令和6年2月4日(木)那珂市ふれあいセッターごだいに於て、「櫻田烈士、關鐡之介の潜伏墻をゆく」のテーマで講演会を開催しました。講師は水戸史学会理事の飯村尋道氏です。 桜田門外の変の中心人物の一人である関鉄之助について、事件後の鉄之助の潜行とそれに助力した藩内の主な人々を紹介したものです。関鉄之助の忠義心と助力した人々の義侠心に感慨深いものがありました。
関鉄之介
水戸藩北郡奉行所郡吏、気概節義にして詩歌をよくし横笛を嗜む。万延元年(1860)3月3日、江戸城桜田門外で大老井伊直弼を襲撃暗殺した時の現場指揮役。 事変後.西国に逃亡するも容れられず、同年7月下旬、袋田村の豪農櫻岡源次鵆門を頼り当地に潜伏。翌文久元年(1861)8月頃までの1年余りを袋田、小生瀬、高柴、西金など潜伏先を変え隠遁の日々を送る。探索の目は日増しに厳しく、8月下旬、高柴村の岩屋山の洞窟に潜伏、重要指名手配人に安住の地はなく.危機一髪にして高柴村を脱出、外大野の栗生峠から奥州に逃亡、伊香村の青砥伊十郎の土蔵に10日余り潜伏後、北越に逃亡。同年10月24日、北越の湯治場「田屋旅館」に潜伏中に水戸の捕吏に捕縛、水戸赤沼獄に入獄。翌文久2年4月、小伝馬町の獄に送られ5月11日に斬首された。享年39歳。
はじめに、横田門外ノ変で捕縛された冥賀村の菊池忠衛門。慶応元年(1865)7月3日。川越藩で入牢、割腹自決している。
《支援し匿った者たち》
袋田村の桜岡源次衛門
庄屋、山横目。「横田門外ノ変」に軍資金を提供し、関鉄之介を隠匿幇助した最大の支援者。自宅敷地内の蒟蒻会所に関を匿う
関鉄之介歌碑 (昭和13年.題額田中光顕、碑銘峰間信吉)
かじかなく 山川みすの うきふしに
あはれははるの よはにもそしる
西金村の小室吉十郎
文化11年(1814)生、庄屋.山横目。安政の大獄で処罰された烈公の雪冤や湊戦争に奔走。桜田義挙後、関を母屋の厠付隠し部屋に匿う。
元治元年(1864)10月、川越藩に幽囚後、佃島に流罪。明治元年(1868).赦免され奸賊追討の勅諚を奉じて弘道館戦争に従軍。明治35年歿(89歳)。
肥後五左衛門(小生瀬村)
文化9年(1812)生。組頭。万延元年(1860)3月3日の桜田義挙の朝、桜岡家からの軍資金2百両を芝愛宕山の関らに届けた人物。
関を水車小屋に匿い、魚捕りに変装し食物を運んだとの説もあるが、当家の話では厩の屋根裏に匿つたという。
関は五左衛門について「久契ただならず質実なる男なり」とその誠実さに信頼を寄せている。
元治元年(1864)10月、川越藩に幽囚、佃島に流罪。明治元年、赦免され諸生派を奥州白川に追討。明治14年歿(70歳)。
関鉄之介からの礼状
ついにまた みをおくやまのしたしばに つゆのめぐみは きわまりにけり
庄屋大藤雄之介(小生瀬村)
庄屋、通称傳五兵衛。天保5年(1834)4月、烈公の北郷筋御巡村時の御本陣。また安政4年(1857)正月の水戸藩尊攘激派による高柴山での軍事訓練でも本陣となる。
関は逃亡中の万延元年(1860)8月に白河へ湯治療養に行き、その帰途、大藤家に12日間も潜伏逗留し、雄之介の妹が土蔵(酒蔵)に食梅を運んだ話が残っている。
元治元年(1864)10月、上総請西藩に幽囚、佃島に流罪。明治元年春、赦免となり帰国。
石井重衛門(小生瀬村)
文政2年(1819)小生瀬村寺地の生れ。下野宮村兼帯庄屋山横目。重衛門は桜岡源次衛門の甥。
関の日記に桜田義挙直後に大坂の客舎で重衛門と邂逅し、故郷の様子を聞き家族からの手紙なども届けられて「頗る安堵せり」とある。逃亡潜伏の関に頻繁に情報提供をし幇助する。
金沢惣七郎(小生瀬村)
文化11年(1814)小生瀬村生れ.上高倉村、下高倉村庄屋。関の日記には惣七郎が関の潜伏先に頻繁に出入りしている様子が記してある。逃亡潜伏の関を支援している。
元治元年(1864)10月、川越藩に幽囚、歳余後に岩槻藩へ預けられ、明治元年(1868)2月赦免。
益子喜衛門(高柴村の庄屋)
久慈郡太田村の立川治右衛門の実弟。庄屋、山横目、屋号「中野在家」。弘化甲辰の難(1844)で烈公の雪冤に奔走する。
万延元年3月の桜田義挙では関鉄之介を支援し、また隠匿幇助の罪を間われ、同年12月下旬の赦免までの数月間、大宮牢に投獄される。桜田義挙後、逃亡中の関を自宅の納戸などに隠し幇助した。
柏弥左衛門(組頭)と倅五郎兵衛 ともに高柴村
柏五郎兵衞、天保7年(1837)生。関を大沢の穴観音がある岩屋山の洞窟に文久元年(1861)8月下旬2~3日匿った。
潜伏を嗅付けた捕吏が洞窟に踏込む直前に逃亡したが.食事を運んだ屋号付きの重箱を忘れたことで足が付き、捕縛訊問を受けた。
青砥伊十郎(伊香村の庄屋)
青砥伊十郎は棚倉の八槻村生れ、青砥家の婿養子、庄屋。義侠心に冨み酒豪豪胆で、博徒浮浪人の面倒や棚倉自河両藩の浪人の職の斡旋等に一肌脱ぐという男気のある人物。
危険が我が身に及ぶのも恐れず重要指名手配人の関鉄之介を土蔵に隠匿。
《関鉄之介.奥州伊香村を脱出し死出の旅へ》
伊香村の青砥伊十郎宅の土蔵の地下に10日余り潜伏の後、越後に逃亡
文久元年(1861)10月24日、潜伏先の越後湯沢にある雲母温泉の湯治場「田屋旅館」で捕縛。水戸赤沼獄に入牢、翌年4月5日江戸日本橋小伝馬町の獄に移送、同年5月11日、斬首(享年39歳)、遺骸は千住小塚原に捨てられた。
《父:鉄之介の受けた恩義を忘れなかった遣児たち》
鉄之介の遺児・誠(誠一郎)と実弟・恕(強介)から青砥家への感謝の礼状も届いている。
茨城縣水戸市上市鳥見町 關恕 明治廿九年一月
福島縣東白川郡高城村大字伊香 青砥健作宛て
の記述は誤り
関鉄之介が捕縛された場所は新潟県岩船郡関川村の湯沢温泉です