水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

徳川家康と江戸

2023-01-30 20:48:00 | 日記

令和5年1月29日(日)、ふれあいセンターごだいで新春講演会を開催しました。本会事務局長の仲田昭一が、「徳川家康と江戸」と題して。
徳川家康は戦国の世を終わらせ、泰平の基を開いた功績者であること、徳川幕府体制が永遠に続くようにと計った深謀遠慮を学びました。
また、恥辱を嫌い、独立心を固め、苦難にめげずに未来を開拓する旺盛な意欲を再確認したところです。

1 武蔵国江戸郷を開発した太田道灌
太田氏ははじめ丹波の太田庄に住し、河越へ移り扇谷上杉家の家臣となった。
本来太田家は武略家、文学歌人であり江戸城下、品川などを支配下として応仁・文明の大乱に際しても京都からの文人芸術家を招待・優遇していた。
道灌が狩りに出てにわか雨に会い、宿の婦人が差し出した「山吹の花」に怒ったとの伝説は誤伝であろう。
古歌「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」は既に御拾遺集』(応徳3年:1086、実は兼明親王(970年代)の作)にあり、歌道に秀でた太田家の子孫、道灌が意味を知らぬはずがない。
狩場にかかる教養ある女性はいたのかとの疑念も残る(『続々父祖の足跡』平泉澄博士著)。

太田道灌は詠じた。「我が庵は松原つずき海近く 富士の高根を軒端にぞ見る」丘陵地帯の未開発の地江戸に三重の城郭を構え、城下の整備に尽くしたが、道灌亡き後、荒涼としたさまとなる。


2 徳川家康の江戸整備
豊臣秀吉は、敵将徳川家康を大坂はもちろん本拠地駿府を取り上げ、後北条氏の居城小田原よりも未開発の東へ追った。
しかし、家康は堪えて江戸の開発に専念した。
家康は天正18年8月朔日江戸へ入った。
9月より、縄張り内の上下平川村・牛込・局沢(つぼねさわ:麹町)・芝崎等の寺院を外に移し、一門譜代大名に応急工事を命ずる。『慶長見聞集』は以下のように伝える。
(家康の重臣)本田正信ら指揮、雨風雪中にも懈怠なし、大名衆より夜のうちに普請場へ出て朝飯は昼頃、夜食は宿へ帰ってから。
大雨の日は、堀より上げた土が堀底へ流れ入るのを夜普請にて防ぎ、堀の水をつるべにて5重6重替え上げた。辛労の筆に尽くし難し

3 家康の気概
元亀3年(1572)、武田信玄2万の精鋭を率いて西上する。目指すは中原、従って徳川には目もくれず、家康の居城浜松を横に見て、直ちに京都に上ろうとする。何分にも百戦錬磨の甲州軍、これを率いるは老巧信玄、人々はこれを恐れ、信長すら不戦を家康に勧告する。しかるに家康は、みすみす敵に城下の通行を許し、手をこまぬいて見送るは男児の恥辱とし、衆議を排して決戦した。衆寡敵せず、戦いは敗れた。然しその勇気は、流石の信玄をして舌を巻かしめ、信玄はこれ以上家康と戦わない方針をとった。
信玄と家康、年齢も違えば勢力に大差あって、大小比較にもならぬに拘わらず、、家康が常に尊敬と信頼とを信長よりかち得て、対等の同盟を結んだのは、かくの如き気概気魄あるによる。それ無くしては、家康は信長の属国となり部将となったであろう。独立とは何ぞや。独自高貴の理想を持つ事である。それに向かって励精刻苦する事である。その犯さるるに当たっては、生死をこれにかける気魄を持つ事である。恐怖と阿諛、怠惰と遊楽、かかる惰弱の心情を一掃する事である。
三方ヶ原の合戦における家康の姿勢を称え、独立心の涵養を訴えた平泉澄博士の論である。

(平泉澄博士著『山彦』昭和37年、5月26日)

4 家康の遠望:幕藩体制

(1)御三家と附家老
    義直(尾張藩主)、頼宣(下妻・水戸、紀州藩主)、頼房(下妻・水戸藩主)
    附家老 家康が附した重要な補佐役、五家(成瀬家・竹越家・安藤家・水野家・中山家)
    尾張義直 成瀬正成(犬山城3,5万石) 竹腰正信(美濃今尾城3万石:異父兄)
         紀州頼宣 安藤直次(田辺城3,8万石:德川20神将)
       水野重央・重良(紀伊新宮3,5万石:德川20神将)→ 水野忠央(幕末)
          水戸頼房 中山信吉 

(2)水戸藩の成立と附家老中山氏
    戦国時代の雄佐竹氏を追い、5男武田信吉、10男頼宣、11男頼房と実子を封じた意味は重大。
    附家老中山信吉(宣化天皇の裔、姓は丹治、子孫は武蔵に繁衍。八王子武功の17騎附属)

       家康曰く、「北条氏の最後は武田氏の場合と違う、家臣は最後まで裏切らずに運命を共にした。日頃の政治力・教育力の違いだ、よく見ておけ。德川氏の本拠地となる関東一体にこのような政治を布かなければならない」
         八王子城に最後まで籠もって抵抗、前田利家と対峙して討ち死にした中山家範の長男勘解由照守、次男信吉兄弟を家康が引き取った。
    家康は、武田・後北条・今川氏の優秀な家臣を自分の家臣として登用した。

5 幕府運営の要は江戸城「溜間詰」大名 (神君家康公以来の家臣、幕政を担う責任感が旺盛、江戸を中心に考えた各大名の配置に注目)
   彦根藩 井伊家 35万石、桑名藩 松平家 11万石、会津藩 松平家 23万石、姫路藩 酒井家 15万石、高松藩 松平家 12万石、松山藩 松平家 15万石、小浜藩 酒井家 10万石、
      岡崎藩 本多家   5万石、忍 藩 松平家 10万石、庄内藩 酒井家 14万石

6 江戸時代の朝幕関係
   対朝廷  禁裏御料3万石・公家領7万石〔10万石〕禁中並公家諸法度  京都所司代(監視役)↔ 武家伝奏(朝廷側)
   対大名・諸家 天領400万石・旗本領300万石 〔700万石〕武家諸法度  (幕藩体制 = 御三家・御三卿・親藩・譜代・外様)

7 家康の総括
(1)「弘道館記」に言う。
   我が東照宮、「撥乱反正、尊王攘夷、允武允文、以開太平之基」と。(乱をおさめ正にかえし、王を尊び夷をはらい、まことに武、まことに文、以て太平の基を開く)
(2)『近世日本国民史』に徳富蘇峰は言う。
   〇 家康は、創造力は少ない、鎌倉幕府の政治に深く神会・冥合するところがあった。そは彼の虎の巻が東鏡であり、守り本尊が源頼朝であり、その護符が貞永式目であった。
     織田信長、豊臣秀吉、北条氏康、武田信玄等を師とし、その良きところを集めて大成する的の一大包容力、一大総合力に感心する。
     周智を集め、衆力を併せ、古今東西の経験を悉く我が物として、これを利用する底の手腕と度量とを有した。
     幕藩体制の基本も、豊臣秀吉に倣った。秀吉が、大坂を中心として周辺に親族・譜代を配置し、有力者は東北や西南に推し込み、自他相牽制すべき勢力を巧みに配置した。
     家康は、それを江戸中心、徳川中心に改めたまでのことである。
   〇 家康の経綸は、日本対外国ではなく徳川氏対日本国であった。
     慶長3年8月の秀吉死去から元和2年4月の足掛け19年間は、いかにして徳川氏を実権者として百世子孫迄継続せしむべきかに尽瘁した。
     その抑制は朝廷・皇室までにも及んだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農政学者:小田村庄屋長島尉信の生涯

2023-01-17 09:45:22 | 日記

水戸・歴史に学ぶ会新春特別講演会が1月15日(日)に水戸常陽藝文センターホールで開催されました。
講師は当会事務局長仲田昭一でした。

長島尉信の生き方を学ぶことで大いに啓発されるところがありました。

長島 尉信(ながしま やすのぶ)とは

天明元年(1781)8月11日小田村の小泉家に生れ、その後同村内の長島家の養子に入ります。
21歳から45歳まで24年間庄屋を務めました。
名は尉信、字は祐卿、二左衛と称し、号は三村山人、郁子園(むべぞの)です。

   

隠居後に江戸に出て暦学や測量術を学び、帰郷後は小田村内外の歴史調査に挑みました。
慶応3年(1867)7月16日、87歳で歿しました。

小田村に帰郷後は、農政学者としての力を以て水戸藩、土浦藩に招かれて検地を指導します。
その間、史料の収集に努め、「一日一万字」の勢いで精力的に筆写しました。
まさに生涯学習の魁(さきがけ)的人物といえます。

また、多くの人々と積極的に交流して、学問を深めていきました。
現在、コロナ禍の影響もありますが、交流機会が変化し、人間関係が希薄となったとの指摘もあります。

小田村は、筑波山隣りの宝篋山の麓(ほうきょうざんのふもと)にあります。
小田氏が築いた小田城や三村山清冷院極楽寺(真言律宗)がありました。
尉信は、南朝方に味方して奮戦した小田氏の七代治久(はるひさ)が迎えた北畠親房が『神皇正統記』を執筆したことを誇りに思っていました。
また、勢力を拡大して戦国大名化した十四

水戸藩時代
<検地>
天保11年(1840)に水戸藩に招かれました。
尉信は、はじめに義公光圀の隠棲した太田の西山御殿を訪れ、御霊に藩政支援に来た挨拶をしています。感歎すべき姿勢です。
その後、寛永の検地事業の先覚者望月恒隆(酒門共有墓地)、川村覚助(光台寺)の墓を藤田東湖と共に参拝しています。
両者の墓は、それまで殆ど顧みられず、これ以降検地明神と称えられ参拝者で賑ったといわれます。

<追鳥狩への参加>
天保11年と13年の2回参加し、「追鳥狩御行粧記」を残しています。
嘉永2年(1849)、友人で画家でもあった仙台の小野寺鳳谷が尉信を訪ねた折に、尉信の武装の肖像画を描いています。

<水戸八景と郷校の訪問>
天保6年(1835)春、9代藩主烈公斉昭は「水戸八景」の碑を建立します。
尉信は、この年に「八景碑」を訪ね模写しています。
ただし、尉信の模写は僊湖莫雪、青柳夜雨、太田落雁、水門帰帆の四か所です。

郷校にも関心を持ち、天保6年6月に湊の敬業館を訪問しました。
同10年6月に再度敬業館を訪問した際に、隣接の湊御殿「夤賓閣(いひんかく)」を訪ね、閣内を詳細に記録しています。
天保7年には太田の益習館を訪問しています。
同10年6月には多賀郡大久保村の興芸館(同15年に暇習館と改称)を訪問し、ここでは「見取図」残しています。これは同館の復元に役立ちました(「載水漫筆」)。

<彰考館と益友市毛幹規>
検地御用の合間に諸史料の筆写もしています。
天保11年5月23日の日記に「雨降り、夏至に入り、田崎高明が輯(あつ)めたる『江水規式帳』を借り写す」。
『江水規式帳』は「最秘蔵して他に視すべきにあらず、或る人激務の余暇にひそかに記載」と記しています。
その筆力を門人であった関宿藩士船橋随庵は「その筆力一日一万字」と評しています。

諸史料の閲覧には彰考館員市毛幹規が貢献しています。
幹規は石川桃蹊や小宮山楓軒に就いて学びました。
諸家の系譜を知る者で幹規以上のものはなく、身分の低い官吏ではあるが、故実を好み、記録に詳しく、剛毅で篤実な人物だったそうです。

「自分は幹規の助けによって秘書・珍書を見ることができた。幹規がいなかったならば、これもかなわなかった。実に吾がための益友である。この人のように、篤実信義をそなえ、一点の欺きを持たない者は、世間にもいないであろう。」と、幹規への感謝を述べています。

二人の親交を示すエピソードとして
幹規は、天保7年8月28日太田の西山御殿を訪問、この時尉信のためにと竹の葉と梅擬(うめもどき)の葉を拾い持ち帰りました。
現在も尉信の蔵書の中に挟まれています。

土浦藩へ招かれる
天保14年(1843)の3月、土浦藩へ招かれ、検地事業に参画します。その時の改革の眼目に以下にあります。
<検地>
● 土地の善悪、田畑尽力の釣り合い等を勘案すること
● 国の本は土地と尽力が第一
● 村役人に人物を選び、実態調査の上帳簿を正しくすること
● 恤民第一ながら、初めに極窮民対策を練ること
● 検地を実施し、村民の負担を公平にすること

この検地に当たって親交のあった醤油問屋の色川三中が「国家の大害これより甚だしきはなし。恐るべきことなり。悲しむべき次第なり」と反対しています。
街中で商業を営む三中と農民の負担の平等を目指してきた尉信との大きな違いでしょうか。

<城郭修復>
城域の測量、城郭の修理について諮問され、測量した結果を「末広御備御本丸御二三丸分間歩詰図」として作成しました。
これは、土浦城を末広(扇)の形に見立て、図の余白には本丸の面積が千坪の円形、正方形、長方形の城郭を描き円形の城郭が郭内の面積に比較して、最も防御線が短くて済むことを示しています。

ネットワーカーとしての長島尉信
義兄弟の契り  長島尉信・色川三中・佐久良東雄ら三人で結んだ契りでごく深い親友です。

色川三中・・・醤油醸造を営む傍ら、図書の収集筆写の他、学者を後援し佐久良東雄ら志士らの活動資金を提供しました。
          尉信は、水戸からの借用・書写史料を三中に提供し、三中の古文書の書写・収集の一助となりました。

佐久良東雄・・・下林村観音寺に入り「万葉法師」と称えられた住職康哉の弟子となります。
        尉信は東雄の『万葉集和歌抄』を保存、義兄弟色川三中の弟美年が読み仮名を付しました。
        ※ 万延元年(1860)3月の桜田門外の変に連座、吟味中絶食し6月27日獄中で亡くなりました。
          遺骸は小塚原の回向院にあります。墓所は土浦市の善応寺です。

遠来の友
仙台の小野寺鳳谷、関宿藩の船橋随庵、久留米藩の村上量弘

小野寺鳳谷・・・仙台伊達氏の一族で、松山茂庭氏の家臣。尉信の肖像画2点を残しました。
        天保6年(1835)年6月1日、筑波山探勝の帰途尉信を訪問します。
        尉信を「性質卓犖、不覇の士なり、余の資あれば必ず書籍を購う」と評しています。


         

船橋随庵・・・関宿藩士
       明治28年(1895)建立の「船橋随庵先生水土功績之碑」があります。
       治水に関する学問は、長島尉信に学ぶところが大きく、後年、『長島尉信の記』を著します。

村上量弘・・・筑後国久留米の生まれ
       天保13年(1842)4月に水戸に入り、翌年3月まで会沢正志斎の塾に学びました。
       『水戸見聞録』の中で、「土地方御正しの事」として水戸藩の検地を記し、特に長島尉信の功績を称えています。
       水戸を去る尉信に対して「長島翁の土浦へ帰るを送るの序」を記し、「田制において、その一・二を知るを得るは、皆翁の賜物なり」と感謝しています。

高山彦九郎に心酔
高山彦九郎は、上野国(群馬県)新田郡細谷村の郷士高山家に生まれました。
林子平・蒲生君平と並んで「寛政の三奇人」と称され、勤王家、孝道の実践者、名も無き人々への愛を持った人物です。
また、全国を旅して地域の実情を「旅日記」として記録しています。
久慈(岩手県)の琥珀の埋蔵・発掘の様子や奥羽地方の天明の飢饉の惨状など詳細に書かれています。
善政を奨励し、救民運動の支援をしました。

清心な心の持ち主
安永9年(1780)6月の富士登山の際に、「身をつつしみ清め大小便をしないように努めた」
山を信仰の対象と考える自然観や思想があらわれています。

封建時代という閉鎖された時代に旅を重ね、各地優れた人物を紹介しました。
情報を交換することで互いの連帯を図っていったネットワーカー的存在となった意義は大きいと思いました。

寛政2年(1790)5月、蝦夷地渡航を決意し途中水戸へ寄り7月1日藤田幽谷を訪問。
日記には、「一正(幽谷)と大義の談有りける、一正能く義に通ず」
「才子にして道理に達す、奇也とて、よろこび語る事ありける」と記して幽谷の将来に期待している。

長島尉信の高山彦九郎遺書蒐集
天保6年(1835)10月、実際に蒐収し作成した『高山氏遺書漫録』壱を作成し、藤田東湖、市毛幹規、杉山忠亮、桜任蔵、村上量弘、加藤桜老、大久保要、藤森弘庵、有馬新七ら同志同好の士に分与しました。
翌7年~同9年10月のおよそ2年の間に「高山紀行集」「高山氏安永四年北国日記」「高山子遺書漫録」二・三・四・五「古河渡の記」「小田原行」「武江旅行記」「赤城従行」「小股行」「沢入道の記」「子安神社道記」「武州旗羅」などを集中的に筆写しました。

      

長島尉信歿後の高山遺品と矢嶋行康
<長島家の高山日記>
彦九郎の自筆日記四冊
安永6年(1777)の「丁酉春旅」、天明2年(1782)の「江戸日記」「京都日記」、天明3年の「京都日記」

<矢嶋行康>
天保7年(1836)信州海野宿(上田市)に生まれました。江戸に出て平田鉄胤の門下生となり、高山彦九郎を深く欽慕し、安政元年(1854)19歳頃からその遺墨遺品の蒐集につとめ、その譲り受けできないものは、いかなる遠路も厭わず訪ね行き、書写してその大部分を集めました。
明治5年(1872)から6年にかけて長島家を訪ね彦九郎関係の資料を書写します。
矢島家が所蔵している尉信の自筆本は「高山子遺書漫録」「高山仲縄紀行集」「安永四年北国日記」などがあります。

行康は、集めた彦九郎関係の資料を上田藩の能書家二人と経師屋を雇って住まわせ、表装・整理しさらにその複製本をつくらせ『玉能御声』や『高山錦嚢』などにまとめました。
現在は、群馬県太田市の高屋彦九郎記念館が所蔵しています。

<林鶴梁の矢嶋行康への警告>
「彦九郎の万巻の書を所蔵していても、彦九郎を目標として行動できるかどうか。あなたの覚悟はどうか、単なる好事家、収集家であってはならない」と。 

まとめ
長島尉信は、慶応元年(1865)7月に土浦藩を退きます。小田村へ戻り10月にこれまでの志願成就を謝して、田向延寿院に「獅子頭」を奉納しました。
この時、生涯を顧みて「ひとらしき我にあらねどひとまねにまことひとつを置き土産かな」と詠み「やす信」と署名しています。

壮年期は名主業を精力的に務め、引退後は新たな学問に挑戦しそれを活かしました。
また、高山彦九郎に心酔 傾倒し、人脈を通してその顕彰に努めました。地道に誠実に、「まことひとつ」を貫いた人生であったといえます。

慶応3年(1867)7月16日、87年の生涯を閉じました。つくば市小田田向の延寿院境内の墓地に眠っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする