水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

令和5年 春期講演会のお知らせ(終了しました!)

2023-03-24 06:17:55 | 日記

昭和の日記念 会場:那珂市中央公民館(茨城県那珂市福田)
 4月29日(土)「昭和天皇と終戦の混迷」

◎「小田村(つくば市)庄屋長島尉信シリーズ」 会場:那珂市ふれあいセンターごだい
 5月  7日(日)「神皇正統記と水戸」
 5月28日(日)「長島尉信と遠来の友」
 6月11日(日)「長島尉信と高山彦九郎」

特別講演 会場:アルスホール(つくば市) 駐車場はございません
 5月17日(水)「農政学者:小田村庄屋 長島尉信の生涯」
 ※講演内容は令和5年1月15日水戸常陽藝文センターと同じです。
 

以下共通
講 師 仲田昭一氏
時 間 10:00 ~ 11:30
参加費 各回300円(資料代等)
定 員 100名(申込み不要 ; 当日先着順)

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山川菊栄 -青山家の女性たち―

2023-03-23 07:15:14 | 日記

3月19日(日)、那珂市のふれあいセンターごだいで会代表の齋藤郁子が講演しました。
今回は、5年前に「時代に輝いた女性たち」として展示発表をした内の「水戸藩学者 青山家」の女性を紹介しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1 菊栄の母
 青山家は水戸藩の『大日本史』の編纂や弘道館の教授を務めた学者一家で、人間関係は「人物関係図」に示した通りです。
 菊栄の母は青山千世、その夫君は森田龍之介です。夫竜之助は事業に忙しく千世が家を支えていました。
 千世は言葉や動作に厳しく、子供たち皆に茶の湯を、長男と長女に論語の素読を教授しました。
 家計の補いとして娘菊栄と筆耕の内職をすることもありました。それが文筆家となる基礎を作ったといえます。
 兄弟姉妹は、た同じ本を読んでは互いに遠慮なく議論を重ねていったことも、物事を突き詰め、論理的に考えていく性格を育んだといえます。

2 菊栄
 18歳で津田塾入学しますが、入学試験の課題「抱負」に「婦人解放のために働く」と書いたことは、生涯ぶれることはありませんでした。
 26歳で山川均と結婚。
 夫君と『社会主義研究』を発行して、婦人及び下層社会への視点を深めて行きます。
 特に、不遇な犠牲的存在であった婦人の解放に留意し、その中の一つ廃娼論者として、根本解決には先ず貧困の問題解決が必要であると言及しました。

 戦後は、その功績をGHQも認めて労働省婦人少年局初代局長に任命しました。
 退任後はフランスやイタリアなど欧州を訪問し、婦人及び青少年の人権擁護に力を尽くすことになります。

 弱者へ目を向けた社会主義者であり、権力に抵抗する姿勢を示していたこと、歯に衣着せぬ言論から誤解されがちでしたが、皇室反対者ではありませんでした。
 著書の『武家の女性』『女二代の記』『覚書 幕末の水戸藩』は有名で、多くの人々に読まれています。

 その時々に輝いた素晴らしい人がたくさんいます。
 「輝く」のは、自分次第ではないでしょうか。

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久慈川の水運

2023-03-12 15:44:24 | 日記

3月5日(日)、会場:ふれあいセンターごだいに、常陸大宮市の高村恵美さんをお迎えして、「久慈川の水運」と題した講演会を開催しました。

近世に於ける東北地方や北関東の諸物資は、那珂川や久慈川の水運を利用し、さらに北浦や利根川、江戸川を介して江戸市中に入った。

その実態と問題点を捕らえて、当時の流通経路を学ぶことで、先人たちの苦労と今後の河川利用などの課題にも目を向けさせられた内容でした。

1 『水府志料』によると、近世における久慈川の舟運は、大子町下野宮以南から上岩瀬の間で行われたと考えられる。上岩瀬より下流では河岸の記述はないからである。

2 上流に於ては、棚倉で舟運事業の許可願いが展開されているが、貞享・享保時代(1700年前後)に久慈川の洪水などにより中断の時期がある。

3 宝永6年(1709)以降は棚倉米が下野宮下流で久慈川水運を利用し、高和田河岸(常陸大宮市)から那珂台地を横断し、那珂川の小野河岸(常陸大宮市)へ陸送されている。
  その間に於て、河岸設置権利取得の問題も起こっていた。

4 那珂台地の内陸運送は、久慈川の舟運、現常陸大宮市内の河岸から陸送で、西側の那珂川河岸へ送られ、那珂川の舟運で湊まで下り、涸沼川を下って涸沼へ入る。
  涸沼から陸送で北浦へ運び、利根川へ出て関宿まで遡り、関宿から江戸川へ入って江戸市中へ運ぶ路線が通常であった。

 

5 陸送部分について、大量輸送が可能となる舟運の開発が計画された。その一つは久慈川の額田地区から菅谷地区の早戸川を利用して那珂川に出るコースである。
  他の一つは、涸沼から巴川までの間を通す「勘十郎堀」の開削である。しかし、前者は計画の域を出ず、後者は地質・勾配の調査不足もあって失敗であった。

6 結局、久慈川は水量、浅い川底などもあって、舟運の機能を十分に発揮することが出来なかった。

※ 久慈川水運の疑問が一つ。大宮の高和田河岸まで下ってきた舟運が、なぜそこで陸揚げされて那珂川方面へ陸送されたのであろうか。
  下流域は水量も多くなると思われるのであるが。砂が多く、川底も予想以上に浅くなるのであろうか。

今後の河川の価値位置づけ、利用の方法、水資源の汚染防止と保護など、人間生活の在り方如何を常に念頭に置く必要があると思われる。

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