水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

櫻田烈士、關鐡之介の潜伏墻をゆく

2024-02-26 20:24:06 | 日記

令和6年2月4日(木)那珂市ふれあいセッターごだいに於て、「櫻田烈士、關鐡之介の潜伏墻をゆく」のテーマで講演会を開催しました。講師は水戸史学会理事の飯村尋道氏です。 桜田門外の変の中心人物の一人である関鉄之助について、事件後の鉄之助の潜行とそれに助力した藩内の主な人々を紹介したものです。関鉄之助の忠義心と助力した人々の義侠心に感慨深いものがありました。

関鉄之介
 水戸藩北郡奉行所郡吏、気概節義にして詩歌をよくし横笛を嗜む。万延元年(1860)3月3日、江戸城桜田門外で大老井伊直弼を襲撃暗殺した時の現場指揮役。 事変後.西国に逃亡するも容れられず、同年7月下旬、袋田村の豪農櫻岡源次鵆門を頼り当地に潜伏。翌文久元年(1861)8月頃までの1年余りを袋田、小生瀬、高柴、西金など潜伏先を変え隠遁の日々を送る。探索の目は日増しに厳しく、8月下旬、高柴村の岩屋山の洞窟に潜伏、重要指名手配人に安住の地はなく.危機一髪にして高柴村を脱出、外大野の栗生峠から奥州に逃亡、伊香村の青砥伊十郎の土蔵に10日余り潜伏後、北越に逃亡。同年10月24日、北越の湯治場「田屋旅館」に潜伏中に水戸の捕吏に捕縛、水戸赤沼獄に入獄。翌文久2年4月、小伝馬町の獄に送られ5月11日に斬首された。享年39歳。

はじめに、横田門外ノ変で捕縛された冥賀村の菊池忠衛門。慶応元年(1865)7月3日。川越藩で入牢、割腹自決している。

《支援し匿った者たち》

袋田村の桜岡源次衛門
 
庄屋、山横目。「横田門外ノ変」に軍資金を提供し、関鉄之介を隠匿幇助した最大の支援者。自宅敷地内の蒟蒻会所に関を匿う

  関鉄之介歌碑 (昭和13年.題額田中光顕、碑銘峰間信吉)
    かじかなく 山川みすの うきふしに
        あはれははるの よはにもそしる

西金村の小室吉十郎
 文化11年(1814)生、庄屋.山横目。安政の大獄で処罰された烈公の雪冤や湊戦争に奔走。桜田義挙後、関を母屋の厠付隠し部屋に匿う。
 元治元年(1864)10月、川越藩に幽囚後、佃島に流罪。明治元年(1868).赦免され奸賊追討の勅諚を奉じて弘道館戦争に従軍。明治35年歿(89歳)。

肥後五左衛門(小生瀬村)
 文化9年(1812)生。組頭。万延元年(1860)3月3日の桜田義挙の朝、桜岡家からの軍資金2百両を芝愛宕山の関らに届けた人物。
 関を水車小屋に匿い、魚捕りに変装し食物を運んだとの説もあるが、当家の話では厩の屋根裏に匿つたという。
 関は五左衛門について「久契ただならず質実なる男なり」とその誠実さに信頼を寄せている。
 元治元年(1864)10月、川越藩に幽囚、佃島に流罪。明治元年、赦免され諸生派を奥州白川に追討。明治14年歿(70歳)。

 関鉄之介からの礼状
  ついにまた みをおくやまのしたしばに つゆのめぐみは きわまりにけり

庄屋大藤雄之介(小生瀬村)
 庄屋、通称傳五兵衛。天保5年(1834)4月、烈公の北郷筋御巡村時の御本陣。また安政4年(1857)正月の水戸藩尊攘激派による高柴山での軍事訓練でも本陣となる。
 関は逃亡中の万延元年(1860)8月に白河へ湯治療養に行き、その帰途、大藤家に12日間も潜伏逗留し、雄之介の妹が土蔵(酒蔵)に食梅を運んだ話が残っている。
 元治元年(1864)10月、上総請西藩に幽囚、佃島に流罪。明治元年春、赦免となり帰国。

石井重衛門(小生瀬村)
 文政2年(1819)小生瀬村寺地の生れ。下野宮村兼帯庄屋山横目。重衛門は桜岡源次衛門の甥。
 関の日記に桜田義挙直後に大坂の客舎で重衛門と邂逅し、故郷の様子を聞き家族からの手紙なども届けられて「頗る安堵せり」とある。逃亡潜伏の関に頻繁に情報提供をし幇助する。

金沢惣七郎(小生瀬村)
 文化11年(1814)小生瀬村生れ.上高倉村、下高倉村庄屋。関の日記には惣七郎が関の潜伏先に頻繁に出入りしている様子が記してある。逃亡潜伏の関を支援している。
 元治元年(1864)10月、川越藩に幽囚、歳余後に岩槻藩へ預けられ、明治元年(1868)2月赦免。

益子喜衛門(高柴村の庄屋)
 久慈郡太田村の立川治右衛門の実弟。庄屋、山横目、屋号「中野在家」。弘化甲辰の難(1844)で烈公の雪冤に奔走する。
 万延元年3月の桜田義挙では関鉄之介を支援し、また隠匿幇助の罪を間われ、同年12月下旬の赦免までの数月間、大宮牢に投獄される。桜田義挙後、逃亡中の関を自宅の納戸などに隠し幇助した。

柏弥左衛門(組頭)と倅五郎兵衛 ともに高柴村
 柏五郎兵衞、天保7年(1837)生。関を大沢の穴観音がある岩屋山の洞窟に文久元年(1861)8月下旬2~3日匿った。
 潜伏を嗅付けた捕吏が洞窟に踏込む直前に逃亡したが.食事を運んだ屋号付きの重箱を忘れたことで足が付き、捕縛訊問を受けた。 

青砥伊十郎(伊香村の庄屋)
 青砥伊十郎は棚倉の八槻村生れ、青砥家の婿養子、庄屋。義侠心に冨み酒豪豪胆で、博徒浮浪人の面倒や棚倉自河両藩の浪人の職の斡旋等に一肌脱ぐという男気のある人物。
 危険が我が身に及ぶのも恐れず重要指名手配人の関鉄之介を土蔵に隠匿。

《関鉄之介.奥州伊香村を脱出し死出の旅へ》
 伊香村の青砥伊十郎宅の土蔵の地下に10日余り潜伏の後、越後に逃亡
 文久元年(1861)10月24日、潜伏先の越後湯沢にある雲母温泉の湯治場「田屋旅館」で捕縛。水戸赤沼獄に入牢、翌年4月5日江戸日本橋小伝馬町の獄に移送、同年5月11日、斬首(享年39歳)、遺骸は千住小塚原に捨てられた。

《父:鉄之介の受けた恩義を忘れなかった遣児たち》
 鉄之介の遺児・誠(誠一郎)と実弟・恕(強介)から青砥家への感謝の礼状も届いている。

 茨城縣水戸市上市鳥見町 關恕 明治廿九年一月
  福島縣東白川郡高城村大字伊香  青砥健作宛て

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水戸藩と梅

2024-02-26 19:26:29 | 日記

令和6年1月28日(日)、那珂市ふれあいセンターごだいで新春講演会を開催しました。
テーマは「水戸藩と梅」、講師は当会代表齋藤郁子でした。
寒中にあって天下に先駆けて花を開き、清らかな香りを漂わせる梅花を愛でる心は「水戸の心」でもあります。

義公光圀と梅
 義公の号は「梅里」、隠居所の西山御殿には梅木やカリン、桃木などがあり、書斎の丸窓を通して前庭の白梅が見える。梅は「好文木」とも呼ばれました。
 水戸城下の中御殿は義公誕生の地、義公祠堂があり「誕生梅」がある。義公の母久子が、無事の誕生を祈って植えた梅の木です。
 義公若き日の戯れに、欲しかったある家の梅の木を雨の激しく降る夜に密かに盗み出したことがあったという逸話ものこっています。

烈公斉昭と梅
 駿河産の青罦梅(梅の実)がよいことを聞き、種梅を取り寄せて蒔いたけれども発芽しない。そこで、さらに今の静岡市にある府中の幕府の役人に頼んでわずかに二個をもらって蒔いたところやっと発芽した。烈公がこのように良種を得ることに苦心されたが、城下の梅は次第に少なくなっていたという。そこで、接ぎ木をも考案したといわれます。

 ● 烈公作の「弘道館梅花を賞す」はよく知られています。

    弘道館中千樹の梅        こうどうかんちゅう せんじゅのうめ
    清香馥郁として十分に開く    せいこうふくいくとして じゅうぶんにひらく
    弘文豈に威武無しと謂わんや   こうぶんあにいう いぶならんかと
    雪裏春を占む天下の魁      せつりにはるをしむ てんかのさきがけ

種梅記碑
 弘道館の敷地内に種梅記の碑が建っています。要約しておきます。

 天保4年(1833)、はじめて水戸に帰国して領内に梅の木が少ない事を知り、江戸後楽園の梅の実を採って育てていた。  それを偕楽園及び近郊の空き地に植えさせていた。今年同11年帰国したところ、よく育っていた。このたび弘道館が新に創建された機会に館の敷地内に数千株を植え、国中の家毎に各々数株を植えさせた。そもそも梅の樹は、華は雪を冒(おか)し春に先んじて風流の友となり、実は酸を含んで渇(かわき)を止め、軍旅の用ともなる。まさに「備へ有れば患いなし」である。数年の後には、文学も盛んになり、戦時の備えを充実するであろう。孟子が「七年の病に三年の艾(もぐさ)を求む」というように十分な備えが必要なのである。戒めとしなければならない。

 烈公は、弘道館の精神が海外にまで広がることを祈って「葦原の 瑞穂の国の外までも にほい伝えよ 梅の華国」とも詠んでいます。 

武田耕雲斎宛の烈公書簡(安政元年6月16日付)を通して弘道館に於いての学生指導の心得について紹介しました。

 武田耕雲斎が学校総奉行として弘道館の運営に関与していた際に、斉昭公から受けたものです。

 弘道館の梅も偕楽園の梅も、江戸小石川藩邸の奥庭にあった梅実を年々大切に育ててきたものである。それだけに、神社地に限らず、弘道館内や偕楽園に於ても、人々が枝を折ったり実を盗み取るようなものがあったならば厳しく注意するように。
 そもそも気風は、少しでも寛くし始まると、やがては大きな乱れとなっていくことを肝に銘じておくように。もし梅の実をもぎ取る者が出たら、親へ言いつけ、子供は謹慎させるような厳罰で臨むように。
 藩の気風は、6代文公治保の時には芋の葉一枚でも無断で取った子供が乳母を含めて謹慎させられた。7代武公治紀の代には少し寛やかになったが、未だ先代の気風が残っていた。それが、8代哀公斉脩の時には折角隅田下屋敷から取り寄せて生かした鯉を投網で盗み取り料理するまでに乱れてしまったのである。
 学生の指導には、よくよく留意するようにと。

浪華梅の歌碑
 義公が嘗て、浪華の高津宮から一本の梅樹を彰考館の前庭に移し植え、これに「浪華梅」と名づけられました。百数十年の後、烈公の時代にはそれが既に老木となつて薫りを伝えていたので、烈公が一首の和歌を詠ぜられたことがあります。
その歌碑が、現在義烈館の前に建っています。碑面にはその和歌を、慶喜公の書で刻んであります。

  家乃風 伊萬母薫理乃都伎努爾存 不美古能武起乃 佐可梨知良流々
 「家の風 いまも薫りのつきぬにぞ ふみこのむきの さかり知らるる」

なお、碑陰にはその由来が碑面一杯に誌してあります。粟田寛の撰で仮名まじりの擬古文です。要約しておきます。

 むかし、百済の王仁が論語をもたらしたが、その中に家督相続にあたって兄弟譲り合いの話があった。王仁に学んだ仁徳天皇にも皇位継承にあたって御弟と譲り合いのことがあった。王仁は、仁徳天皇の即位を祝い「梅のよい香りが世をひろく蓋い、文学も盛んになった」との和歌を詠んでいる。その後、菅原道真をはじめ忠誠の心を以て朝廷に仕える者が、みな梅を愛でたことは深い理由のあることである。
 そもそも義公光圀は、若い時より文武の業をたしなみ、彰考館を設けて、日本史を編纂するために、全国から学者を招き、殊にこの梅花を愛でたあまり、難波の宮にゆかりのある梅の木を、その彰考館に移し植えて、学問の隆盛をこの梅花の盛りとくらべようとされたと聞いている。この心を代々の藩主も受け継いで、『大日本史』の「紀伝」を完成させ刊行したことから、烈公斉昭も「志・表」を完成させようと、さらに学問を盛んにさせた。折しも、この梅の木はますます多くなり、花の香りも水戸領内に満ち満ちて来たので、「家の風 今も香りのつきぬにぞ 文好む木の さかりしらるる」と詠ませたのである。すべて世に盛衰栄枯はあれども、明君賢臣が国の為、世の為に御心を尽されることは、古今とも変わりはない。さてこの常磐神社に祀られる義烈両公のその功徳を忘れることはないが、さらに志ある人々はかの難波の梅の香りも長く世に伝へようと、碑を建て烈公の御歌を選んで刻んだのである。このことは、主君と臣下とのけじめを持つ正しい学問をいやますますにひろめて、叛逆を繰り返す大陸の革命をまねることない国であるようにと、義公、烈公に祈願することと同じである。
 そこで私栗田寛が、皇室の永続を願って次のように詠んでみました。「この花の にほふが如くうるはしき 神の御稜威を 心あがめむ」

まとめ
 梅は清楚高雅であり、人々そろってともに楽しむ「民衆偕楽」、気を養うに良いものです。また、軍旅の糧食の足しにもなるといわれるように食糧にも欠かせないものです。寒風の中、天下に先駆けて咲き出す梅のように、今年も元気にはつらつと、前向きに歩み続ける一年としたいものです。

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