水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

戊辰戦争 ― 秋田藩横手城代と庄内藩 ―

2024-03-25 13:52:55 | 日記

令和6年3月24日(日)、「幕末シリーズ」の最後として、当会事務局長仲田昭一が「戊辰戦争 ― 秋田藩横手城代と庄内藩 ―」と題して講演しました。

幕末戊辰戦争に際して、新政府軍に就くか、旧幕府軍に就くかで各藩とも混迷しました。中でも水戸藩は、天狗・諸生両派の対立が加わって異常な状況を呈していました。そのような中で、結城藩の光岡多治見敬齋は、用人の立場で恭順派として動き、大きな混乱もなく藩存続を果たしています。幕府の大老、老中を務めた土井利勝が藩主となった古河藩は、幕末には当然佐幕派でした。しかし、家老小杉監物の判断進言により藩論を勤王に導きました。奥羽越列藩同盟側にあった佐竹氏の秋田藩も、藩校明道館教授根本通明の指導によって勤王派・新政府軍側ヘ就き、庄内藩の降伏に当たっては、菅重秀が働いて平穏に済ませることが出来ました。

いずれも、混迷していた藩論を統一するために尽力した人物がいたのです。それに比して、水戸藩は家臣団が天狗派、門閥派と分裂して混迷殺戮を繰り返し、新時代を迎えることに貢献することはできませんでした。藩論の統一どころではなく、対立のまま藩は終焉を迎えました。時代を担う人材の育成を目的とした藩校弘道館の教育は生かさませんでした。

秋田藩の根本通明博士
根本通明は、安政5年3月(37歳)に藩校明徳館の教授となります。やがて「易義」を研究し、物事の流行・変化転変の中で、不易の存在を確認し、「革命」はあってはならないものと確信しました。これを日本に置き換えると、日本の天子は一系で皇統は永遠に変えるべきでないとの信念を懐くに至り、自身の「尊王」を表明しました。その結果は、一藩として尊王・勤王へ導くことになりました。

戊辰戦争と秋田藩
慶応4年4月29日には、新政府の鎮撫軍副総督沢為量が秋田へ入りました。
根本通明は、「われらがこの総督(官軍)に対抗することは不義ではないか」と疑問を呈します。
藩の重臣たちは、「君(藩)命は佐幕である、鎮撫軍に徹底抗戦すべし」と主張し、藩内は厳しく対立しました。

秋田藩では、新政府側に就くか、旧幕府方に就くかで大揺れの状況下で、新政府方派であった評定奉行鈴木吉左衛門が自刃します。このような混迷の中、新政府方勤王派が奮起し、藩内の対立は一層深まってしまいます。
根本通明は、藩主義堯に対して次のように教授しました。
「源平の時代から勤王の名家と称えられた佐竹歴代祖宗の遺志を継ぎ、例え家を失ない、子孫を絶つことになろうとも、皇室に対して弓を引き、賊名を被(こうむ)るような不名誉は断じてすべきではない。」
これを受けた藩主義堯は厳命します。「余、自ら命ずる。用人達が云っていることは、余の本心と全く関係ない。余は既に勤王と決めている。」と。

佐竹氏の支城である横手城主義效は、秋田藩主義堯とともにあった。横手城を死守することは、既に庄内藩や仙台藩など列藩同盟側討伐に決している主家・藩主に対し、謀叛を起こしたとの疑念を避けるためでした。
代わって子息戸村大学義得(よしあり)らは、「我々は先祖代々、先手として数百年来横手に居を構えてきた。それなのに、戦いもせず城を棄てるのは、先祖に対して申し訳がない」と、横手城死守の覚悟を決めます。父子分裂という戸村氏の非情を超えた苦渋の決断でした。
列藩同盟側の庄内藩・仙台藩らは横手城総攻撃に決しました。

庄内藩の横手城攻撃
激戦の末、戸村大学義得は猛然突進を試みようとしましたが、近侍の者たちが駆け付けて押し止め、無理に裏門より脱出せしめ、菩提所龍昌院の間道より落ち延びることとなりました。
同日深更、庄内藩一番隊長松平甚三郎が城内に入り、翌日城内を検視するに、死屍11体、何れも裸体にして首はありませんでした。
松平甚三郎曰く、「是れ忠義の士なり」と。これらを城北の龍昌院に葬り、僧徒10余人をして読経供養せしめ、墓標を建てて次のように記しました。

  表 佐竹家名臣戸村氏忠士之墓
  側 慶応四年八月十一日忠義戦死
  裏 奥羽の義軍埋葬礼拝して退く
    惜い哉、此の人々の姓名を弁ぜず
    若し之を知るものあらば 追記せんことを希う

庄内藩の降伏
庄内藩兵の秋田進撃は、角館攻撃以外失敗するところなく、連戦連勝に近いもので、機動力を生かし、新政府軍を翻弄し続け、最新式の武器を装備した西南諸藩の軍をも圧倒しました。
庄内藩の強さは、軍将松平甚三郎と酒井吉之亟の巧みな用兵にあったといえます。
さらに、庄内藩には側用人兼江戸留守居役にあった菅実秀(すげさねひで)がいたことです。実秀が最も恐れていたことは、藩論の不一致から起こる内部の分裂と抗争でした。

横手城を落とした庄内藩の最後の様子として、慶応4年(明治元年)9月16日における庄内藩庁での重臣・軍事掛の二派の論を挙げておきます。
<抗戦派>
「朝廷に対し奉り、聊か犯せる罪無きに、江戸御守衛以来、薩・長の為に諱悪せられ、今又戦争連月、官軍に抵抗す。事、爰に至り、謝罪降伏するは、武門の深く恥じる所也。此上は庄内一円焦土となし、城を枕にして討ち死にせん。」
<恭順派>
「奥羽同盟して、事今日に至る。潔く討ち死にする、元より武夫の常なれども、如何せん君子御幼少の折柄、補導の任を尽さず、事の齟齬せしより此の場合に至る。一己の身を潔くせんと欲して、数代の君家を断滅するは、臣子の実に不忍所に有之、各一身を擲ち、社稷の血食を料らば、朝廷御宥免の恩命なしとせず。」

議論両端に分かれ紛々決せず。
この時、前藩主大殿酒井忠発の「今に至りて全く朝廷の綸旨に出でたることの分明せる上は、王師に抵抗するの道理なし」との言により降伏を決定しました。

庄内藩降伏に際し、西郷隆盛の寛大な姿勢に感銘して、後に『南洲翁遺訓』を刊行するのが菅重秀です。

水戸藩の混迷
慶応4年(1868)〈9,8「明治」改元〉、1月1日「鳥羽伏見の戦い」旧幕府は薩摩討伐を宣言しました。
1月6日 慶喜、開陽丸にて大坂を脱出します。京都守衛の任にあった本圀寺勢は、江戸へ、また水戸へ戻ります。
これにより、江戸邸の藩主慶篤および本圀寺勢尊攘派と水戸城門閥派が対立するという構図が出来てしまいます。

3月10日、門閥派の元家老尾崎為貴ら有志数百人大挙水戸城中へ進入し、市川三左衛門、朝比奈泰雄、佐藤図書らの籠る水戸城の奪還に成功します。
市川ら500余人は水戸を脱出し会津へ向かいました。3月21日藩主 慶篤は水戸城へ到着しますが、4月5日には逝去してしまいます(37歳)。
反市川勢の門閥派、本国寺勢などが、市川らの追討軍を編成、3月20日「市川勢追討隊」(第一次追討隊)が会津へ向け出発します。
これは、藩内抗争以外の何物でもありませんでした。

まとめ
水戸藩には、秋田藩の根本通明、庄内藩の菅実秀、結城藩の光岡敬齋、古河藩の小杉監物などのように藩論を統一へ導くのに大きな働きができる人物がいませんでした。水戸藩の学問は、どこに生きていたのか。弘道館で学んび、「義公の遺訓」を受け継いだ、徳川慶喜公の英断が日本の行く末を決定づけたことは確かです。ところが、そのようなときに、水戸藩が一致しこたえる状態がなかったのは残念でなりません。
水戸藩の家臣団は、武田氏、後北条氏、伏見以来の家康付家臣をはじめ山野辺氏、宇都宮氏、そして結城氏など優秀な武将などで形成されました。さらに、中期以降には藩内の民間からの秀才たちも登用され、水戸藩発展のために尽力しました。本来、「天狗」も「諸生」もなかったのです。「恩讐」を乗り超えてお互い力をあわせて発揮し、「天下の魁」を目指したいものです。

 

写真出典:根本通明博士(平泉澄著『天兵に敵なし』)、菅重秀(加藤省一郎著『臥牛菅實秀』)

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