水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

安政の大獄 ー条約勅許の攻防ー

2021-07-27 15:07:09 | 日記

日本は、日米修好通商条約を迫るアメリカに対処するべきだったのでしょうか。
そして、それが、なぜ、安政の大獄に至ったのでしょうか。背景を探りながら考えてみたいと思います。

〇どうして朝廷は政治に関与し始めたのか
 政情の変容はにより朝廷が復権し、幕府単独では政策を実行できなくなってきた所にあります。大きなところで言いますと、次のようなことが挙げられます。
 (1)天明7年(1787)に光格天皇が幕府に対して庶民への「お救い米」供出を訴えられたこと
 (2)幕府が、文化4年(1807)には露国人の利尻島侵入騒擾事件を朝廷へ奏上したこと、
 (3)孝明天皇が、弘化 3年(1846)8月29日幕府へ海防勅諭を発布されたこと
 (4)嘉永6年(1853)のペリー来航に対して、老中阿部正弘が諸大名に意見を聴取するなど幕府の専政が緩和していきました。
   その上、「天皇にお考えがあるならば、遠慮なく申し付けてほしい。叡慮に沿うようにしたい」と申し出るなど、朝幕関係は逆転していきました。こうして締結された日米
   和親条約、朝廷への
報告は事後承認の形で、朝廷もそれを認めていました。

〇日米修好通商条約はハリスの云うままに押し切られたのか⁉
 米国駐日大使ハリスと交渉をしたのは、幕臣の岩瀬忠震、川路聖謨、水野忠徳、永井尚志、井上清直らです。彼らは、急ぎ調印を迫るハリスと真剣勝負の交渉を重ね、ハリスを
 して「かかる全権(岩瀬・川路ら)を得たりしは日本の幸福、日本ために偉功ある人々なり」と言わしめました。決してハリスに押し切られ、屈して結んだ条約ではありません
 でした。

  
〇なぜ勅許を必要としたのか
 朝権の回復とともに、諸大名も朝廷の存在を認識しはじめ、勅許を得た上での条約締結を主張するに至り、国論を一つにするには「勅許」でとの思いが強くなってきました。
 しかし、肝心の朝廷内は、当時の関白鷹司政通を除いてほとんどが締結反対か、定見を持っていませんでした。孝明天皇も、今すぐの締結には反対をされていました。 
 条約勅許を得ようと上京した老中堀田正睦は、締結に反対する公家衆を見て「公家衆は国 際情勢を分かっていない。外交を断ち鎖国しながら昌平を楽しむ国はない。
 世界万邦を仇敵に回し、殺戮も絶えなく、長く持ちこたえられる訳はない」と憤慨しています。まさに至言 と思われます。
 井伊直弼も、早くから勅許を得てからとの考えをもっていたことは注目に値します。

〇なぜ、大老井伊直弼は勅許無しで米修好通商条約に調印をしたのか
 米国のハリスは、調印を急いでいました。朝廷の許可を待つ余裕はありませんでした。
 また、将軍家定も病弱であったために、その継嗣問題も抱えていました。
 井伊直弼は、江戸城内で最も権力をもち、幕政を決定する権限を持つ大名が集う「溜の間詰」大名の筆頭でした。紀伊藩の意向により大老にも就任し、将軍も紀伊藩主慶福を
 擁立する勢力に与していました。

  この二つの難問の解決を急ぎました。しかし、勅許を得ることには拘っていたようですが、時間切れで締結に走りました。

〇なぜ、井伊直弼は紀伊藩を除く御三家の内、水戸藩の前藩主斉昭や藩主慶篤、尾張藩主慶勝、親藩の越前藩主松平慶永、さらに一橋慶喜などまで処分したのか
 井伊直弼には、幕府を守るという自負心がありました。幕府の政策に反対する勢力には、御三家や親藩といえども容赦はしませんでした。                   
 安政5年8月8日に水戸藩に対して朝廷から幕府を指導するようにとの「密勅」が下されたことは、とても許されるものではなかったのです。
 幕藩体制の本質をよくよく認識していなければなりません。全くの幕府オンリーなのです。ですから、一般の志士たちが処分されるのは当然のこととなります。


〇なぜ、安政の大獄は日本の歴史上大変な損失になったといわれているのか
    将来に向けて大いいなる活躍を期待された人物が処刑されています。
    水戸藩では、藤田東湖の教えを受けた家老安島帯刀、側用人茅根寒緑です。水戸藩の抑えどころを知り抜いていました。
 越前では、藩士橋本左内(景岳・26歳)が処刑されています。 
 橋本景岳は蘭学を学び、正解の情勢を俯瞰し、「世界は一つに国際連盟の如くなるであろう。その盟主は英国、露国であろう。日本も一国独立は難しく同盟関係に入るであろ
 う。そのとき私は露国との同盟を推す」と言い切った。「しかし、そのときは英国との戦争に備えなければならない。またその逆もある。」と洞察して
います。また、独立を
 保つためには、朝廷を中心として幕府・諸藩の有志を登用して内閣制度的な組織を立ち上げる必要があると提言しています。

 外国奉行水野筑後守忠徳は「橋本を殺したるの一事、以て天の怒りを買い、徳川幕府の滅亡を招いたと嘆息した」といわれています。                       
  長州藩士吉田松陰死罪(30)も処刑されました。                                                           
 吉田松陰は松下村塾で多くの有能な志士たちを教育しました。明治維新後に活躍する政治家を称して「多くはこれ松門より出るの者たち」と称えられました。  
 松陰が生きておれば、明治初期の維新の功臣たちの抗争は避けられていたであろうとも言われています。
 そのような中、薩摩藩の西郷隆盛が生き延びたことは奇跡的なことでした。僧月照とともに錦江湾に身を投じ、月照は死に西郷は助かったのです。
 島送りになっていて、安政の大獄を免れました。    
 西郷は、この島で出会った薩摩藩士重野安繹に語っています。「自分が尊敬するのは先輩では水戸の藤田東湖、同輩では越前の橋本左内である」と。
  
安政の大獄は、開国派が攘夷派を討ったのではなく、幕府の政策に反対する者が倒されたのです。
井伊直弼は、万延元年(1860)3月3日桜田門外の変で倒されました。


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「門閥派結城寅寿の最期」

2021-07-20 09:42:07 | 日記

当会では、渋沢栄一の人生の根幹は水戸にあるという立場に立っています。
そこで、渋沢栄一が影響を受けた幕末の水戸藩の動きに焦点を絞って辿ってみることにしました。
第1回目は、門閥派・改革派、あるいは天狗派・諸生派と激しい対立抗争を繰り広げた背景を、門閥派の中心人物結城寅寿に焦点を当てて、門閥派誕生の背景に迫りました。

結城家の始まり
結城家の遠祖は藤原秀郷の末葉で下総結城七郎朝光の後胤です。朝廣の二男左衛門尉祐廣の時に奥州白河へ移り白河結城氏のはじめとなります。
その中の結城宗広は、南北朝時代に後醍醐天皇に忠誠を尽くした尊王家として知られています。
水戸結城氏
水戸義公光圀は、『大日本史』編纂事業で白河を調査、古来からの名家であることを確認し、天和3年(1683)5月27日、晴定を水戸家へ迎えました。
これ以来、結城家は執政や大番頭・書院番頭などの要職を務めていきます。

水戸藩譜代の重臣結城寅寿 

結城寅寿は文政元年(1818)に誕生しました。この時の主な水戸藩士に、藤田東湖(13歳)、武田耕雲斎(16歳)、戸田忠敞(16歳)がいます。
やがて、文政13年・天保元年(1830)に第9代藩主烈公斉昭が襲封します。
寅寿は大変優秀で、藩政を担う能力に長けていました。
烈公も信頼して重要視し、小姓頭・家老を務める譜代の重臣の結城寅寿と新興勢力で改革派・側用人の藤田東湖は
両輪の輪のような存在となり、藩主の天保の改革を推進して行きました。

しかし、寅寿は次第に改革の一部に反対を示し、反藩主の立場に立って同僚の一部を集団化していきました。
水戸藩の社寺改革は、寺院勢力を引き込み、幕府へも取り入るなどの行き過ぎがありました。
そのため、弘化元年(1844)には、幕府は烈公を隠居謹慎、藤田東湖や戸田忠敞らは蟄居処分を受けるという、
水戸藩にとっては大きな打撃となりました。いわゆる「弘化甲辰の国難」です。  

その後しばらくは、水戸藩内では結城派が勢力を張っていましたが、まもなく対外関係が難しくなってきて、
幕府も斉昭や東湖の力を必要として両者を復権させます。

これによって、次第に改革派が優勢となり、弘化4年(1847) には、 結城寅寿は隠居を命じられることとなりました。
その後、嘉永6年(1853)、結城寅寿や仲間の谷田部雲八・尾羽平蔵らが謀って藩主慶篤に改革派の弾圧を密告使用とした計画が発覚し、藩内では、「結城等を死罪に処すべし」との論がさかんになりましたが、寅寿を理解する藤田東湖がこれを非としたため、寅寿は水戸徳川家の姻戚に当たる松平将監へお預けとなり、将監の屋敷のある長倉に幽閉せられました。
ところが、安政2年(1855)10月2日に江戸大地震が起こり、不幸にも東湖(50歳)・戸田(53歳)が震死してしまいます。
また、翌年には結城派の医師十河祐元が藩主への毒盛り疑惑により斬死に処せられます。
そして4月25日、目付伊藤弥兵衛と久木直次郎が検死役として長倉へ赴き、結城寅寿は詮議も無いままに死罪に
処せられました。                                                    結 城 寅 寿

その後、結城党派は悉く処罰され、谷田部や十河等親族が処刑となり、一時結城派は殆ど全滅の姿となり、大変な恨みが残りました。
幕末の悲惨な惨殺事件は、このあたりに原因があったともいわれます。

この事件について『水戸史談』では、次のような評価が記されています。
 『結城寅寿は才気学問はもとより人に優れ、政治上の手腕もたしかに立ち超えている。そうした感情にモロイ性にてあるから、部下を愛することも深かったらしい。その故、結城党の人々は皆敬服していて、団結力が甚だ堅く、終始 一致の方向を執っていた。この人、もし戸田・藤田と肝胆相照らして老公を輔佐したならば、天晴れなる仕事が出来て、水戸は王政維新の功勲第一となったろう。惜しいかな、戸田・藤田を排斥しようとして、余りに腕が利き、老公迄を陥れまいらせるに到って、遂に自分も非命の死を遂げるに到った。』

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