水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

北条家の人々 ― 北条義時と泰時と承久の乱 ―

2022-05-30 12:38:11 | 日記

令和4年5月29日、春季講演会のテーマ「『大日本史』から見た鎌倉御家人たち」の中の「北条家の人々 ― 北条義時と泰時と承久の乱―」を開催しました。

 伊豆韮山の北条郷から出た中世の豪族北条氏が就いた執権の主な人物(〇数字は代数)
  北条時政、②義時、泰時、⑤時頼、⑧時宗、⑭高時(新田義貞の攻撃により自害)

2 御家人の抗争 (陰湿な謀略・謀殺により将軍や有力御家人が次々と滅亡してゆく)
       御家人十三人の合議制(1199.4) 梶原景時の失脚(1200.1) 北条時政執権(1203) 比企能員謀殺(1203.9) 源頼家伊豆修善寺で謀殺(1204.7) 畠山重忠敗死(1205.6) 北条義時執権(1205.⓻)
   和田義盛敗死(1213.5) 源実朝暗殺(1219.1)
   13人の中で、下野宇都宮氏から出た八田知家は、常陸大掾多気義幹を討って常陸に入り、北条時政との親交を重ねて勢力を伸張し、源義朝から実朝までの源氏4代に仕えて生
   涯を全うしました。これは稀有な例です。八田氏からは、常陸の小田氏、宍戸氏、下野の茂木氏などが出ています。             

3 北条時政
  頼朝夫人政子の父、人となりを『大日本史』は「外は厚重、内は深阻、能く権器を以て衆心を収む」と評しています。平氏でありながら、源氏の流人頼朝を匿った決断は奈辺
  にあったのでしょうか。これがなければ、鎌倉時代の到来はなかったであろうから、歴史上に現れる一大決心の一つといえましょう。

 

4 北条義時と政子
  江間の小四郎と称した泰時、『大日本史』は「沈深にして胆略有り、度量人に過ぐ」と評しています。平家滅亡後、頼朝は夫人の弟であることから日に日に親信を増し、家人
  の最たるものとなっていきます。頼朝歿後、力を増した義時は、後鳥羽上皇の命にも服することを拒否する姿勢を示しこともあって、上皇は源氏の世は絶えた、「威権当に帝
  室に復帰すべし」と義時追討の院宣を発します。

  なお、後鳥羽上皇の朝権回復の意図は、以下の御製に表れています。

     「奥山のおどろがしたも踏み分けて 道ある世ぞとひとにしらせむ」

  これをみても、院宣の意味は北条義時一人を追討するのが目的ではありません。
  この時、義時の姉で亡き頼朝の夫人政子の侍たちへの次のような激励はあまりにも有名です。

  「故右大将(頼朝)鎌倉(幕府)を草創してより、伝えて今に至れり。諸君際会に遭遇して世々富貴を保つこと、(その)恩、江海より深し。豈に報効の志無からんや。今、讒臣難を構え
  て天聴を熒惑 (けいわく)せんとす。諸君、名節砥励せんと欲せば、宜しく速やかに藤原秀康・三浦胤義等を斬りて以て三将軍の偉業を全くすべし。如(も)し、院宣に応ぜんと欲する
  もの有らば、去就を今日に決せよ」と。

5 承久の乱
  義時は、嫡男泰時を先陣に付け、19万余の軍勢を以て東海道・東山道・北陸道から京へ進みます。上皇方は、2万足らずの兵力です。

  上皇方は敗れます。これについて『大日本史』は以下のように記しています。

  「官軍一時に崩潰せり」「胤義等帰りて奏せんとす。上皇、門を閉じて内(い)れたまわず。諸将或いは自殺し、或いは逃亡し、京都遂に陥る」。この戦いの咎(とが)を戻った「忠臣の
  公卿大納言藤原忠信ら6人に帰する」と。

  上皇はそのような姿勢であったのかと驚くと同時に、『大日本史』の公平さが窺えます。

6 明恵上人と北畠親房の評価
  以下は、この乱に関して交わされた北条泰時と明恵上人との内容であり教えです。

  <北条泰時と栂尾高山寺住持明恵上人(高弁)>
    栂尾は殺生を許さない山でありますし、私は仏に使える者であります。鷹に追われる鳥あれば、これを助け、猟師に追われる獣あれば、これを保護してきました。まして人
  の救いを求める者あれば、これを助けないはずはありません。官軍の将士を、確かにこれまでかくまいました。今後も保護したいと思います。それがいけないというのであ
  れば、私の首を刎ねてください。

  <その後、泰時が栂尾を訪ねての教え>
     我が国は、神武天皇以来、皇統連綿として今に続いています。それ故、天皇の御命令には、絶対に服従しなけれなならないのであって、もしそれがいやというのであれば、
  日本の国から出て、シナへでも印度へでも、行くがよいのです。それを、あなたは、官軍を亡ぼし、都に討ち入り、上皇達を遠い島々へお流し申し上げ、多くの人々を殺す
  とは、何という間違いをしでかしたことでしょう。この罪は至って重く、容易なことでは償われません。

  <『神皇正統記』の評価(第87代後嵯峨天皇の項)> 
  「凡そ保元平治より以後の猥(みだり)がわしさに、頼朝と言うなく、泰時と云う者なからましかば、日本国の人民いかがなりなまし。
  「人臣としては君をとうとみ、民をあわれみ、天にせぐくまり、地にぬき足し、日月の照らすを仰ぎても、心のきたなくして光りに当たらん事をお(怖)じ、雨露の施すを
  見ても、身の正しからずして恵みに漏れん事を顧みるべし、朝夕に長田狭田の稲の種をくうも皇恩なり、昼夜生井栄井の水の流れを呑むも神徳なり、在るに任せて欲を恣に
  し、私を前として公を忘るる心あるならば、世に久しき理侍らじ」(自然への崇敬、国家への謝恩と奉仕)

  結局は、義時は以下のように三人の上皇を島流しにいたします。上皇配流は歴史上重大事件です。
  後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳上皇を佐渡へ、土御門上皇を土佐へ配流(翌年阿波へ)。

7 北条氏の最期
  元仁元年(1224)  6月 北条義時歿(62、執権)
  嘉禄元年(1225)  6月10日 大江広元歿(78、政所別当) 7月11日 北条政子歿(69)  12月18日 佐竹秀義歿(75)
  貞永元年(1232)  8月 泰時、関東御成敗式目を制定する
  延応元年(1239)  2月22日 後鳥羽法皇、隠岐に崩御(60)  12月 三浦義村歿
  仁治 3年 (1242)  6月15日 北条泰時歿(60、執権)  9月12日 順徳上皇、佐渡に崩御(46)
  寛元 4年 (1246)  3月 北条時頼(母は松下禅尼)、執権に就く
  宝治元年(1247)  6月 時頼、三浦泰村とその一族を滅する(宝治合戦)
  宝治 2年 (1248)  5月 安達景盛歿
  文永 5年 (1268)  3月 北条時宗、執権に就く  この後しばしばの蒙古の使者に対応
  文永11年(1274)10月 蒙古軍、壱岐・対馬・筑前に上陸、台風により撤退(文永の役)
  弘安 4年 (1281)  5月~6月  元軍来襲 閏7月 蒙古元軍大風雨で壊滅(弘安の役)
  弘安 7年 (1284)  4月 北条時宗歿(34)
  弘安 8年 (1285)11月 執権北条貞時、安達泰盛一族を滅亡させる(霜月騒動) 
  元弘 3年 (1333)  5月 新田義貞、鎌倉を攻撃し北条高時以下自殺し北条氏滅亡する  5月 7日 京都    北方探題北条仲時 最後の挨拶の後に切腹
             (従う者;総員少年兵ら含む430余人 全滅)
                      522日 鎌倉 執権北条高時、東勝寺にて切腹(31一族の殉死者280余人、将士の自決者870余人  

  ※ 北条泰時以降も、権力保持のために謀略を以て有力御家人であった三浦氏(宝治合戦)、安達氏(霜月騒動)を滅亡させていく姿への評価は分かれるところです。
    しかし、執権高時の最期に多くの殉死者が出ていることは、北条氏及び鎌倉武士の心意気を窺うことができます。

 このシリーズへご参加くださいました皆様方に厚くお礼申し上げます。

 

北条政子及び北条泰時と栂尾高山寺住持明恵上人(高弁):『源平の時代展』茨城県近代美術館より  後鳥羽上皇:『鎌倉武士』世界文化社より

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令和4年度 夏季講演会のお知らせ(終了しました!)

2022-05-16 11:49:46 | 日記

今回のテーマは「幕末の動乱と水戸」です。

会 場  茨城県那珂市 ふれあいセンターごだい

時 間  午前10時~11時30分    参加費  各回300円

定 員  100名(申込み不要、当日先着順)

6月19日(日)演題:「弘道館と徳川慶喜」 講師:齋藤郁子 氏

7月10日(日)演題:『「水戸浪士十九烈士」の位牌について』 講師:飯村尋道 氏

7月24日(日)演題:「西郷隆盛と駿府会談」 講師:仲田昭一 氏

8月  7日(日)演題:「ロシアの南下と水戸藩」 講師:仲田昭一 氏

※コロナ禍等により変更の場合もあります。

  ✉ mitorekimanabu@gmail.com

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鎌倉幕府三人の将軍 ― 源頼朝と頼家・実朝 ―

2022-05-15 19:02:33 | 日記

 令和4年5月8日、春季講演会のテーマ「『大日本史』から見た鎌倉御家人たち」のなかの「鎌倉幕府三人の将軍 ― 源頼朝と頼家・実朝 ―」を開催しました。

 平家は京都での華麗・平安な生活に慣れ驕りが見られました。
 軟弱な貴族と化して栄華は短いものとなってしまいました。

 源氏はどうでしょうか。
 頼朝は、源氏の嫡流として再興を期し、伊豆では綿密な計画の下で準備を進めていました。
 従う御家人達も大勢集まり、遂に平家を倒し幕府政治を始めましたが、病魔に襲われての落馬が原因で命を落としたといわれます。
 その後の実子頼家・実朝の二代の将軍も短命に終わりました。
 何が原因であったのでしょうか。そこから学ぶことはどのようなことでしょうか。興味のある内容でした。

○ 金砂山の合戦 ―源頼朝と岩瀬与一太郎―
 治承4年(1180)11月、頼朝は佐竹秀義の籠る金砂山城を攻撃するも、城は地勢険絶、兵は精鋭、難攻の末にこれを落とし、岩瀬太郎らを生け捕りにします。頼朝の前に引き出された与一太郎は、(主人の敗れを思い悔しさに)流涕已まず。

 頼朝問う「何故に主と共に死なずや」
 太郎曰く「将軍に自らの所見を述べんがためなり。将軍は平家を討つことを以て事と為さず、しかも親族(佐竹氏は同じく源氏)を誅除するははなはだ非業である。今なすべきことは、天下の勇士と力を合わせて平氏を倒すことではないか。将軍の配下は、果たして心服しているのか、ただ威力に恐れているだけではないか。後世の非難は避けられまい。どうか熟慮せられよ」と。
 頼朝目黙然たり。
 これは、『大日本史』に載せられた名場面、佐竹氏のために、我らが郷土のために誇りとしたいところです。

 頼朝の欠点は「素直」でなく、「残忍酷薄」であり「猜疑心」「嫉妬心」が強く、慈愛の涙が少ないところです。嫡流嫡男の強い意志からは、兄弟縁者も容赦なく成敗していきました。範頼・義経・木曽義仲、そして佐竹氏を。厳しい苦難の連続がそうしたのでしょうか。

○ 頼朝の尊王
 しかし、日本の国柄を自覚し秩序の確立には心を尽くしました。

  • 尊王
    文治元年(1185)正月六日付け範頼宛て書状では、「返す返す大やけ(安徳天皇)の御事、事なきように沙汰させ給うべきなり」とあります。
    「安徳天皇はお助けせよ」(平家追討中、屋島合戦前のことですが、頼家・義経たちはこれを果たせませんでした)
  • 秩序の確立
    次は、朝廷と幕府の関係を明確に述べて、日本の国柄(国体)を明らかにしているところです。
    尾張国の御家人玉井四郎助重は勅命に背いて乱暴止まず、注意を与えようとした頼朝が派遣した使者の招きに応じず、かえって悪口を吐く始末でした。それへの処断に発した名言です。
    「綸命に違背するの上は、日域に住すべからず、関東を忽緒せしむるに依りて、鎌倉に参るべからず、早く逐電すべし」(『吾妻鏡』文治元年6月16日の条)
    (天皇の命に叛く者は日本から出ていけ、鎌倉将軍を無視するものは鎌倉に入ることはならないと。すなわち、頼朝は朝廷を無視して幕府政治を始め独裁制を施行したのではありません)

○二代目頼家は暗愚?
 頼家の夫人は、頼朝の信頼を得ていた比企能員の娘です。頼家の心は、北条家を離れて比企家に向いて行ったといってよいでしょう。母政子は、頼家に誡めて言う「(そなたの行動は政治に倦み、民の困苦への対策がない。女色に耽り、侫者を重用している)豈、海内を鎮撫することを得んや。汝が世に及びて、恩礼衰薄、人怨恨を懐けり」と。このような懸念があってか、御家人ら13人による合議制を採ったのであろう。
 頼家は、元久元年(1204)伊豆の修善寺で謀殺されます。


○ 三代目実朝の目は京都へ
 実朝の夫人は後鳥羽天皇の従妹です。頼家が謀殺されるなど北条氏を中心とする御家人の抗争が激しくなり、実朝の心は晴れませんでした。しかし、実朝が編纂した『金槐和歌集』にある以下の和歌には、優しくも勇壮・雄大な心が表れています。

 ・時により過ぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまえ
 ・もののふの矢並つくろふ籠手の上に 霰(あられ)たばしる那須の篠原
 ・大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも

 そして、次の歌には、父頼朝の「尊王の精神」を見ることができます。

 後鳥羽上皇との親交から
 ・山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
 ・ひんがしのくにわがおればあさ日さす はこやの山のかげとなりにき
 ・大君の勅をかしこみちちわくに 心はわくとも人に言はめやも

 承久元年(1219)正月、前年暮に右大臣となった祝賀に鶴岡八幡宮へ参ります。不吉な予感からか、庭の梅を見て「出でていなば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな」と詠んでいます。はたせるかな、その拝賀の場で甥の公暁に刺殺され、公暁もまた生を失うに至ります。これにより、「頼朝の覇業遂に衰う」と『大日本史』は評しています。

 これらは、「家」の存続・継承が並大抵のものではないことを示しています。

 この抗争の背後に蠢(うごめ)いていたのは、まぎれもなく「北条氏」ではなかったのか。夫頼朝を突然失い、我が子頼家(23)、実朝(28)も若くして亡くした政子、その心境はいかがなものであったのか。心寒いものもあります。

源 頼朝 安田靭彦筆(『源平の時代展』茨城県近代美術館より)、北条政子 守屋多々志筆(『源平の時代展』茨城県近代美術館より)、右大臣源実朝 松岡映丘筆(『鎌倉武士』世界文化社より)

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埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘文と日本の建国

2022-05-04 08:54:44 | 日記

 今回5月3日(火)に、特別講演会「稲荷山古墳出土の鉄剣銘文と日本の建国」を開催しました。本来は、2月11日の「建国記念の日」を予定していましたが、コロナ禍のために(なお当日は大雪の朝でした)「憲法記念日」の本日に延期開催しました。どちらも、国柄「国体」を考えるには良い日であると思います。

 世界各国とも国家の誕生を祝っています。日本国家の誕生は、明治維新以降天皇を主権者とする立憲君主国として位置づけ、初代神武天皇が即位された2月11日を「紀元節」として祝ってきましたが、昭和20年の敗戦後制定された新憲法では天皇は日本国の象徴となり、以前の「紀元節」は否定されました。それにより、日本国家の誕生は何を基準とし、また何時とすればよいのかなど世論が分かれてきましたが、昭和41年に政令で2月11日が「建国にふさわしい日」とされ、翌年から「建国記念の日」(祝日)が誕生しました。

 天皇を「統治者」とするか「象徴」とするかの大きな違いとなりましたが、皇室の存在を再認識し、歴史伝統の継続を重んじた結果のことと多くの国民に受け入れられました。

 本日が、我が国の歴史書の原点である『古事記』『日本書紀』の内容と、今日進みつつある「考古学」の成果を踏まえて、「建国の理想」と「現憲法」を併せ考える機会となれば幸いです。

1. 稲荷山古墳鉄剣の金錯文字の意味
  ワカタケル大王(第21代雄略天皇)に仕えたオワケノオミが当家8代にわたる歴史を刻んだ誇り高き志に感歎します。作製の年は471年と推定されます。このころには、地方の有力者が磯城(しき)の宮(奈良県)の大和朝廷に仕えていたことが分かりますし、逆に大和政権の力が関東にまで及んでいたことを示します。ちょうどこのころ、熊本県の江田船山古墳から出土した銅鏡にもワカタケル大王の文字が刻まれていました。大和政権が九州にまで及んでいたことを示します。

2. 建国を考える
  日本列島に住人がいて、石器時代・弥生時代・古墳時代と様々なすぐれた文化を生み出して来ましたが、国家としてはいつ成立したのでしょうか。『日本書紀』では、初代の天皇が奈良の橿原で即位され、「民に利あらばなんぞ聖(ひじり)の業(わざ)に違(たが)わん」(「民安かれ」)、(この理想を以て)「八紘(あめのした)を掩(おお)いて一つの宇(いえ)となさん」(世界は一家のようにあろう「国平かなれ」)を天皇の責務と理想が謳われました。これが、日本が国家として出発した時と考えられます。その時は何時か、現在の研究によっては、紀元前後1世紀と想定されています。日本国家は二千年からの歴史を持つとしてよいかと思われます。

 すなわち、人が誕生したことも祝い日でありますが、どのような人間として成長を期するかの決意をした日が真の誕生日であると考えることと同じです(徳川光圀の18歳での立志がよい例です)

3. 神武天皇崇敬者
  戦国時代を経て江戸時代に入り平和な社会が出現 します。歴史の研究も盛んになり、初代神武天皇への注目が高まります。しかしながらそのころには、神武天皇の御陵は忘れ去られ、農夫は肥桶を担いで耕す有様。これを知った幕府の儒医松下見林、水戸藩主徳川光圀、阿波(愛媛県)の儒者柴野栗山、下野(栃木県)の儒者蒲生君平らが次々と修復整備を提唱、幕末には久留米(福岡県)の神官真木和泉守が、革新には「神武天皇創業の理想に返るべし」と唱えるに至りました。

 倒幕後の王政復古の大号令には、「諸事、神武創業の始めに基づき」の文言が入れられました。

4. 紀元節の制定
  こうして明治6年3月7日、旧暦の正月元旦とした神武天皇即位の日を以て「紀元節」が制定されましたが、太陽暦に換算すると1月29日となりました。その後さらに研究が進み、2月11日が正しいと変更されたのでした。

 5. 古伝のままに記録
 「(『日本書紀』には年代数の誤りが多く信用できるものではないとの考えに対して)我々が感謝しなければならぬ事は、当時の歴史家が、ほしいままに此の矛盾を解決し、不合理を除こうとしなかつた点に在る。もし彼等が、勝手に不合理を除こうと欲したならば、歴代天皇の数を水増しすれば良かったであろう。それを何等の作為もなく、古伝のままに記録してくれた事は、公明正大なる態度であり、学問的良心に充ちているものとしなければならぬ。
 このように、世界的視野に立ちつつ、忠実に伝承を整理した『日本書紀』は、神武天皇即位の日を、辛酉の歳正月朔日(ついたち)と記録した。明治の初め、それまで長い間、国民の悲願であつた神武天皇の追慕が、朝廷を動かして紀元節の制定となり、正確なる暦学の推歩によって、太陽暦に換算し、2月11日をその日と定められたのである。日本の国家建設を記念し、祝福する日、それは2月11日である。」(『フォト』昭和42年1月平泉澄博士寄稿抄録)

 我が家は清和源氏・桓武平氏を祖とすると誇りにする人々が多い。これすなわち皇室・神武天皇に繋がることであるけれども、そこまでは思い至らないことがほとんどである。それはともかく、素直に我が国の「建国記念の日」を祝い、理想国家の実現に邁進し、また絶えることなく悠久の歴史を重ねる努力を続けていきたいものです。

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平家の公逹 ― 清盛と重盛、重衡 ー

2022-05-01 12:49:19 | 日記

 今回は「『大日本史』に見る鎌倉御家人」のテーマの下に、「平家の公達(きんだち) ― 清盛と重盛、重衡 ―」と題して開催しました。

 清盛と重盛父子の間には、「われ、忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」の名言や「衣の下の鎧」のことわざが生まれています。また、唱歌「青葉の笛」に詠み込まれた笛の名手敦盛(あつもり)や歌人忠度(ただのり)、また、敗者として捕縛された重衡(しげひら)、その世話役となった千手前が恋焦がれ悶死するなど、現代にも通じるさまざまな人間模様が語られました。

それにしても、なぜ平家の天下は短かったのでしょうか。

○ 平清盛の文化政策 

・ 清盛(きよもり)は大輪田泊(現神戸港)を築港し、日宋貿易の振興に尽くしたことは、清盛の国際性、先進性、博識、政権構想のスケールの大きさを示すものとして評価されます。

   文化財の保護にも努めました。天下及び一家の繁栄を祈願して安芸の厳島神社を修造し、法華経を書写して奉納しました(平家納経)。また三十三間堂を造営し、地方の歴史的文化遺産の修復などに努めています。地方に派遣された一人に平景清がいます。常陸の久福寺(茨城県那珂市飯田、現一乗院)にはゆかりの「景清桜」(写真)が残っています。  

 

○ 平家の公達(きんだち)

・ 平清盛(『大日本史』列伝79・80)と平重盛(「列伝」83)永万元年(1165)、平家討伐計画の噂が流れ、その元凶は後白河法皇とにらんだ清盛は、自ら鎧甲冑に身を固めて一家一族を招集し、法皇を幽閉しようとします。平服姿で赴いた嫡男重盛は、父の行動を次のように戒めます。

  我が平家は、逆臣を討ち乱を鎮めるなど、その功績もまた多い。今、何の咎などがあって非難攻撃されなければならないのか。平家打倒の噂は、おそらくは反平家の者たちが流したものです。軽々に事を起こすべきではありません。自分たちが、朝廷を敬い、民を恵めば、神もまさに我を助けてくれるでしょう。どうして、噂などにおそれることがあろうか。
  また、清盛は重盛の到来を聞き、急ぎ自ら衣で身を覆いますが、その下に着した甲冑姿は隠すことはできませんでした。
  重盛はさらに続けます。父がいかに法皇を幽閉しようとしても、自分重盛は法皇を守ります。しかし、子として父に対抗することはまた成し得ないことです。重盛が孝行を果たそうとすると忠義に反します。忠義を果たそうとすると不孝となります。実に進退いかんともなりません。
 「(私の)言、もし聴かれずば、請う、先ず重盛を斬られよ。」
と。ここに重盛の忠臣としての誇りと気迫、覚悟を見ることができます。
  不幸にして病を得た重盛は、父清盛に先立ち42歳で死去します。亡骸は高野山に葬られましたが、その後、家人の平貞能によって分骨されます。貞能は重盛の夫人を伴い常陸国の白雲山(茨城県東茨城郡城里町小松)に逃れ、小松寺を創建し重盛の分骨を埋葬しました。ここには夫人の供養塔も残っています。  

  貞能はその後。常陸国行方郡の萬福寺で死去したと伝えられています。

  清盛は、治承5年(1181)閏2月4日に64歳で亡くなります。最期に際して、

  ただ恨むる所のものは頼朝の首を見ざるなり。我歿するの日、堂塔を造ること無れ・・・願わくは、頼朝の首を斬りて以て墓上に懸けよ、凡そ我が子孫たらんものは、宜しく是の心を体し、敢えて懈(おこたる)ること勿(なか)れ。
と遺言しています。

  流石に清盛、平家の全盛を担った武人でありました。     

・ 平忠度(ただのり)は藤原俊成に師事し和歌を学び歌人としても知られていました。木曽義仲の入京に伴う京都脱出に際し、師の俊成を訪い和歌「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな」を預け、後に編集される勅撰集『千載(せんざい)和歌集』への登載を依頼しました。一の谷の合戦で最期を迎え、名を名乗ることなく鎌倉武士の岡部忠澄に討たれます(41歳)が、箙(えびら)につけられていた和歌

  行き暮れて木の下陰影(かげ)を宿とせば花や今宵のあるじならまし

から忠度であることが分かります。俊成は、約束を守り登載しましたが、源氏の世に「平忠度」を称えることをはばかり、「詠み人知らず」としてしまいました。
歌人俊成の卑怯さが見えます。

・ 平敦盛(あつもり)は笛の名手でもありました。最期はやはり一の谷の合戦です。鎌倉御家人の 熊谷直実に討たれます、まだ17歳の少年でした。直実は自分の子直家を想い起し、世の無常を感じて出家して蓮生と称し、後に敦盛の妻子に出会い、敦盛の笛(「青葉」または「小枝」)を返したのでした。

平重衡(しげひら)は、父清盛の命令もあって、平家に対抗する奈良の東大寺や興福寺を焼き討ちしています。一ノ谷の合戦で捕縛され、鎌倉に送られ源頼朝の前に引き出されました。重衡は少しも臆することなく「早く斬罪に処せよ」と迫ります。近侍していた源氏の武士たちは、その潔さに賛嘆の声を上げました。

  頼朝は感服して重衡を赦し、寵愛の女房「千手前」に世話役を命じて篤く遇しました。しかし、東大寺・興福寺勢が重衡の身を要求し、奈良へ向かう途中で遂に斬首されました。時に29歳でした。
 重衡の側で世話役を果たしていた千手前は「恋慕の思い朝夕止まず」(『吾妻鑑』)遂に悶死してしまいます。

平宗盛(むねもり)は異母兄の重盛が亡き後平家の棟梁を務めましたが、平家は壇ノ浦で滅亡します。その際宗盛は捕縛され、鎌倉へ送られます。引見した頼朝は、比企能員をして云わしめます。
  平家の人々に特に怨みはありません、自分は朝敵となった平家追討の院宣を受けて軍兵を遣わしました。「こちら鎌倉までお下りいただき、恐縮に存じます。」
  宗盛(39歳)はかしこまり、媚(こ)び諂(へつら)い「命ばかりはお助け下さい、出家して仏の道に入りたい。」と命乞いをしました。周りの源氏の侍たちは、その態度に無念なりと舌打ちしたのでした。
  それに対して、宗盛の子清宗(17歳)は「わが家、世々朝家を護り、功ありて過(あやまち)無きは、世人の共に知る所なり。而して事既に此に至る。また何をか言わん。唯々、速やかに死を賜わるを幸と為すのみ。」と堂々と頼朝に迫ります。

  頼朝は、清宗の態度から処刑ではなく、自害を進めましたが受けられず、やむなく父子を処刑するに至りました。

 「 凡そ人物の本質の露呈せられるもの、一つはその得意の時に在り、二つはその失意の時に在る。就中(なかんずく)、失意逆境の時を以て、人間の値打ちは、明々白々に現れるのである。平素は誰も誰も大した違い無いように見え、相当に力もあり修養も積んでいるかに思われていても、さて一たび得意の地位に登れば、にわかに反り返って鼻は九天の上を指し、失意の逆境におちいれば、急にうなだれて目は地底を這うもの多い。要は品格である。平重衡、宗盛を比較し、頼朝の感服から学ぶことは多い。」(『続々父祖の足跡』平泉澄著)

 

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