水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

岡倉天心と近代日本画

2023-10-27 16:08:40 | 日記

「文化遺産」シリーズ講座第3回「岡倉天心と近代日本画」を、10月15日(日)ふれせんごだいにて開催しました。講師は当会の代表齋藤郁子でした。

天心は日本美術の思想や価値観を海外に積極的に伝えました。アメリカからのお雇い外国人教師アーネスト・フェノロサと共に奈良・京都を訪ね、日本の古美術の価値を見出し、日本の文化財保護法樹立に貢献しました。
また、『東洋の理想』、『茶の本』などを著し、西洋思想の「個の独立・分裂」とは対照的な東洋の「融合・和」を重視することを大きな特色であると訴えました。西洋に侵略されていた東洋諸国民族の独自性を重んじた和の精神が「亜細亜は一なり」のことばに凝縮されています。この言葉は、東洋への侵略主義と誤解されていたことを残念に思います。

岡倉覚三:天心と絵画の近代化
天心は、文久2年(1863)12月26日福井藩士岡倉覚右衛門の次男として横浜に生まれます。父覚衛門は藩命により貿易商「石川屋」を営んでいたため、天心は英語や西洋文化を身近に育ちました。10歳の時、廃藩置県で実家の「石川屋」は廃業、一家は東京へ引っ越し、家業は旅館へと変わります。このころ天心は、東京外国語学校に入学します。
明治9年(1876)、明治政府が招いたイタリアからのお雇い外国人アントニオ・フォンタネージの指導のもと浅井忠、小山正太郎、五姓田義松、山下りんらが洋画を学びました。同時期、フェロノサと天心は衰退する日本美術を擁護する運動を展開します。そのため、両者の対立する構図が出来上がっていきます。

東京開成学校から文部省へ勤務
天心12歳の時、東京開成学校(後の東京大学)に入学します。
この時に、後に活動を共にするフェロノサから政治学と経済学を学びます。(フェノロサはハーヴァード大学で哲学を学び、ボストン美術館絵画学校で油絵と絵画理論を学んでいます。)

語学に長けた天心とフェノロサは自然と親睦を深め、明治13年、天心を通訳にして、奈良の正倉院、法隆寺、唐招提寺、京都の東福寺、大徳寺などを巡り文化財の研究調査を行っています。この時、二人は廃仏毀釈で危機に瀕していた日本の仏教美術を目の当たりにして衝撃を受けます。

また、フェノロサは明治15年に、日本の伝統美術保存を目的として明治政府の官僚を筆頭メンバーとして結成した美術団体「龍池会」で講演を行い、日本ではじめて「日本画(Japanese painting)」という言葉を用いて、「油絵(oil painting)」と比較して、日本画の優位な点を論じ、西洋文化に傾倒していた日本美術界に警鐘を鳴らしました。この講演によって一躍有名になり、日本美術振興の指導者的な立ち位置に至ったのでした。

明治20年には、フェノロサと天心は、大規模な関西古社寺文化財調査を行っています。この調査の後、フェノロサは膨大な調査報告と文化財保護政策に対する提言を行い、これが今日の日本の国宝・重要文化財指定制度を含む文化財保護行政へと繋がっていきました。

明治政府の廃仏棄釈政策で仏像や美術品が破壊されて海外に流出されていきました。調査していく中でその実態を知り、危機感をつのらせた天心は古美術を保護していくことを決心します。この天心の活動が、昭和期にはいってから「国宝保存法」「文化財保護法」という法律にもなりました。

 東京美術学校
明治22年(1889)27歳の時東京美術学校が開校し、天心は初代校長に就任します。教え子には横山大観、下村観山、菱田春草、福田眉仙、西郷孤月らがいました。
天心はそれまでの狩野派などの画家集団による手本を模写する修行法ではなく、写生、臨画(線描と濃淡の習得を目指した古い絵の模写)、そして何よりも新しい形の美術の創造を目指しました。特に西洋画に深い造詣があり、「西洋画に負けないように、でも日本画のいいところは失わないように」と美術学校の生徒たちに説きました。

博物館の設立

 国立美術博物館に関する建議書(下書き断片)

 国立美術博物館を必要とする理由多辯を要せす

 古来の名作重器を保管存護するの急務其一なり

 藝術開導の基礎を確定する其二なり

 金甌無缺の光輝を内外に表彰すべき我国都市の一大装飾たること其三なり

 文明生活の必須機関として〇〇和楽の舎場たらしむること其四なり

明治22年5月に博物館が帝国博物館と改称され、同時に京都と奈良に博物館設立が決定しているが、これはそれ以前に書かれたものとされ、天心がその設立準備からかかわっていたことが判ります。

近代日本画の確立
35歳の時、天心を排斥運動が起こり、東京美術学校を追い出されてしまいます。大観、春草、観山らも東京美術学校で教員として働いていましたが、同じように辞職してしまいます。天心は、辞めた人間を集めて、美術家団体「日本美術院」を設立しました。(東京郊外谷中)

美術院の活動の中で大観、春草に「空気は描けぬのか」と、それの表現を提案します。この言葉がきっかけとなって、表現を試みた絵は混濁した暗い色彩だったため「朦朧体」と呼ばれ、評論家からは「幽霊画」と酷評され、活動が行き詰ってしまいます。後の欧米外遊の際、発色の良い西洋絵具を持ち帰り、没線彩画描法を考案しました。その後の傑作へと繋がる明瞭な色彩表現を可能にし、大観と春草の試みはようやく肯定的な評価を得るようになります。

東洋の美と心を海外に
明治34年(1901)に天心はインドに渡りました。ヒンズー教の僧スワミ・ヴィヴェカーナンダと東洋宗教会議について意見交換をし、詩人のラビンドラナート・タゴール(アジア人で初めてノーベル文学賞を受賞)やその一族と親交を深めました。
インドで各地を巡って東洋文化の源流を自ら確かめた天心は滞在中に著書『The Ideals of the East(東洋の理想)』を著します。
明治36年、天心はアメリカのボストン美術館からの招聘を受け、横山大観、菱田春草らの弟子を伴って渡米しました。
天心、大観、春草はアメリカに渡って展覧会を開いて大成功を収めました。
「朦朧体」はアメリカで日の目を見たのです。
明治37年、アメリカに渡った天心はフェロノサが勤めるボストン美術館中国・日本美術部に迎えられて、東洋美術版の整理をし、目録を作るなどしました。

新天地・五浦
天心は茨城県の五浦を訪れて太平洋を望む五浦海岸の断崖絶壁、人里離れた穏やかな景色を気に入り、そこに住居と観瀾亭(六角堂)を建てました。
六角堂の面積は9㎡、仏堂と茶室を融合させた簡素な造り。室内は何もなく四畳半ほどの広さ。中に入った者に広いと感じさせる。建物は、奈良県にある法隆寺の夢殿、あるいは京都府の頂法寺(六角堂)を模したと言われている。また、中国・四川省の成都市にある杜甫の草堂を模したものという説がある。すなわち、日本とインドと中国の思想を融合させたシンボルといえます。

天心は、ボストン美術館に迎えられると館の美術品を集めるために五浦とボストンを往復することが多くなり、表立った活動は少なくなっていきます。

晩年
その後も天心は精力的に活動を行っていました。ボストン美術館で中国、インド、日本の美術品収集、東洋の美術を欧米に紹介する著作や講演の仕事をこなす日々をおくっていました。
明治43年、ボストン美術館の中国・日本部長に就任しています。
明治45年、ボストンに向かった天心は途中インドで詩人・タゴールの親戚にあたる、女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーと出会い、ラブレターとも言える文通のやりとりを天心が亡くなるまで続けました。
大正2年(1913)に体調を崩してアメリカから帰国した天心は静養のために別荘のある新潟県の赤倉温泉を訪れましたが、病状が悪化して9月2日、帰らぬ人となりました。

近代日本画は、明治維新後、西洋文化の洗礼を受け、伝統との相剋をのりこえて多様な展開をとげた近代美術の代表的遺産です。
日本画は欧化主義の新状況の下で混迷を続けますが、やがて岡倉天心という指導者を得、春草、観山、大観らによって新日本画創造の努力が進められ、新たな進路が見出されます。いわば、近代日本画は岡倉天心の理想でその目的に向かった仲間たちが大成させたと言えるでしょう。

下村観山の「弱法師」(大正4年、第二回院展)は古典の探索より生み出された新技法による追及を完成させた作品であり、横山大観の「生々流転」(大正12年、第十回院展)は彼の新水墨画様式形成の努力が雄大な構想のうちに結実した生涯の大作です。

「生々流転」は大正12年9月1日、再興院展に出品されお披露目されたのですが11時58分、関東大震災に遭遇。大観は余震のさなか自分で40㍍の作品を巻いて上野の山にのがれ守ったという逸話が残っています。

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明治天皇と文豪たち - 樋口一葉と長塚 節 -

2023-10-05 06:13:45 | 日記

10月1日(日)、「文化遺産シリーズ」の第2回目として「明治天皇と文豪たち」と題して講演会を開催しました。講師は当会事務局長の仲田昭一が務めました。

16歳で即位された明治天皇は、福羽美静(津和野藩)や山岡鉄舟(幕臣)、西村茂樹(倫理学者)ら優れた侍従から帝王学を学びました。維新の三傑といわれた桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通たちは、明治11年でこの世を去っています。その後の日本をリードされたのは明治天皇です。帝王としての御心は、多くの御製に表れています。

この明治時代に活躍する文豪・文人たちの心を訪ねながら、明治時代の光輝きを再確認し、今後の世界と日本の在り方、人生100年時代の過ごし方などを学びました。

1 明治天皇の主な御製
  明治37年  あさみどり澄みわたりたる大空の 広きをおのが心ともがな
  明治37年  四方の海みなはらからとおもふ世に など波風の立ちさわぐらむ
  明治38年  暑しともいはれざりけりにえかえる 水田にたてる賎をおもへば
  明治40年  目に見えぬ神にむかひてはぢざるは 人の心のまことなりけり

2  樋口一葉(明治5年~明29年:24歳、明治女性の気概を見る)
●「日記」明治26年(1893)12月2日
 「晴れ、議会紛々擾々。私行の暴き合い、隠事の摘発、さも大人げ なきことよ」
 「半夜眼を閉じて静かに当世の有様を思えば、あわれいかさまに成りて、いかさまに成らんとすらん。かいなき女子の何事をおもいたりとも、猶蟻みみずの天を論ずるにも似て、我を知らざるの甚だしと人知らばいわんなれども、・・・国の一隅に育ちて、我が大君のみめぐみに浴するは、彼の将相にも露おとらざるを」

 ●「日記」明治27年4月 (日清戦争、間近に迫る)
 「あれにあれしはしきしまの歌ばかりか、道徳すたれて人情紙のごとくうすく、朝野の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。かいなき女子の、何事を思い立ちたりとも及びまじきを知れども、我は一日の安きを貪りて、百世の憂いを念とせざるものならず。かすかなりといえども、人の一心 を備えたるものが、我が身一代の諸願を残りなくこれに投げ入れて、死生厭わず、天地の法に従いて働かんとするとき、大丈夫も愚人も、男も女も、何のけじめか有るべき。笑うものは笑え、そしる者はそしれ。我が心は既に天地と一つになりぬ。わがこころざしは、国家の大本にあり。わがかばねは野外に捨てられて、やせ犬の餌食ならんを期す。われつとむるといえども賞を待たず、労すると雖も報いを望まねば、前後せばまらず、左右広かるべし。」

3 長塚 節
明治12年(1879)4月3日、茨城県国生村(現常総市国生)の豪農の生まれ。茨城中学校(現水戸一高)に首席で入学し、4年進級までしたが脳神経衰弱を発症して学業継続困難、郷里に戻って自然に親しみ読書する生活を送りながら療養に努めるなかで、さまざまな文学への関心を高めていく。しかし、明治44年(1911)8月頃、喉頭結核に罹り、翌年3月九州帝国大学耳鼻咽喉科学の名医の久保猪之吉博士診察治療を受ける。大正4年(1915)1月、九州帝国大学附属病院隔離病棟に入院、2月8日同病院にて歿す。享年満35歳。
◆ 病苦の中で『土』を執筆
農民文学者であり階級文学の先駆者であったとの評価は果たして如何。自然を清純な、温かい調べに歌い上げた。また、自然の清らかさに温かい愛情を持った。
馬追ひの髭のそよろに来る秋は まなこを閉ちて思ひみるべし
鬼怒川を夜ふけて渡す水棹の 遠く聞こえて秋たけにけり
白埴の瓶こそよけれ霧ながら 朝はつめたき水くみにけれ
たらちねの母がつりたる青蚊帳を 清しといねつたるみたれども

◆ 久保よりえ
明治17年(1884)愛媛県松山市生まれ。明治32年、上京。東京府立第二高等女学校を卒業後、医学博士久保猪之吉と結婚し、福岡市に転居。柳原白蓮、泉鏡花、長塚節らと交遊した。長塚節は、多くの書簡を以て交信している。

●祖先の歴史に対して(大正2年10月24日久保よりえ宛て)
 日本人位自身の祖先に冷淡なものもないだらうと思ひます。さうして日本人位自身の祖先を理解しない国民もないだらうと思ひます・・・血筋のつながつた祖先の芸術を理解出来なくて、どうして外国の美術がわかるでせう。

●療養の合間を見てはしきりに古社寺を訪ねた。見学ではなく、参拝し、拝観し、父祖の伝統の前にひざまついた。
 大正元年、久保よりえ宛ての絵葉書に関城址の写真を説明して北畠親房卿が神皇正統記を書かれたのが常陸の小田城で、さうして此の関城で朱を加へたとかいつてゐます。こつちの岸には相対して下妻城があります。東北に孤立した此等の大忠臣は、明治四十年に漸く贈位の沙汰があったに過ぎません。それのみならず、此の水も切り落として大抵水田に成つてしまひました。実利主義の世の中です。

4 日露戦争 明治37年(1904)~明治38年(1905)
 米国;セオドア・ルーズヴェルトの仲介で講和実現する。
明治37年4月に衆議院議員根本正が第20回帝国議会で発言した報告の概要
政府は軍費5億7千6百万円を議会に要求し、議会は政府案の地租2厘を減じ、又塩絹布税を否決し、其の他修正を加え、満場一致を以て可決せり。
一は聖旨を奉体して宸襟を安じ奉り、一は以て国民の意思を代表して挙国一致の実を世界に宣明せざるべからず。要するに国民、内に一致して王師、外に奮戦す、今日の事唯是れあるのみ。是れ吾人が政府に対する従前の行掛りを一切放擲して全会一致、以て政府案を賛成せる所以なり。諸君幸いに之を諒とせられよ。

5 日露戦争以後
●『日本の禍機』朝河貫一の予感 著(福島県二本松出身、米国エール大学教授)
氏の前著『日露紛争』では日本の台頭と東アジア経済との関係、歴史的ロシア南下の志向、満洲をめぐる日満鮮の共通問題、清国をめぐる西欧諸国の植民政策の史実、清国の中立及び朝鮮の 領土保全に対する日本が果たしうる立場を。また、ロシアの領土的野望に抗する日本の、清国主権・ 満朝機会均等を護る旗手としての役割を説く)

高まる日本国民の愛国心に、「義心・意力・公平なる態度・沈重の省慮を具備すること」、「国民の善良なる習慣を養成することに努力すると肝要なり」の二つを心掛けよと警鐘を鳴らした。

●「戊申詔書」の発布
明治天皇は、戊申の年(明治41年)の10月13日にいわゆる「戊申詔書」を発布され、本来の日本人に目覚めて誠実勤労・質素倹約に日々努める国民に戻るよう善導された。
これを受けて、全国各地に「戊申青年団」などが結成され、その活動により気風の刷新が進められた。

6 明治の精神の肯定
明治天皇:明治45年7月30日崩御、9月13日乃木希典将軍夫妻自刃殉死

●徳富蘆花『みゝづのたはこと』
 明治天皇の御大葬に当たって「余は明治と云う年号が永く続くものであるかの様に感じて居た(中略)。陛下の崩御は明治史の巻きを閉じた。明治が大正となって、余は吾生涯が中断されたかの様に感じた。明治天皇が、余の半生を持つて往つておしまひになつたかの様に感じた。」

●夏目漱石『こころ』
「夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始つて天皇に終わつたような気がしました(中略)。私は妻に向かつて、もし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答えました。」

●森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』
乃木将軍の殉死を承けて、細川忠興の家臣興津与五右衛門と横田清兵衛が香木伽羅(本木と末木い分離)の購入に関して、主命を帯びてあくまで本木にこだわる興津と末木でもよしとする横田の対立、興津は横田を斬ったことで切腹を訴願。忠興は赦さず、両家の親交に努めた。恩を感じた与五右衛門は、忠興の一周忌に殉死した。責任の取り方を考えさせた。

●長塚 節は明治天皇の崩御に際して
 伊藤左千夫宛て、「丁度高松へ上陸した日に先帝崩御の報に接し気も消えさうだ。・・・我が日本の国勢から言へば、大正といふ年は、必ず明治に劣る筈はないけれども、我々はどうも明治といふ年号は、どれ程でも長く継続することを熱望して居た。これからはもう仕上げの時代で、先帝の御寿命は御長いければ長い程、日本の国に偉大なる光彩を添えた筈である。我々は悲しさに堪えない。」
 久保よりえ宛ては、「明治はもう終わつてしまったことを、私は情けなく思ひます」

これ等の事からしても、長塚 節は小説『土』を書いたからと言って階級文学の先駆者ではない。明治の心を立て貫いた文人である。師匠正岡子規の衣鉢を最もよく承け継いだ歌人といえます。

7 明治の精神の否定

●芥川龍之介の「手巾」
 息子を病で亡くした若き母親 校長に師恩への挨拶に。凛とした、しかも微笑を含みながら淡々と報告、団扇を落とした校長が拾おうとして目にしたものは、母親のもみくちゃにした手巾。西洋のドラマにその例あり。母親の態度は演技であったと、凛とした明治の母親像を否定的に揶揄した。 

●志賀直哉の日記
 明治天皇の崩御 「いい人らしかったがお気の毒であった」 
 乃木将軍の殉死 「馬鹿な奴だという気が、丁度下女か何かが無考えに何かした時感ずる心持と同じような感じ方で感じられた」

まとめ
大正時代に入ると、日本人の伝統的な美点、武士道的な型は崩壊に向かい、西欧的思想への卑屈な姿勢へと傾斜していった。その結果、実利主義や個人主義の横行となっていく。国家や家庭などの団体は否定的となり、「個、個人」の社会となっていく。今後は「人生100年時代」といわれます。我々の世界観・国家観・人生観の理想像を、どこに置けばよいのであろうか。「光輝」とは何であろうか。「凛」とした姿勢は貫きたいものです。

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河内駅家の謎を解く

2023-10-05 05:28:25 | 日記

R5秋季講演会「文化遺産シリーズ」第1回が、9月17日(日)にふれあいセンターごだいで行われました。講師は樫村弘明氏です。

古代の駅制は、中央と諸国を結ぶ駅路に凡そ16キロメートルごとに設けられた駅家の馬を利用できる公的使者が、中央の命令を地方に伝えるという交通・通信の制度のことです。
その駅家の一つである那賀郡の「河内駅家」、『新編常陸国誌』にでてくる那珂川沿岸にあったとされる「河内駅家」の位置について、文献や実地踏査をされた結果についての報告です。歴史の真実を求めて進めていく調査研究の楽しさが窺えた感じでした。

1 樫村様の詳細な考証は省きますが、駅家の探求の方法は文献と発掘調査の成果と地形を読むこと。「土地宝典」の小字名は貴重な文献であるとされています。
  那珂川の右岸が自然堤防により微高地となるので候補地である。渡里廃寺や郡衙のあった渡里地区にあったと想定できる。

2 この河内駅家は渡里地区としても、前期と後期と位置が動いている。前期河内駅家は長者山や渡里官衙遺蹟の南方あたりか。小字地名「洞ノ内」を挟む両隣に「神田」が二か所あるが、これは「駅田」でもある所から駅家の存在と推定される。

3 移転した後期駅家は、現茨城大学の駐車場に近い小字名「前原」「狸久保」「南前原」辺りと推定する。

4 『常陸国風土記』に出て来る「曝井の泉」は、小字名「狭間」「曳池」「上曳地(池)」のある周辺で前期河内駅家の南側にある崖の「狭間」に当たる。現在建碑されている愛宕町の場所とは異なる。

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