水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

水戸藩弘化甲辰の国難

2024-05-01 10:13:17 | 日記

今年は「甲辰」(かのえたつ)の年です。60年前は東京オリンピックが開催され、120年前は日露戦争が起こっています。180年前の弘化元年(1844)には、水戸藩の九代藩主徳川斉昭(烈公)が幕府から隠居謹慎の処罰を受ける大事件があり、これが水戸藩にとって大きな分岐点となったのでした。いわゆる「弘化甲辰の国難」です。4月21日(日)に、当会事務局長の仲田昭一がその事件の内容を藩主徳川斉昭、家老結城寅寿、側用人藤田東湖の動きを中心に講演しました。
その中で、藩主の推進力を大きく飛躍させるのは、家臣たちの一致協力の姿勢が基盤にあってこそとの重要性が述べられました。
水戸藩は、藩成立期以来の譜代の家臣団に加えて、中期以降に農民・町人出身の学者が士族として登用された新興家臣団が存在したことが大きな特色です。
その両者が、両輪となって藩政改革がなされれば大きな成果となったはずでしたが、譜代の門閥派、新興の改革派と分かれ対立したところに悲劇がありました。
更に其処に、朝廷と幕府が介在して、より複雑な藩政が展開されることになってしまいました。

九代藩主徳川斉昭
藩主を誰にするかでは、門閥派が将軍家斉の子清水恒之丞を推したのに対し、改革派は敬三郎(斉昭)を推しました。
対立抗争の結果、兄斉脩の遺言により斉昭は30歳で藩主に就きました。此処で既に、門閥派と改革派の対立が既に表面化しています。
 新藩主斉昭の新政四大改革は、駒込中屋敷亀の間住まいの時期に学問に励み、十分に練られていました。              

結城寅寿
結城寅寿の遠祖は藤原氏系の小山朝光で、下総結城氏さらに白河結城氏などにかれていく。『大日本史』の編さんのための資料収集の中で、南朝方に味方していた白河結城氏に注目した徳川光圀が藩に迎え入れました。やがて門閥派として成長していきます。
寅寿は門閥派内の才子にして非凡の人物があり、斉昭の寵任も得、徐々に同志を要路に登用して閥派の勢力を快復して、新進派を圧するようになりました。
「天保の新政、寅寿の参画経営に出てたるもの少なからず」と評されています。

天保11年寅寿23歳にて小姓頭に進みます。この年齢での抜擢はこれまで無かったことです。
東湖は側用人となって初めて寅寿と親交を持つようになります。東湖は職務上命令することも多々ありましたが、寅寿が表向き無造作に振る舞っているのは嘘で、諸事至って精密、テキパキと事を処理しました。これには 政府役人一同感心、藩主も満足していました。執政寅寿と側用人東湖は両輪となって斉昭の藩政を推進させた仲であるだけに、互いをよく理解し合っていたと思います。

藤田東湖
父藤田幽谷は、商人から学識を以て士分格を得ました。
東湖は、学問の実践力を以て斉昭の信任を得て、通事、側用人に抜擢され、藩主を補佐して天保の改革の推進役となりました。
それに伴って、門閥派からは羨望、怨嗟の対象ともなり、立原・藤田の学派の論議が再燃してそれが政治上にも及びます。
『水戸藩党争始末』は、検地や土着、学校、江水家臣の惣交代など、藩主斉昭の改革を高く評価しながらも、「人事の面で藤田派の非門閥に多く、立原派の門閥派に少なし。戸田銀次郎、藤田東湖、今井金右衛門らの登用に対して、結城寅寿ありしのみ・・・巨室世家には、この新政を快とせざりし者多かりし」と評しています。

天保2年(1831)11月16日の郡奉行川瀬教徳への斉昭書簡では「君子(改革派)は我(斉昭)が愛する所、不肖(門閥派)も亦我が養う所(双方共に我が家臣なり)」(茨城県立歴史館蔵)と、両派への配慮、その苦辛を吐露しているのは注目するところです。
この感情的対立は貫きがたいものがあり、水戸藩政にとっても不幸なことであった。 

寅寿と東湖と今井金衛門
今井金衛門は若年寄となった寅寿と昵懇であったが、今井は天保14年9月に寺社奉行に転じ、次第に寅寿と今井の関係が悪くなっていきました。
今井はやけくそ気味で、領中の寺院等打ち壊しを始めます。
その内、仏嫌いの者たちが、得たりと乗り込み、改革の粋を越えた寺院整理となってしまいました。
 
社寺改革と藩主斉昭の処罰
改革の目的は異国船対策の「攘夷」と寺院勢力の削減と僧侶の風儀粛清にありました。海防策として大砲、武具の充実の必要から梵鐘・仏具類の没収が始まります。
義公光圀が伯父武田信吉のために創建した浄鑑院常福寺も廃寺の対象となりました。常福寺も抵抗しましたが結局は供出することになります。
それまで、水戸東照宮は常福寺が主とし祭祀を行っていましたが、斉昭は神仏分離として唯一神道に改めて常福寺を排除してしまいました。
常福寺は、斉昭の異常さを芝増上寺に訴え、増上寺は大奥を通じて幕閣を動かします。
結城寅寿も幕閣に通じて藩政展開の是正策を取りました。
将軍・幕閣とも、やむなく斉昭の引退を決断します。御三家と雖も、幕府の前においては無力でした。
弘化元年(1844)5月6日、斉昭は幕府から致仕謹慎を命ぜられ駒込に閉居します。家老戸田忠敞と側用人藤田東湖も蟄居謹慎の処罰を受けました。
藩政はこれから暫く、結城寅寿と後見役の高松藩主ら門閥派が主導権を握ることになります。弘化甲辰の国難です。

藩主斉昭の雪冤運動
改革派の郡奉行吉成又右衛門をはじめ領内の庄屋、神官たちは、藩主の処罰は不当であると江戸へ上り、老中たちに処分の撤回を求める運動を展開します。
藩内は、家臣団も領民も対立分裂し、江戸上りの農民の中心は大庄屋・山横目でした。菅谷村山横目横須賀勘兵衛、大岩村(常陸大宮市)竹内源介、上小瀬村(常陸大宮市)井樋政之丞、小場村(常陸大宮市)安藤幾平、成沢村(水戸市)加倉井砂山、田谷村(水戸市)田尻新介(會澤正志斎門下)等です。
江戸に上った神官の内、那珂郡では、額田村白石陸奥、堤村多賀野但馬、鴻巣村鷲尾金吾、本米崎村海後山城、福田村今瀬伊織、田崎村小田部。静村の斎藤監物らがいます。
これらの嘆願の影響もあったか、12月26日になってやっと斉昭の謹慎が解除されました。

東湖の幽閉生活と著述
東湖は小石川藩邸から小梅下屋敷に幽閉されました。この期間に、東湖の代表的な著述『弘道館記述義』『回天詩史』『常陸帯』「正気の歌」「小梅水哉舎記」などが生れています。
やがて時勢が変わり、斉昭と東湖は幕政補佐として登場します。
殊に東湖の著述は、薩摩藩の西郷隆盛や越前藩の橋本景岳、久留米藩の真木和泉守らをはじめ幕末の志士たちに大きな影響を与えることになりました。
 
国難の影響
この斉昭らの処罰事件の位置づけは、水戸藩の異常な分裂を生み出したことにあります。
斉昭や東湖らの復権の後、改革派が復活して悪政の首謀者として結城寅寿を幽閉処分にし、挙句には弁明無しの処刑を成してしまいます。続いて一族も処刑されます。
その前後に、「尊王」「佐幕」「攘夷」「開国」をめぐって家臣団も領民も分裂抗争を続け、藩は分解の状態になってしまいます。
分解を止め、収束・統一に導く主導者が生れる環境を見出せませんでした。
弘道館教育とは何だったのでしょうか。水戸にその教育は生きなかったというのでしょうか。

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