに干戈を磨いて相対して居るということは、国家の形成の上よりやむを得ませぬことでありますが、これを交ゆるということは、決して望むべきことではありません」(『いはらき』、明治39年10月30日)と述べています。佐藤の非戦の思いを読み取ることができます。

12月23日明治天皇へ拝謁(日露戦争関係奏上)

明治40年(1907)に爵位「男爵」を受け、翌年に大韓病院初代院長となり、韓国国民の衛生思想の普及、衛生環境の整備などに尽力しました。

〇ふるさとへの思慕
・『水戸義公伝』の発刊
 明治42年(1909)、養子河合達次郎に順天堂運営を任せ、その後は精神的バックボーンであった水戸義公光圀の伝記執筆に専念します。
 動機は、「ふるさと太田に義公隠棲の西山あり。欣仰の念胸中を去らず」と、「義公伝説の偶像化を排し、文献史料を駆使して「正伝」を示さん」との思いからでした。
 『水戸義公伝』は明治44年に刊行されました。

・進徳幼稚園
 明治36年4月10日に太田尋常小学校附属幼稚園が創設され、同44年に改築されます。
 その際佐藤は、応分の寄付をするとともに、幼稚園に「進徳」の二文字の命名を依頼しました。
 人としての道を幼少より学ぶ「深く極め、太く育て、強く実践する」人物の育成をきたいしたのです。

県立太田第一高等学校の掲額 【博くこれを学び 審らかにこれを問う】
 『中庸』20章  (修養の道は心を誠にすること、誠を得る方法とは?)
 「博く之を学び、審らかに之を問い、慎んで之を思い、明らかに之を弁じ、篤く之を行う」

 
 この墨痕鮮やかな雄筆には、生徒たちへの限りない成長への期待と優しさが込められています。

 〇佐藤進の医術の姿勢
・順天堂における医術の姿勢
 「先生の患者に接せらるるや、常に鬼手仏心を称え給う。手術台上一とたび「メス」のひら めくや、宛然電光石火病根を爬羅剔抉(えぐりだす)あますところなし。鬼手か魔手にあら ざればあたわざるなり。この時先生の眼には貴賤老若の影は写らず、ただ病根を根絶するに 努力せらるるのみ。その病牀に見舞わらるるや、慈眼を垂れて患者の苦悩を慰め、回春の喜 び近きにあり、と鼓舞せらる。この時先生の眼には親疎の差別なく、自己の姻戚を見らるる に異ならず。宜なるかな、患者の先生の名声を聞き、自己の生命を先生の妙手に依せんがた め、千里を遠しとせずして順天堂の門前に群集すること。」

・福田安次郎(別荘地、麻生在住の医師)に云う
 「古来より医は仁術なり。苦吟奄息の窮者をあわれむは、医の生命なり。しかるに、近時医術に努むる傍ら政治に熱中し、投機事業に鞅掌する等、野心利欲のわだかまりてありては、到底仁術の道を果すや難し」

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令和6年9・10月 講演会のお知らせ

2024-07-12 05:34:30 | 日記

会 場:那珂市ふれあいセンターごだい

    9月8日(日)「水戸天狗党湊を脱出し大子路から野州路へ」
   10月6日(日)「維新の魁となり八溝山北麓に散った志士たち」

講 師:飯村尋道氏
時 間:10時~11時30分
参加費:300円(資料代等)
定 員:100名 申込み不要 ; 当日先着順

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