水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

明治の光輝を訪ねて

2023-11-21 05:59:36 | 日記

「文化遺産シリーズ」の一環として、「明治の光輝を訪ねて」をテーマに令和5年11月9日(木)、靖国神社、遊就館、明治神宮、聖徳記念絵画館を訪ねてきました。明治維新前後に国家のために尊い命をささげられた人々の御霊を拝し、明治維新以降の近代日本国家の興隆の中心として国民をリードされた明治天皇の遺徳を偲びました。

1 靖国神社
 明治2年(1869)6月29日に明治天皇の思し召しにより建てられた「招魂社」に始まります。その位置は、皇居より高い九段層の台地であり、ここに明治天皇が御祭神である御霊を仰ぐ御心を拝すことができます。同7年1月27日、明治天皇が初めて御親拝になられ、「我国の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製を残されています。同12年6月4日に社号が「靖国神社」と改称されました。

 御祭神は、246万6千余柱におよびます。幕末殉難者関係では、天狗党を含む水戸藩出身者が1480余柱と、2位長州藩の700余柱を大きく超えていることに驚きました。遊就館では、大東亜戦争で戦死された若き兵士たちの凛々しい顔の写真群に身を正されました。境内には、軍馬、軍犬、通信鳩などの銅像も建てられ、慰霊されていました。

                   

2 明治神宮
 明治神宮は、明治天皇崩御後の大正9年(1920)11月1日に創建され、御祭神は明治天皇と昭憲皇太后です。資料として、明治神宮の社誌『代々木』が配られ、その中で元東大教授平泉澄博士の一文の高杉晉作東行が唱えた「強兵の本は、人心を一にするにあり」が印象的でした。平素は万民異なるところ有ってよいが、非常時には、全国民一致団結してこれに当たることが明治の精神であり、国家存立の基であることを再認識しました。

 明治天皇の御製
  実をすてていさををたてし人の名はくにのほまれとともにのこらむ

 昭憲皇太后の御製
  かくばかりみ国のためにつくすかとおもふにむねもいためけるかな

百年後の森として計画された人工の森ではありますが、その深淵さに身も心を清められた思いでした。

 

3 聖徳記念絵画館
 明治神宮外苑のいちょう並木正面に見える近代西洋風の美術館が聖徳絵画記念館です。明治天皇の御生涯を軸に、幕末から明治の輝かしい時代の歴史的光景が80枚絵画に納められています。注目の絵画一点は、木村武山が描いた明治天皇が隅田の水戸小梅邸に行幸された絵です。勝海舟と西郷隆盛の江戸城明け渡しに関する会談の場面、水戸藩出身者で唯一明治政府の中で活躍された皇后・皇太后宮大夫香川敬三の雄姿なども印象的でした。

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旅して学ぶ琉球・壱岐・対馬の歴史

2023-11-21 05:31:30 | 日記

水戸歴史に学ぶ会「文化遺産シリーズ」第3回講演会が、11月5日(日)「旅して学ぶ琉球・壱岐・対馬の歴史」と題して開催されました。講師は谷口邦彦氏です。

歴史を知ることは、現地に直にふれて体感することが重要です。その意味で、谷口氏の講演は大変意義のあることでした。大陸清国・台湾と日本の薩摩藩にはさまれた中で独立を維持することの困難さが示され、大陸と半島に直接対面する壱岐・対馬の緊張感と親和策との交錯が伝わってきました。

1 沖縄
谷口氏は高校生時代の1969年、青少年赤十字沖縄派遣団の一員として沖縄に渡っています。その時の印象、「那覇港には軍港の雰囲気が漂っていた。そこかしこに星条旗が上がっている。どこを探しても…いやあった。日本の旗が。一番気持ち良い旗だと思った。沖縄は、日本であって日本ではないのだ。パスポートの重みがずっしりと感じられた」と記しています。
健児の塔で頭をたれ、摩文仁の丘に立つ。´黎明の塔´が立ち、はるか下には紺碧の海が望まれる。断崖で行きづまり、海に落ち込んだ丘に立つと、絶望の絶叫が聞こえてくるかのようである。平和でなければいけないとつくづく感じる。

  

2 壱岐・対馬
朝鮮半島と壱岐・対馬を含む日本の戦いは、660年の半島先端に位置する百済の救援がある。日本の敗戦である。1019年、高麗北方の女真族が突然壱岐・対馬・筑前を襲った。藤原隆家らが勇敢に奮戦撃退している。元と高麗との連合軍が侵攻してきた1274年の文永の役や1281年の弘安の役では、対馬の宗資国、壱岐の少弐資時らが奮戦撃退させた。
1438年以降、朝鮮に通行する日本人は宗氏が支配し、宗氏は日朝貿易に重要な位置を占めた。朝鮮通信使の始まりもこの頃である。
近江出身の儒者雨森芳洲がいる。芳洲は、対馬藩の儒官となり、文教・外交・政治・経済など多方面で対馬藩に貢献した。芳洲は「誠信の交わり」を説いた。人々の申す事、多くは字義を明確にわかっていないことがある。誠信とは実意のことであり、互いに欺かず、争わず、真実を以て交わることをいうと述べている。


日朝両国が、双方ともにそれぞれの国益を背負いながら、虚々実々の外交折衝の厳しい現実の中にあって、なおそれを超えて進むべき灯火として、日朝両国に向けて発せられたメッセージである。これらは、現代の国際交流の時代においても、燦然と輝くものである。

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