水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

源頼朝の父「義朝」の苦悩

2022-04-04 18:54:51 | 日記

 令和4年4月3日(日)、「『大日本史』にみる鎌倉御家人たち」のシリーズの一つ源頼朝の父「義朝」の苦悩が開催されました。(講師は、本会事務局長の仲田昭一氏)

 保元の乱(1156)・平治の乱(1159)に登場する人物の行動が、今日の私どもの生き方を考える上で大切なことを教えているように思われました。保元の乱は、朝廷・摂関家の対立に源平の武士が関与したことから、いよいよ武家社会の時代に入ることになります。

1. 保元の乱
① 朝廷内では皇位継承をめぐって鳥羽法皇・後白河天皇と崇徳上皇が対立。
② 藤原摂関家では、本家「氏の長者」の所属をめぐって関白藤原忠通と藤原忠実・頼長父子の対立が原因です。源義朝は、平清盛とともに保元の乱に勝利した側の大将でした。

 戦後の処分として崇徳上皇は讃岐へ配流となり、秀才であった内大臣頼長は戦死。それまで約300年間も執行されなかった死刑が復活し、平清盛は叔父の平忠正を自ら処刑し、源義朝も父為義を処刑しました。
 この時の義朝の心境を『大日本史』は、「詔旨に従はば則ち逆罪を犯さん。しからずんば則ち違勅に坐せん」と記しています。父を斬るか、天皇の命に従うかの葛藤に苦悩する義朝です。この死刑案は、後白河天皇の近臣少納言藤原信西通憲です。智謀才略は一世に抜きんじていましたが、血も涙もない人物でした。

 この「義朝」の苦悩を自分に置き換えてみて、「みなさんならどう判断されますか?」と講師の問い掛けがあり、受講生の意見が多々述べられました。
 関心が高まった瞬間でした。

2. 平治の乱(平治元年:1159)
 その後の勢力争いは、藤原家内部では藤原信西と藤原信頼です。源義朝と平清盛も必至でした。
 結果は信西は自害し、信頼は謀反人として斬首されました。源義朝は、家臣の鎌田政家らとともに京都を脱出し、長田庄(愛知県)にいた政家の舅長田忠致を頼って行きましたが、忠致の謀略により殺害されます。父義朝に随従していた頼朝(13歳)は、落伍して平宗清に捕縛されました。清盛は頼朝の処刑を主張しましたが、清盛の継母池の禅尼や長男の重盛の取り成しで処刑を諦め、伊豆へ流すこととなりました。

3. 評価は如何に
 保元の乱以降、暗雲は天を覆い、人倫・道徳を踏みにじった日本の一大不幸といってもよい。藤原信西の栄華はわずかに3年、義朝も3年でありました。これに鉄槌を下したものは、南朝方の忠臣であった北畠親房です。親房は『神皇正統記』の中で、「(義朝の行為は)大いなる科なり。古今にも聞かず、和漢にも例なし。勲功に申し替ふとも、みづから退くとも、などか父を申し助くる道なかるべき」、この処断「朝家(朝廷)の御誤りなり」と断じ、誰も諫める者が出ていない状況を無念に思い、さらに「保元・平治の天下乱れて武用さかりに、王位軽くなりぬ」と論じています。
 この後は、平氏の短い栄華を経て源頼朝の登場となります。

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