水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

長島尉信と遠来の友

2023-05-28 21:53:44 | 日記

令和5年5月28日(日)、「小田村庄屋長島尉信と遠来の友」と題して、当会事務局長の仲田昭一が講演しました。
長島尉信は、庄屋引退後に学んだ農政学(測量・暦学など)を活かして水戸藩や土浦藩両藩に仕えました。
その間に交流した友人は全国にわたっていますが、その友人たちもまたお互いに交流を深めていきました。

尉信は、遠来の友として仙台の小野寺鳳谷、関宿の船橋随庵、久留米の村上量弘を挙げています。
近隣の友としては筑波山麓の佐久良東雄、土浦の色川三中との2人を挙げ、互いに「義兄弟の契り」をしたと表現し、その交流の親密さを示しています。

そのような意味から、長島尉信はネットワーカー的存在であったといえると思われます。この講演では、その中の代表的人物を紹介しました。

遠来の友<仙台の小野寺鳳谷、関宿の船橋随庵、久留米の村上量弘 >
小野寺鳳谷
小野寺鳳谷は.前回のブログでも紹介したように長島尉信の肖像を二度にわたって描くほど昵懇の中でした。
一つは、水戸藩の追鳥狩に参加した時のもので、他の一つは、蔵書を後ろに机に座してのものです。
この小野寺鳳谷は、仙台郊外の松山藩内木間塚村(鹿島台町)字竹谷の農家に生まれで、鳳谷は号です。
仙台藩の儒員に抜擢され、藩校養賢堂の教官となり、当時の藩校の混迷に対しての時務策にも心をそそぎ、産業の振興、特に海防や治世の学を探究しています。そのかたわら詩文や絵画を能くし、地図を描けばその精密さは抜きん出ていたといわれました。
小野寺鳳谷は、仙台藩医師福井道元宅で、尉信が道元へ送った手紙を見て尉信のことを知ったとされています。鳳谷は、天保6年(1835)6月、筑波山探勝にでかけ、帰途小田村に尉信を訪ねます。ここで尉信は、鳳谷所持の念願の「玉造遊記」を筆写し、鳳谷は尉信が所蔵する蒲生君平の「今書」(「当今の一奇書なり」と感嘆)を閲覧し互いに満足・感嘆しています。また鳳谷は、尉信を評して「性質卓犖、不覇の士なり、余の資あれば必ず書籍を購う」と称えています。

船橋随庵
船橋随庵は、寛政7年(1795)関宿藩(千葉県)に生まれました。随庵はその号です。明治28年(1895)に「船橋随庵先生水土功績之碑」が建てられています。関宿藩は、利根川と江戸川の分岐点に位置しているため、しばしば洪水に悩まされていました。嘉永元年(1848)10月、藩主久世広周が西の丸老中に転じた機会に、幕府に申請して治水事業を起こしましたが、用人随庵はこれに従事していわゆる「関宿用水」を完成させるなど大きな功績を残しています。
随庵の治水に関する学問は、長島尉信に学ぶところが大きかったようです。はじめ随庵は、藩の治水事業を積極的に推進しますが、なかなか領民に理解されず困惑。たまたま、土浦の長島尉信の噂を聞き尉信の門をたたいたのでした。随庵は後年、尉信の生涯をまとめて『長島尉信の記』を著し、その中で尉信の筆力「一日一万字」と称えています。

村上量弘
村上量弘は、文化7年(1810)久留米に生まれ、名を量弘といいます。家は、代々久留米藩に仕え、量弘は十一歳で藩校明善堂の助教となるほどの力を持っていました。天保13年(1842)4月に水戸に入り、翌14年3月まで会沢正志斎の塾に学びます。この間の見聞録が『水戸見聞録』で、他藩人の水戸見聞録としては最も優れたものです。この中に「土地方御正しの事」として水戸藩の検地について記しているが、特に長島尉信について、検地について、「その跡、皆前人未発のところなり」と称えています。
量弘は、尉信が水戸を去るにあたって「長島翁の土浦へ帰るを送るの序」を記し「田制において、その一・二を知るを得るは、皆翁の賜物なり」と感謝しています。これをもっても、尉信と村上量弘の関係を知ることができます。

義兄弟の契り<色川三中と佐久良東雄>
色川三中
尉信は、天保4年(1833)に色川三中と義兄弟の契りを結んでいます。 三中の父が今川家から色川家に養子に入りますが、色川家は醤油醸造を営み、その家業も栄えていました。三中は、その経済力を活用して.図書の収集筆写につとめ、敬神尊王の考えを深めていきます。
また、長島尉信は水戸藩の彰考館及びその史館員から借用・書写してきたものを快く、三中に提供しています。これが三中の古文書の書写・収集を促進することになります。特に尉信から借写した『香取文書』の影響が大きかったといわれています。

佐久良東雄
佐久良束雄は、文化8年(1811)新治郡浦須村(石岡市)に生まれました。東雄は、9歳で下林村観音寺に入り、住職康哉(「万葉法師」の別名もある)の弟子となり、この学統を受け、歌人としての力と純粋な精神を養うことになります。師康哉が死去した後、東雄は、長島尉信を頼ることでこの心的破綻を免れることになります。
天保6年(1835)12月、東雄は真鍋の善応寺に移りますが、同11年11月19日に光格天皇の崩御があり、 12月20日に大葬が行なわたこのころ、東雄が、色川三中の勧めもあって還俗の意志を固めていたようです。天保14年、5月下旬、常陸式内社めぐりに出立するにあたって、名を佐久良靱負と改めています。
嘉永2年(1849)、東雄は大坂坐摩宮の祝部となり、和学・歌道の指導をするとともに出版事業も推進し、平田篤胤の『出定笑語』などを出版しています。安政六年(一八五九)春、長島尉信に「たのもしきもの」として
  ひたすらに かみにいのりてきみにつかへ おやにつかふる ひとのありさま
と詠み送っています。尉信と違って、ひたすらに尊王運動に邁進している姿を見ることができます。
郷里に残っていた尉信は、天保14年に東雄が残していった『万葉集和歌抄』を大事に保存し、同じ義兄弟であった色川三中の弟美年がそれに読み仮名をふっています。所を異にしても.互いに思いやっている姿をここに見ることができます。 

この他に、伊勢の北方探検家松浦武四郎、城里町孫根の尊王運動家加藤木賞三、笠間の加藤桜老、兵庫県但馬の漢学者石田碩一郎らがいます。
全国の勇士と交流する長島尉信の意気盛んな姿を想像することができます。

 

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神皇正統記と水戸

2023-05-10 06:37:33 | 日記

令和5年5月7日(日)、茨城県那珂市のふれあいセンターごだいで、当会事務局長仲田昭一が、『神皇正統記』の意義と水戸との関係について講演をしました。

小田村の庄屋長島尉信(ながしまやすのぶ)は、45歳で庄屋を辞め江戸に出て測量術を学び農政学を志し、水戸藩の検地事業に貢献しました。また、郷土小田村の歴史に強い関心を持ち、三村山清冷院極楽寺の存在や小田城主小田治久が迎えた南朝方の北畠親房が『神皇正統記』を著したことを誇りとしました。水戸藩に仕えていたころには、彰考館の蔵書類を「一日一万字」の筆力で筆写しました。その中でも、尊王の志士高山彦九郎に注目して関係史料を収集しています。

1. 長島尉信の小田村への誇り
天明元年(1781)8月11日から慶応3年(1867)7月16日、87年の生涯でした。
名は尉信、号は郁子園(むべぞの)。
『神皇正統記』巻ノ六(92代伏見天皇から97代後村上天皇まで)を書写し、『郁子園自適集』に「親房卿が小田城に於て神皇正統記および職原抄を書かれたことに決している。喜ぶべし」と記しています。

北畠親房の小田在城は延元3年(1338)10月下旬頃から興国2年(1341)11月の約3年、その後関城へ移り興国3年暮れから翌4年11月にかけて関城・大宝城と北朝方の高師冬軍との攻防戦が続きました。親房は、最後は大宝城へ移り、城陥落後に吉野へ帰りました。親房の常陸在国は5年余りでしたが、その間に著した『神皇正統記』は大きな功績でした。

尉信の郷土偉人への敬意が表れたものとして、天保6年(1835)仙台の親友小野寺鳳谷に第16代小田城主政治の肖像画を描かせ、軸装の地には、自らが新発見・収拾した三村山清冷院極楽寺の古瓦片の拓本を使いました。

古瓦の発見について尉信は、「小田家滅亡後に、これらの古瓦や名家小田氏を知るものなし。この村に関心を持つ者が少なかったからであろう。この古瓦が世の中に認められたのは、今日を嚆矢というべきである」(天保日件要録)と自負しています。

 

2. 平泉澄博士と神皇正統記
平泉博士は、「一生の間、最も大きな感銘を受け、又一生の間の自分の努力、事跡のあとを顧みますと、正統記に終始したと云ってもよい」と明言されています。博士は、神皇正統記が小田城で執筆されたこと、さらにその古写本が水戸市郊外の六地蔵寺にあったこと、神皇正統記の精神を受けて水戸の学問の始祖ともなった徳川光圀が深かったことなどから、博士と水戸との関係は殊の外深いものとなりました。

博士が水戸を初めて訪ねたのは、大正9年(1920)の春でした。同15年10月28日より年々六蔵寺を訪ね書庫の整理をしました。

(1)六地蔵寺の古書整理
 ア)大正15年10月28日から、六地蔵寺にある『神皇正統記』の写本を求めて訪問しました。この際の有力な後援者は飯村丈三郎翁でした。
 イ)六地蔵寺の恵範は中世に於ける特殊の学者で、戦国時代であるにも拘らず非常な深遠な哲学者でした。
 ウ)『神皇正統記』の写本は遂にありませんでした。沢山の貴重なる史料を見出すことが出来ました。
   『神皇正統記』を筆写した恵範は、応仁の乱以後諸国乱離の中で穴居して勉学に励み、自らを土龍と称しました。
   六地蔵寺の方宝蔵からは、土龍上人の著述・筆写した書物類等を見出すことが出来ました。
 エ)更に嬉しい事は、「水戸の人々の至誠・まごころ」です。
   関係者の調査への奉仕はもちろん、恵範の供養塔を建てる際の石屋、恵範の供養文表装の際の表具屋、一晩で仕上げたその熱誠に深謝限りありません。  

(2)六地蔵寺本の発見
 平泉博士が全精力を傾注して探索された六地蔵寺本『神皇正統記』は、平成3年に茨城県史編纂室によって偶然発見せられて六地蔵寺に戻り、同9年に六地蔵寺からその影印本が刊行さました。
 博士の探索後71年目のことでした。

3. 北畠親房公について
『神皇正統記』の著者北畠親房の先祖は、歴代朝廷に仕えた忠臣の家柄です。親房公は、実は至大、至高、殆ど言語に絶する人物でした。公の誠忠は、菅原道真公より勝り、艱難の中に在って大義を守った楠木正成公に類します。これに義公光圀の『大日本史』の編さんを加えたものが「親房公」であると考えればよいと思います。

4. 神皇正統記の執筆とその意義
『神皇正統記』は誰のために、誰を対象として書かれたのでしょうか。親房は、君徳涵養に資するために執筆した初稿本が、武士にまで読まれていることに驚き、そこで武士に理解し易いように筆を入れるとともに、小田・関城から親朝等宛の書簡にしばしば記していた東国武士に対する訓戒を、いわば同時代史である後醍醐天皇条に書加えて、武士にまで対象を広げたのであろうと考えられています。

意義について平泉博士の述べるところ。
① 神皇正統記は血を以て書かれたる歴史である。単なる知識の羅列の為に机上に筆を弄したものではなく、著者の全人格をここに具象化したる結晶である。決して単なる知識慾の満足の為ではない。彼は剣を以て筆とし、血を以て墨とし、全生命を傾注してこの書を完成したのである。字々に通ふものは彼の鼓動である。行々に踊るものは、彼の壮烈なる意気である。著者の全人格は、ここに完全にその影を宿す。本書は実に親房の魂である。万古不滅の魂である。
② 神皇正統記により、建国の精神は生き生きとここに復活した。ここに一たび復活しては、「大日本史」再び之を伝承し、幕末に及んで、この精神全国民に普及するや、ここに明治維新の大業は成ったのである。

5. 神皇正統記の特色
① 題号の示すが如く、正統論の主張が目的であり、また本書の骨随でもあります。
② 注目すべきは本書の発端にあります。その発端は「大日本は神国なり、天祖はじめて基を開き、日神長く統を伝へ給ふ、我国のみ此の事あり、異朝には其のたぐひ無し。此の故に神国と云ふなり、」という書出で、神国日本の特異性を高唱して国民の自覚を促しました。
③ 仏教史観のうち最も強い刺激を我が国民思想に与えたものは末法思想で、我国は百代の天皇を以て限りとするという悲観論である百王説がありました。しかしこれを否定して、天壌無窮の神勅の信依と三種の神器の神聖とを以て、建国の精神を復活させました。この点において、我国の数多き史書の中に、それらの上に、ひとり燦然として不朽の光を放っています。
④ 更に著しいことの一つに正義の強調をしています。「頼朝、泰時の功績を正しく認めて、みだりに幕府を攻撃するは、謂なき事として斥けた条の如きは最も有名である。すべて正しきものは最後の勝利を得る。」道は遂に正路に帰るというのが親房の固い信念でした。ただ、これは武家政権を是認したのではなく、君徳を涵養するために、無理に頼朝・泰時を借りて仁政を説いたのです。
⑤ 君(天皇)として、どうあらねばならないかについて、後嵯峨天皇の条に「神は人を安くするを本誓とす、天下の万民は皆神物なり、君は尊くましませど、一人を楽しましめ、万民を苦しむる事は、天も許さず、神もさいはひせぬいはれなれば、政の可否に随ひて、御運の通塞あるべしとぞ覚え侍る」とあるところです。永く後醍醐天皇に仕へて其の信任を辱くした重臣が、幼主後村上天皇に書き進めた言葉として、やがてここに後醍醐天皇が、天下の万民を神物として大切に思召され、万民の生活の安定を念願せられた尊い御精神を窺うことが出来ます。
⑥ 人臣としては天地自然への畏敬の念と感謝の気持ちを忘れず、誠実に働くことが肝要であるとして「人臣として、君をたふとび、民をあはれみ、天にせくくまり、地に抜き足し、日月の照らすを仰ぎても、心のきたなくして光に当たらざらん事をおぢ、雨露の施すを見ても、身の正しからずして恵みに漏れん事を顧みるべし、朝夕に長田狭田の稲の種をくふも皇恩なり、昼夜に生井栄井の水の流を呑むも神徳なり、是を思ひも入れず、在るに任せて慾を恣にし、私を前として公を忘るる心在るならば、世に久しき理侍らじ、況や国柄を取る仁に当り、兵権を預る人として、正路を踏まざらんにおきて、争か其の運を全くすべき。」と説きました。

6. 神皇正統記と水戸
徳川光圀(義公)が『大日本史』を編さんするために全国から優れた学者を招きました。その一人栗山潜鋒は、はじめ職原抄を読んで親房公の才の大なるを知り、続いて『神皇正統記』を読み、北朝を偽主とみなし、賊徒の終滅を信じて皇統の存続を疑わなかった態度に感嘆しました。

① 義公は、寛文元年(1661)の春六地蔵寺を訪れてから、所蔵されている諸本の保護を計り、ある物は副本をとり、又ある物は修繕し文庫も改繕しました。従ってこの時義公は『神皇正統記』も一覧したことは間違いありませんが、彰考館にその副本もなく、又幽谷以前に校合した者の無かったことは聊か不審なことです。
② 後期水戸学の先駆である藤田幽谷に栗山潜鋒の『保建大記』が大きな影響を与えたことは明瞭であり、『保建大記』が『神皇正統記』に拠っていることからすれば、この頃『神皇正統記』も読破したであろうことは想像に難くありません。常に幽谷の根底に北畠親房はありました。
③ 幽谷の門人会沢正志斎が、国体を説くにあたって、国号の由来、神々の系譜、神勅、神器に関しては『神皇正統記』を引用しています。正志斎の門人であり女婿であった吉田令世も、親房の『神皇正統記』が三種の神器の今世に現存する事を明記したことは、実に有難い書であると感嘆するところです。
④ 幽谷の子息であり門人でもある藤田東湖も、『神皇正統記』に書入れし、朱点を施しています。朱点は、「大日本者神国なり」など国体を、又「異国には此国を東夷とす」など内外の弁を、更に「上古は神と皇と一にましまししかば、祭りをつかさどるは即ち政」など祭政一致を説いた箇所です。東湖が神道研究の基本的問題について、『神皇正統記』から大きな影響を受けたことを示していると云えます。これは、弘道館記草稿に、また『弘道館記述義』となって顕れています。
⑤ 徳川斉昭(烈公)も福井藩主松平慶永に与えた書簡に「神皇正統記などは御覧なされたか、書籍の内、この書ぐらいによく出来た書は無い」と云っています。

 

このように見て来ますと、義公光圀から栗山潜鋒・藤田幽谷・藤田東湖・烈公斉昭らに貫流するものは、『神皇正統記』に対する純真な継述の精神があり、北畠親房公に対する深い景慕の念が存すること、その景慕の念・継述の精神が正しい学問をいよいよ深め、志を益々堅くさせて、遂に水戸学の完成さらには明治維新の完遂へと発展していったことなど、神皇正統記と水戸の強い関係を知ることができます。

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令和5年 夏期講演会のお知らせ(終了しました!)

2023-05-06 08:35:05 | 日記

今回のテーマは「徳川家康と水戸」です。
  7月16日(日)「徳川家康と武田信吉」
  7月30日(日)「徳川家康と水戸頼房」
  8月  6日(日)「徳川家康と朝廷」

 講 師 仲田昭一氏
 会 場 那珂市ふれあいセンターごだい(茨城県那珂市)
 時 間 10:00 ~ 11:30
 参加費 各回300円(資料代等)
 定 員 100名(申込み不要 ; 当日先着順)

 問い合わせ先 📞090-8038-2087(事務局)

 

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昭和天皇と終戦の混迷

2023-05-05 06:32:15 | 日記

4月29日は「昭和の日」です。
当会事務局長の仲田昭一が、昭和天皇の「民安かれ、国平かなれ」の精神を偲び講演しました。

会場は那珂市中央公民館の集会ホール、参加者は凡そ90名でした。 

1 昭和天皇と水戸行幸
終戦直前の昭和20年8月1日夜から2日の未明にかけての空襲により、水戸市街は壊滅的な被害を蒙りました。
昭和天皇は、昭和21年11月18・19日に茨城県の水戸へ行幸され、復興に精出す水戸の市民に心を致され
「たのもしく よはあけそめぬ 水戸の町 うつつちのおとも たかくきこえて」
との御製を詠まれ、翌22年の「歌会始」に披露されました。
水戸市は昭和34年、この御製を刻んだ碑を水戸駅北口に建てました。
現在は、大手門をくぐった右手に移されています。

なお、昭和天皇には次のような御製もあります。
昭和20年の終戦に「身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたおれゆく 民をおもひて」
敗戦の翌昭和21年に「降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ」

2 大東亜戦争の原因
開戦の目的は、詔勅にあるように、英米列強からの独立「自存自衛」でした。
後に「アジアの解放」が加えられ、「大東亜戦争」と命名されました。
戦後は「太平洋戦争」や「アジア・太平洋戦争」と称されようにもなりました。
事実、イギリス・フランス・オランダなどの東洋への植民地化戦略やアメリカの西太平洋への侵出がありました。
ロシアの南下侵出などもありました。
また、日本には朝鮮の独立をめぐる清国との対立や満洲をめぐる清国・ロシアとの問題をかかえていました。
加えて日露戦争後に米国が満洲に進出する狙いが表面化し、日本と米国との対立構図を醸し出していました。

3 共産主義の台頭
1917年、ロシア帝国が崩壊し共産主義国家ソ連が誕生しました。
共産勢力は猛烈な勢いで世界に拡大し、1921年には中国共産党が成立しました。

日本は、満洲の安定化を図って五族(日本・漢・朝鮮・蒙古・満洲)協和の「満州国」を建国しました。
しかし、国外からは日本の傀儡国家と警戒されていました。重光葵がその著『昭和の動乱』の中で、日本の傀儡国家と断定していました。
清国に代わった中華民国とも抗戦が続き、これに中国共産党が加わって、さらに満洲問題も絡んで大陸の抗戦状況の解決を複雑にしました。
昭和16年、外相を務めた重光葵は中華民国大使として南京に赴任しました。
そして、「政治上、経済上の支那における指導を支那人に譲り、日本は一切支那の内政に干渉せず、日支間の不平等な条約関係を一切廃止して、完全な平等関係において、対等の同盟関係を樹立する。戦争の進行につれて必要がなくなるときは、日本は完全に支那から撤兵して、一切の利権は支那に返還しよう。…日支の平等及び相互尊重の政策の外には、日本が勝っても負けても、日支関係を調節する方法はない。主権尊重と平等対等の関係とをもつて、支那を初め東亜諸民族に臨むのでなければ、この戦争は、日本に取つては全然無意味である」と言い切りました。
これが実現できる内外の情勢が現出されていたら…と、思います。

4 米英の進出および共産主義への警戒
後に首相となる近衛文麿は、大正7年(1918)に「英米本位の平和主義を排す」を発表して各民族の独立自尊の尊重を訴えていました。
昭和10年(1935)には、ニューヨークの外国政策協会主催の「日米軍縮公開討論会」において、斎藤博駐米大使は「東亜は東亜に任せ、西洋は西洋に、中東は中東に、アメリカはアメリカに、各々その所を得ることが重要である」と訴えました。

第一次世界大戦は、明らかに民族解放の理由のために戦われましたが、民族主義は欧州以外には及びませんでした。
1919年(大正7)のパリ講和条約では、世界の平和達成のために国際連盟が設立されました。
日本は、連盟の規約に「人種差別撤廃」を挿入するよう求めました。
世界初の画期的な提言でしたが、米国はじめ白人諸国は有色人種への偏見が色濃く、否決されてしまいました。

重光葵の信念は次の言葉に表れています。
「アジアおよびアフリカが解放され、復興して、世界の平和に寄与してこそ、人類の進歩と云ふことが出来得る」
「他に、日本は何等の野心をもたない。これが、日本が大東亜戦争に突入していった目的であつて、これさえ実現すれば、日本は何時でも戦争終結の用意がある」

昭和18年12月12日の重光外相の情勢判断は、
「ドイツの脅威減退と共にソ連と米英の利害の相違が表面化し、ソ連の支持する共産党と米英の支援する民主派との相克軋轢は各地に於いて激化する傾向にある。両者のはますます紛糾することは必至である」
と、米ソの対立を予想する的確さがありました。 

一方で、木戸幸一内大臣は、
「ソ連に頼って和平を行えば、ソ連は共産主義者の入閣を求めて来るのであろうが、それを受け入れてもよい」
「共産主義と云うが、今日はそれほど恐ろしい者ではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか、欧州も然り、支那も然り、残るは米国位のものではないか」
と発言していることに驚きます。

ヤルタ秘密会談を見抜けなかった外交
1945年(昭和20)2月、クリミヤのヤルタで米英ソの三巨頭会談が極秘に行われました。
ソ連のスターリンがヤルタ秘密会談へ参加したことは伏せられていました。
会談は、ソ連にも日本の占領を認め、日本を米英ソで分割占領することを決めた重大な会談でした。
このヤルタ秘密会談は「厳秘」にされていたため、直接に関与した者以外は内容どころか存在すら知りませんでした。

しかし、2月中旬には、ストックホルム駐在の小野寺信陸軍武官が、ロンドンへ亡命したポーランド政府から得たヤルタ会談でのソ連の対日参戦密約情報を日本へ送りました。
ところが、日本政府はソ連仲介和平案に固執してこの情報を握りつぶしてしまいます。
その後も3月にベルリンの駐独大島浩大使が外務省に打電、5月以降ベルリンやリスボンの在欧武官からも、ソ連参戦の情報が寄せられていました。
まさに「鬼畜米英」の感覚からか、なおソ連への和平仲介を期待していたのでしょうが、共産国家ソ連の本質を知りながらの、日本政府のこの方針には理解に苦しみます。

6 敗戦の意味
ポツダム宣言第10条には「吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとする意図を有するものに非ざるも」の文言があります。
IPRの主要メンバーの一人E・H・ノーマンは1945年1月6~17日の第8回大会で、
「天皇制を残すのであれば、日本に勝っても意味は無い。日本国民が自発的に天皇を退位させないのなら、アメリカ政府の手でやるべきだ」との考えでした。

昭和20年(1945)8月15日の終戦の詔勅の中で、昭和天皇は、「自分は、日本の国体を護持できることを確信するとともに、日本国民の赤誠を信頼し、常に国民と共に在る」として、国民の総力を将来の国家建設に向け、道義を篤くし、志操を鞏くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に遅れないようにしなければならない」とあり、陛下はもちろん国家国民の決意と覚悟に期待されました。
昭和21年(1946)元旦には「新日本建設に関する詔書」(天皇の人間宣言)が発せられ、冒頭に「五箇条の御誓文」を掲げて平和主義に徹して新日本を建設せよと国民を鼓舞され、「天皇と国民の間は終始相互の信頼と敬愛とにより結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず」と、天皇自らが国民と共に新生日本の建設に邁進しようとの決意が示されました。
この昭和天皇の詔書によって皇室の存在・国体護持は絶対のものとなったのです。

昭和天皇の訪問を受けて感激した連合国軍総司令官マッカーサーの決断もあって、日本が共産国家となることを免れ、現在も、皇室を戴き自由主義圏に在ることを幸いとするものです。

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