水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

水戸と会津Ⅰ―徳川光圀と保科正之―

2024-05-15 19:57:08 | 日記

令和6年5月12日、「水戸と会津Ⅰ ― 徳川光圀と保科正之 ― と題して、当会の事務局長仲田昭一氏が講演しました。

江戸幕府が安定化に向かい、武断政治から文治政治に変化する時代。名君として評価されたのが会津藩の保科正之、水戸藩の徳川光圀、岡山藩の池田光政です。
保科は将軍秀忠の4男でしたが認知されず、高遠藩保科家の養子となりました。
光圀は水戸藩頼房の3男でしたが水にされる危機がありました。
平穏であったのは戦国の猛将池田輝政の孫で徳川家康の四天王の一人榊原康政の娘を母とした光政だけでした。

3人が置かれた位置にも興味が湧きます。東北の伊達藩や最上藩の抑えとしての会津や水戸、西国大名や京都の抑えとしての備前岡山です。
講演では、保科正之と徳川光圀を中心としながら3人の治績を取り上げ、治国・平天下の基盤には何が必要か、領民の生活への配慮は何が重要かなどが説かれました。

〇長幼の序
池田光政=慶長14年(1609)4月誕生、寛永9年(1632)6月備前岡山31万5千石の藩主。
保科正之=慶長16年5月誕生、寛永13年(1636)山形最上20万石藩主、寛永20年(1643)会津23万石の藩主。
徳川光圀=寛永5年(1628)6月誕生、寛文元年(1661)水戸28万石の2代藩主

〇治政の特徴は、領民生活の安定化と有能な学者を招いて学問の振興
〈教育と学問〉
岡山藩
寛永18年(1641)岡山藩校「花畠教場」(藩校的)開校、正保2年(1645)陽明学者熊沢蕃山を招く。寛文10年(1670)閑谷学校(庶民の教育)創設。

会津藩
寛文4年(1664)民間による庶民教育の「稽古堂」はじまる。翌5年、朱子学者山崎闇斎を招く。
藩校「日新館」創設は5代藩主容頌(かたのぶ)の享和3年(1803)
山崎闇斎は25歳で脱仏教、人倫の価値は君臣・父子・夫婦の三綱、仁義礼智信の五常である。仏教はこれら否定している。
※朱子学は、「心」=「敬」を根底にする「行為の型」を重視=卑怯さの否定 ⇨(白虎隊への継承)
※君臣関係=日本では朝廷 ― 幕府 ― 藩主 ― 家臣 ― 領民 ⇨ 徳川家康の幕藩体制は朝廷の存在を認めた上でのもの(位階・官職の任命、改元制度)
 9代藩主松平容保の京都守護職拝命は皇室への忠誠心の発露、名誉
『二程治教録』序文 = 宋代に程明道・程伊川兄弟が出て、堯舜時代の「治教の学」を継承したことの意義を示す(学問の重要さ)
保科正之は、学問の重要さを認識し、「治教の学」の実践化を図った。それは、「家訓」15カ条に表れている。
その第一条に「 大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従ふべからず。」とある。
慶安4年(1651)徳川家光臨終の時、正之に対し「宗家を頼み置く」と。正之「身命を擲(なげう)って御奉公仕る」と家綱の後見役に就く(幕府への忠誠)。

 ≪参考≫「什の掟」(什により多少の違いはある。6歳から9歳の子供たち10人前後の集団)
     年長者の言うことに背いてはなりませぬ、「ならぬことはならぬものです」など

水戸藩
正保2年(1645)徳川光圀『史記』伯夷を読み志学の念起こす。
寛文5年(1665)徳川光圀、朱舜水を招く。
明暦3年(1657)『大日本史』編纂のための史局「彰考館」を創設
徳川光圀の家訓「我が主君は天子也、今将軍ハ我が宗室也。(宗室とハ親類頭也)あしく了簡 仕、取違へ申まじき由、御近臣共に仰られ候。」

〈領民生活の安定化〉
承応3年(1654)江戸玉川上水工事完成。保科正之の推進(徳川光圀の笠原水道)
明暦元年(1655)会津、飢饉対策として「社倉制度」創設(徳川光圀の義倉・稗蔵)
          90歳以上へ養老米(高齢者への福祉、年金制度の始めと称される)
明暦3年(1657)江戸明暦の大火:水戸藩小石川藩邸類焼、駒込藩邸内に史局を開き『大日本史』編さん開始
          江戸城天守閣類焼、正之は再建の必要なしを明言、上野広小路設置・新堀開削など提言
寛文元年(1661)徳川頼房歿(殉死禁止の命)会津藩殉死を禁止、末期養子の禁止緩和
寛文3年(1663)幕府、殉死を禁止する(会津、保科正之の進言)
寛文6年(1666)池田光政、藩内淫祠を破却(水戸藩、会津藩も社寺改革を実施)
          『会津風土記』完成(芦名氏、蒲生氏時代からの脱却を図る)
寛文8年(1668)「会津家訓15か条」制定
寛文12年(1672)保科正之 12月18日江戸藩邸で歿(63歳) 霊社号「土津(はにつ)霊神」
延宝3年(1675)会津藩、土津神社(はにつじんじゃ)創建(山崎闇斎撰文「土津霊神之碑」あり)
天和2年(1682)5月22日  池田光政岡山城西の丸にて歿(74歳)
元禄13年(1700)12月6日  徳川光圀西山荘にて歿(73歳)

☆朝廷と幕府の関係について、会津・水戸・岡山藩とも基本方針は「尊王敬幕」であるが、水戸藩は究極的には倒幕論といえる。

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