水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

西郷隆盛と駿府会談

2022-07-24 21:29:36 | 日記

水戸・歴史に学ぶ会夏季講演会「幕末の動乱と水戸藩」シリーズの第3回目「西郷隆盛と駿府会談」を令和4年7月24日(日)に開催しました。
講師は当会事務局長仲田昭一で、『西郷隆盛全集』の資料を基に当時の経緯を説かれました。

歴史上において、非常の時には非常の人物を必要とする例として、この会談を取り上げ、真剣勝負で肝胆相照らす仲になった二人の功績を称えられました。

西郷隆盛曰く「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困る」と鉄舟を評していますが、このような人物でなければ、非常の大事は成し遂げられません。
非常の人物には、日頃の厳しい心身の鍛錬が積み重ねられていることも忘れてはならないことです。
          
討 幕 の 密 勅
慶応3年(1867)5月24日、兵庫開港の勅許により薩長両藩の開国派は武力倒幕へ方向転換しますが、その一方で、大久保一蔵・岩倉具視らは王政復古を計画していました。
西郷や大久保らは、将軍慶喜の悪政を列挙して討幕の密勅を嘆願。密勅は10月13日に薩摩へ、これには京都守護職の会津容保、京都所司代の桑名定敬の誅罰も含まれる厳しいものでした。14日に長州へも下りますが、この14日に徳川慶喜が大政返上を願出て翌15日に聴許されました。これにより、10月21日の薩摩・長州に倒幕の猶予勅命が出され、22日には 慶喜に対し当分は庶政を一任するとの御沙汰書が出されました。

西 郷 ら の 江 戸 挑 発 行 動
これに対して、西郷隆盛や大久保利通らは、岩倉具視に次のように警戒を訴えます。「若し寛大の処置を為されるようであれば、朝権振るわざるは論ずる迄もなく、必ず昔日の大患を生じることになるでしょう」と。
その上、挑発行動に出て江戸薩摩藩屋敷を拠点として江戸市中の攪乱を図ります。12月23日早朝、江戸城二の丸より出火して全焼。その夜、薩摩藩兵は庄内藩巡羅兵屯所に発砲し、対する幕府は24日夜、薩摩藩邸攻撃に出て益満休之助らを捕縛します。
これらの状況から、幕府方将兵の反薩摩・長州勢への怨念が爆発したのでした。

鳥 羽 伏 見 の 戦 い
慶応4年1月1日、旧幕府が「幼い天子を擁して私意をほしいままにする君側の奸をはらう」と薩摩藩討伐を宣言し、1月3日 鳥羽伏見の戦が起こります。この日の払暁 「天兵、錦旗を捧げ伏見辺へ御差出の模様あり」とは重大です。「錦御旗」は、遠く承久の乱(1221年)の際に始まったようですが、今回は、大久保利通や玉松操らが岩倉具視に委嘱して完成させたようです。これで、薩長勢の優勢が決定しました。みな、「朝敵」になることを恐れたのです。 
幕府方は薩長軍勢の3倍とも5倍ともいわれるほど優勢でしたが、一進一退の後、薩長方(新政府軍)に「錦旗」が翻り意気高揚となったといわれます。7日に朝廷は慶喜追討令を発し、官位を剥奪したことにより、慶喜の「朝敵」が決定しました。慶喜の最も恐れていたことです。
1月6日  徳川慶喜、開陽丸にて大坂を脱出し、海路江戸へ戻りますが、この時会津藩主・桑名藩主を同行させます。大坂での幕府軍の結束を削ぐ意味がありました。
 
西 郷 の 戦 況 報 告
西郷隆盛は、正月10日薩摩へ書簡を送ります。1月3日より6日まで連戦連勝、京都周辺の人々も手を合わせて新政府軍へ感謝の意を表している。幕府がこれまで程に嫌われていたのかと驚いていますと。
2月2日には大久保一蔵に宛てて、「慶喜の退隠歎願を許さず、是非切腹迄させなければならない」と怒りをあらわにしています。2月3日には討幕令が発せられています。
2月5日の吉井幸輔宛ての中では、次のように記され、「いざ合戦!」の気で一杯です。
「賊軍には智将もこれあり、大久保(忠寛・一翁)も勝(海舟)も参政に出候由に御座候間、決して油断は相成らず候。両人を相手に勝負を決め候儀、実に面白かるべきと是れのみ相願い居り申し候。敵方に智勇の将を置き戦を成し候儀、合戦中の一楽、此の事に御座候。」

駿 府 会 談
このような緊迫した中での山岡鉄舟派遣でした。鉄舟は直心影流や北辰一刀流を学び、剣・禅・書の達人で、幕末の三舟(高橋泥舟・山岡鉄舟・勝海舟)と称される人物です。派遣は、慶喜公の謹慎一筋の誠意を何とか新政府軍に伝えたいとの勝海舟らの切なる思いからでした。海舟には、山岡の人物を見抜く力があり、西郷への親書を渡します。山岡は必死の決心で駿府へ向かいます。捕縛中の薩摩藩士益満休之助を同行させ、「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る!」と大声を挙げて、堂々と新政府軍の中を走り抜きます。
いよいよ西郷との真剣勝負、決死の談判が始まります。西郷からの降伏条件は、以下の通り。

 西郷の徳川家処分案  (緊急の参謀会議で協議し、大総督の決裁)
   一 慶喜謹慎恭順の廉を以て、備前藩へ御預け仰せ付けらるべき事。
   一 城明け渡し申すべき事。
   一 軍艦残らず相渡すべき事。
   一 軍器一切相渡すべき事。
   一 城内住居の家臣、向島へ移り慎み罷り在るべき事。
   一 慶喜妄挙を助け候面々、厳重に取り調べ、謝罪の道、屹度相立つべき事。
   一 玉石共に砕くの御趣意更にこれなきに付き、鎮定の道相立て、若し暴挙致し
     候者これあり、手に余り候わば、官軍を以て相鎮むべき事。
   右の条々、実効急速に相立候わば、徳川氏家名の儀は寛典の御処置仰せ付けらるべく候事。

これを受けて山岡曰く、「第一条は幕臣として承知できない」
西郷応ず、「それでは戦いを」
山岡さらに切り込んで曰く、「立場を変えてお考えを。薩摩藩主の配流となることをあなたは承服するか」
西郷しばし沈黙の後、「すべてわしの責任で撤回を」
会談終わって両者互いに手を取り合い、杯を重ねることに。
この駿府会談が成功して、江戸城無血開城となります。西郷隆盛と勝海舟の会談は最後の確認会談でありました。駿府会談にこそ、大きな意義があったといえるのです。

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さきたま古墳群と忍城を訪ねて

2022-07-22 01:22:11 | 日記

7月13日(水)、霧雨模様の中を出発しましたが、午後には快晴となり当会の移動教室が無事に終了しました。

午前は、古代ハス公園での自由散策、埼玉県立さきたま史跡の博物館ではさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣を、さきたま古墳群では丸墓山古墳と稲荷山古墳を、午後は、忍城と関東の石舞台といわれた八幡山古墳を見学してきました。

参加された35名の皆様、それぞれに収穫があったようでした。

 

古代ハス公園
やや時期が遅い感じでしたが、広い蓮園に浄土の世界を堪能する思いでした。車中では、国語の教科書に載っていた「巨椋池の蓮」(和辻哲郎作)のなかにある「早朝に花開く音」が話題となり、話に花が咲きました。以前よりは池全体の勢いがやや弱まった感があり、保護の難しさを感じました。

さきたま古墳群
水運・交通の要衝および氾濫原の肥沃地などからか、巨大な古墳の集中に驚きました。また、戦国時代、石田三成が忍城を水攻めするために築いた石田堤の存在から、よく古墳を崩さずに残してくれたと、三成への感謝の念が湧きました。墳丘上から忍城が遠望できるとのことから、懸命に探し求め確認できて、往時の水攻めに思いを馳せ感慨新たなものがありました。

稲荷山古墳の墳丘上に竪穴式埋葬の模型があり、石室の作り方が話題となりました。また、鉄剣に自家の歴史を象嵌(ぞうがん)したオワケノキミの誇りにも感嘆するとともに、その保存に最新の技術を用いて現物を常設展示していることに、則ち日本の文化財保護力の高さに驚嘆しました。現在、関係者はこの公園の世界遺産を目指して奮闘中です。

 

忍城
復元された美しい三階櫓は郷土博物館の展示場となっています。後北条氏に就いていた忍城主成田氏長は、豊臣秀吉軍勢への対応をめぐって小田原で評定中、留守を担った夫人と家臣団および領民たちの見事な団結に、城主成田氏の治世ぶりが表れています。戦国時代、激しい攻撃を受けながらも、堪えて堪えて滅亡を免れた城として称えられています。中世の歴史と近代産業の「足袋(たび)」の歴史が展示の特徴となっていますが、近世の城主松平氏は、彦根藩などと並んで江戸城内の「溜間詰」の譜代大名として、幕政に参画し重要な役割を果たしていました。

 

八幡山古墳
やはり古墳群であった中の一つで、周辺の干拓事業の土取りの過程で現れてきたものですが、三つに区分されたおおきな石室は、巨大な緑泥岩・岩板等で築造されています。巨大石室がむき出しであり、その壮大さを目の前にして、これまた往時の技術力の高さに目を見張るものがありました。平常日でしたが、担当課長様自らが案内・説明してくださいました事に感謝申し上げま す。

今回も、結果的にはたくさん歩いた一日となりました。
お疲れさまでした。

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「水戸浪士十九烈士」の位牌について

2022-07-16 20:22:23 | 日記

本会の令和4年夏季講演会テーマ「幕末の動乱と水戸藩」の第2回は、7月10日(日)「『水戸浪士十九烈士』の位牌について」と題して飯村尋道氏が講演しました。飯村氏は、天狗党のうち榊原新左衛門一派(大発勢)に属して川越藩に幽閉され自害した常陸太田市出身の羽部廉が獄中で筆記した「水府儀士姓名録」(羽部道紀氏所蔵)を元に、また川越市喜多町の広済寺住職から提供された「十九烈士」の位牌を紹介しながら、臨場感あふれる熱弁を振るわれました。

19人の烈士の足跡や遺跡を丹念に精力的に辿っていく調査研究の姿勢は、生涯学問に励む者の模範でもあります。

100名を超える参加者は、講師の迫力に聴き入り、往時の様々な人間模様に思いを馳せながら、水戸藩の混迷を再考していました。

武 蔵 国 川 越 藩
川越藩は武蔵国の中央に位置し、武蔵国一の大藩で武蔵国を支配する重要拠点でした。また、江戸と新河岸川の船運や川越街道で結ばれ、江戸城防衛の枢要な地でもあり、江戸の北の守りとして発展しました。そのため、譜代・親藩が藩主を務める藩で、大老や老中も輩出しています。

幕末の藩主直侯(なおよし)は水戸烈公斉昭の八男で八郎麿(信山公)と称しました。
(信山公は、講師のふるさと大子の豪農旅澤家に、嘉永4年(1951)の秋に宿泊しています。また十四男の環山公(昭訓)も文久2年(1862)に旅澤家に宿泊しています。)
直侯の婿養子直克は、久留米藩主有馬頼徳の五男で、越前藩主松平春嶽が辞職した後に空席であった政治総裁職に就きます。攘夷派であったことから、水戸藩攘夷派の天狗勢ら殉難志士への温情があったと思われます。
その後に藩主となった松平周防守康英は前棚倉藩主の時に天狗勢の弾圧などの功績によって、8万石の棚倉藩から17万石の川越藩主に栄転となります。なんとも皮肉なことでした。

19 人 の 烈 士
幕府の鎮圧隊に投降した榊原一派1154人の内、20人が武州川越藩へ預けられ、うち19名が獄死しました。
藩主松平大和守直克が広済寺(曹洞宗)に遺骸を埋葬し、永代供養料として15両を寄附し、19柱の位牌を当寺に奉納しました。

19名は以下の通りです。
義山道勇信士 森嶋政治良(20歳) 義光明勇信士 石川新知衛門(23歳) 義清心勇信士 八文字吉治良(不詳) 義岳宗勇信士 飯嶌善七(不詳) 義學良勇信士 江橋五右衛門(55歳) 義法實勇信士 檜沢佐七(45歳) 義徳會勇信士 長嶌平治右衛門(22歳) 義祖參勇信士 出沢喜十良(34歳) 義窓照勇信士 雨沢孫四良(30歳) 義源庭勇信士 鈴木喜八良(不詳) 義蓮意勇信士 羽部廉藏(58歳) 義全秀勇信士 樫村雄之助(22歳) 義高忠勇信士 菊地忠右衛門(67歳) 義一來勇信士 園部謙輔(38歳) 義孝善勇信士 小田倉捨吉(19歳) 義眞傳勇信士 舩橋清七良(36歳) 義逹周勇信士 佐野治良九良(27歳) 義觀相勇信士 出沢孝三良(32歳) 義空通勇信士 嶋田儀一良(不詳)

烈 士 の 一 人「 羽 部 廉 藏」
廉藏の遺書「国難事實書」には、「国賊を幽冥の内に戮(ころ)し、烈公(斉昭)の御遺業を興起し、大炊頭(おおいのかみ)(宍戸藩主松平頼徳)様の御怨恨を慰め奉る」との思いをもって獄中で書いたものです。
廉藏は、「敵の飯は食えぬ」と絶食を貫き自害しました。

辞 世  みちにふる 雪ハ道にて消ゆるなり 君につかふる人もそのこと

     きなふけふ 明日香の川にあらねとも 淵は瀬になる あなりよのなか     「惟知集」(内田正人氏所蔵)

 

 

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