6月11日(日)、「長島尉信シリーズ」の最終回として、当会事務局長の仲田昭一が、「長島尉信と高山彦九郎」と題して講演会を行いました。
尉信は、生涯の指針として上野国の尊王の志士「高山彦九郎」の生き方を選び、彦九郎の遺品の収集や筆写、記録に努めました。その過程の中で、多くの彦九郎崇敬者と交わり、全国各地の有為・憂国者とを結びつけるネットワーカー的役割も果たしています。
1 長島家の高山日記
つくば市小田の長島尉信の実家には、高山彦九郎自筆の「江戸日記」「京都日記」など四冊が保存されていました。これらは、昭和10年(1935)5月10日に重要美術品としての認定を受けたもので、現在は茨城県立歴史館に寄贈されています。
ほかに、明治25~6年ころ松浦寛敏によって京都大学附属図書館尊攘堂文庫に寄贈されれたもの、明治になって長島家から岩倉具視に献上されたもの等があります。
2 高山彦九郎の人物像
高山彦九郎は、延享4年(1747)5月、上野国(群馬県)新田郡細谷村の郷士高山良左衛門正教の次男として生まれ、名は正之、字は仲縄です。林子平・蒲生君平とならんで、「寛政の三奇人」と称されていますが、この「奇人」の意味は、尋常でないほどに優れて偉大な事を意味しています。
彦九郎は、「年十三、太平記を読み、(建武の)中興の志業の遂げられざるを見て、慨然として発奮し、功名の志しあり」といわれています。 彦九郎の反幕府的な行動は、祖父・父と二代にわたって吉川神道の思想を保持していたことも大きく影響しています。細谷村は、旗本筒井左膳の領地であり、高山家は代々細谷村の名主を勤めてきた名門であったため、どうしても幕府体制側の考えにならざるをえない面がありました。
高山彦九郎の人物像をまとめてみますと、およそ次の五つがあげられると思います。
<勤王的行動>
明和元年(1764)18歳の時に入京し、三条大橋に伏して御所を望拝しています。
寛政3年(1791)光格天皇の「高山彦九郎といへるものを知れるや」の下問のあったことを聞き、「われをわれと知食すそや皇の玉の御声のかかる嬉しさ」の感激を持続します。
<孝道の実践と名も無き人への愛>
叔父正業と図り、亡き祖母の墓所に喪屋を作って3年の喪に服しています。
行く年の帰らぬ嘆きふち衣涙にくるるおくつきの前
君を思ふ心の人をたづぬるに親を養ふものにぞありける(忠孝一致の信念)
<歌人>
晴れ渡る空につづきてあかねさす日も入相に見ゆる富士の根
きわみなくめぐる月かもしら川の関越へ来れば秋風ぞ吹く(寛政五年江戸にて)
行く人もあらぬ山路に見るものは鏥にまがふ紅葉なりけり(寛政二年白河の関にて)
朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らむものを 辞世(寛政二年八戸田代にて)
など格調の高い歌が多く見られます。明治になって、アララギ派の歌人伊藤左千夫が感動して高山彦九郎の人物観を改めたといわれています。
<清心な心持ち>
安永9年(1780)6月の富士登山における日記「高山氏冨士山紀行」によると、彦九郎は、「父の遺言で富士山に登るのであるから、身をつつしみ清め、富士山中は水が少ないから身を浄めることができない。山を汚すことは恐れ多いことなので、一四日に御師の持山のところで大便をしたあと、川できれいに身を浄め、今日まで四日間大便をしていない。食事もとらず、水を飲むのも量を減じて小便もしないように努めてきた」とあります。山を信仰の対象と考えているが故の行動だったと言えるでしょう。
<詳細な描写による「旅日記」の価値>
道中の地名・里程・方位・戸数記録などは、各地の交通資料、地誌的資料であり、生活習慣・伝説・民話などの見聞録は民俗採訪資料として貴重です。また、行く先々で出会った人物の素性・人柄・人物評などが、きめ細かいところは大きな特徴です。
たとえば … 久慈(岩手県)の琥珀の埋蔵・発掘の様子。奥羽地方では着るものもなく、寒さの中に畳を着て寝、野草から鶏犬牛馬を食いつくし人肉まで食べ、八戸二万石の内だけでも数万人の餓死者を出した天明の飢饉の惨状。津軽半島先端宇鉄での義経伝説など。
しかし、高山彦九郎は自分の志が思うように実現の運びを見ることなく、逆に幕府に圧迫されて寛政5年(1793)6月27日、ついに久留米の森嘉膳宅において自刃するにいたっています。時に47歳のことでした。憂国・憂憤の末に自刃した三島由紀夫氏を想起させます。
3 高山彦九郎の水戸訪問
水戸藩で最初に高山彦九郎と出会ったのは長久保赤水で、安永4年(1775)2月、京都の柴野栗山宅でのことです。彦九郎は、赤水から専門の天文・地理に関して学ぶところが多くありました。天明6年(1786)、長久保赤水は藤田幽谷(13歳)に彦九郎の祖母の米寿を祝う詩を作らせています。藤田幽谷は、この後寛政元年(1789)に師立原翠軒に従って江戸に出て、ここで43歳の彦九郎に出会ったのです。彦九郎は、「自分は天下を歴訪して人に接することが多いが、あなたのように卓越した者に出会ったのははじめてである。聞くと病気も多いとのこと、余暇には剣道に励み身体を鍛えよ、必ず勉学に益があろう」と幽谷を励ましています。
彦九郎は、寛政2年5月25日湯島天神を拝したあと蝦夷地渡航を決意し、長久保赤水を訪ねて別れを告げます。日記でもある『高山子遺書漫録』によって以下に概略を示します。
6月30日、鹿島灘海岸線を北上して大貫(大洗町)、湊(ひたちなか市)、勝倉(ひたちなか市)から那珂川をわたって水戸城下へ入り、竹隈の立原翠軒宅へ入ります。
7月1日、幽谷と父が今や遅しと待ち受け、喜んで迎え入れ、冷麺に酒を出して歓待したことを記し、さらに「一正(幽谷)と大義の談有りける、一正能く義に通ず、存慮の筆記を見す、同じくは公よろしからんと示しけるに、忽ち筆を取りて改めける、才子にして道理に達す、奇也とて、よろこび語る事ありける」と記して、たがいに肝胆あい照らし、また幽谷の学問の深さに驚嘆しています。
この後、常陸太田の西山荘(西山御殿)や小澤九郎兵衛、高野昌碩、旧水府村の木村謙次などを訪ね、孝子節婦を讃えています。
高山彦九郎の9泊10日にわたる水戸・太田周辺への旅は、水戸藩の学問と文化およびその遺蹟に直接触れて感動し、さらに孝子節婦の顕彰につとめたのであり、これによって、彦九郎と出会った水戸藩関係者の中に、多くの文献が残ることとなりました。
4 高山彦九郎遺書の蒐集と筆写
高山彦九郎が、自刃した後、遺書類のほとんどは、盟友であった簗次正に預けられ、次正が死去した後は、次正の甥簗紀平に引き継がれます。紀平は、幕臣林鶴梁の門下生として江戸に来ていました。林鶴梁は、儒学者であり、遠江中泉および出羽幸生の代官を勤めるなど、民政家としても知られる上に、藤田東湖とも交流があって尊王心も厚かったのです。簗紀平を介して高山彦九郎の遺書類を譲り受けた鶴梁は、「遺書を開いて見ているとまるで高山彦九郎と相対して語り合っているようである」と喜び、眠れないはどの感動を受けたようでした。
これを以て鶴梁は、盟友藤田東湖とその門人桜任蔵に示し、二人に遺品を譲り与えました。
しかし、林鶴梁に代わって彦九郎の遺書の蒐集につとめたのは桜任蔵です。任蔵は、藤田東湖の門人であり、高山彦九郎の崇拝者でもありました。
その任蔵は、収集した彦九郎の遺品を土浦神龍寺の如連大寅禅師と長島尉信に示します。二人は、彦九郎の純粋な忠孝の精神に感嘆し涙を流し、如連禅師は、「これら皆彦九郎の血誠、紙面にあふれている。一字一涙なくしてはいられない」と香を焚いて礼拝した。尉信は、早速これらを模写し、欠けたとこ ろを補って冊子にする決意を固めたのでした。
尉信の筆写本には 「高山紀行集」、「高山氏安永四年北国日記」、「高山子遺書漫録」二・三・四・五、「古河渡の記」「小田原行」「武江旅行記」「赤城従行」「小股行」「沢入道の記」「子安神社道記」「武州旗羅」などがあります。
これをもって想像すると、尉信は、それぞれの遺書を筆写しながら、各地を奔走する彦九郎の心中に想いを走らせていたようすをうかがうことができます。
5 高山彦九郎遺品の伝播
尉信は、実際に蒐収した遺書を、彦九郎の精神を伝え、かつその保存のためにも分割して所持することが望ましいとして、同志同好の士に分与しています。そのようすを、『高山子遺書漫録』から抜出してみます。
「子女せい命名の記」(藤田東湖へ)、「石巻辺の吉野先帝碑」・「祖母服喪中の弔慰金等記録」・真蹟「忍」(桜任蔵)へ、「新玉の旦したの風にとけ初めて四方のささ波文を成すらん」(久留米、村上量弘へ)、「親を思ふの誠は天津神の御心にて万の行是よりなりぬ、この心推ハや満ん天力下かたミに残す言の葉としれ」(笠間、加藤桜老へ)、「妹きんに与へし刀銘の記」(土浦、大久保要へ)、「彦九郎関係細川平洲書」(土浦、藤森弘庵へ)、「高山筆記並杉山忠亮序」(薩摩、有馬新七へ)。このほか、天保7年(1836)市毛幹規への返信に含めて、高山遺書を二巻送っています。
<杉山忠亮>
藤田幽谷の門人に杉山忠亮がいます。忠亮は、彰考館総裁を務める人物で、『高山正之伝』を著すなど深く彦九郎に心酔しており、尉信とも昵懇でした。尉信は、天保11年(1840)5月2日に、杉山忠亮に彦九郎26歳時の前髪・櫛・小刀・水滴などを与えています。
尉信は、高山彦九郎の書簡、和歌などの遺墨をまとめた冊子への序文を江戸在中の忠亮に依頼し、忠亮は、天保13年5月、「題高山処士遺墨」と題してそれに応えています。その中で、水戸において暇があると忠臣孝子のことについて歓談したが、尉信は彦九郎を尊び、慕うこと最も深かったと称えています。
また、これには、今年は彦九郎が歿してから50年、しかも6月28日は忌日に当たること、尉信はこれを期して同好の士と集って詩酒をもってその英魂を慰めようとしていることも記しています。さらにまた、この頃久留米の木村重任が、彦九郎の忌日に彦九郎の最期を見取った森嘉膳の子らと、墓前祭を行なうと忠亮に伝えて来ていたようで、忠亮は「ああ、筑紫と常陸とへだてること三千余里にして意気合えり、奇といってよい。尉信は、実に徳は孤ならずを楽しんでいるのだ」と感嘆しています。
杉山忠亮に預けられたこれらの彦九郎遺品は、忠亮が歿した(弘化2年、1845)後、藤田束湖の推薦もあって、長島尉信の手を介して猿島郡岩井村(岩井市)の間中雲帆に譲られました。嘉永年間のことと思われます。
<大森道義>
桜任蔵は、御前山村長倉の大森道義との交流がありまし た。大森家は、天保の飢饉に際して蔵書を売り払って救済米を献上し、桜任蔵もその心意気に感じて親交を結び、収集していた高山彦九郎の遺髪を与えました。その後、安政の大獄に関係して身辺の急変を悟った桜任蔵は、妻子を昵懇であった勝下(旭村)の神官田口秀実に預けました。秀実は、もと潮来村(潮来町)の関戸家に生まれ.早くは宮本茶村について学び、嘉永元年(1848)水戸において藤田東湖の門人となり、やがて同5年正月には江戸に出ています。
しかし、当時の情勢は厳しさを増し、秀実の周辺にも危機が迫ってきたことにより、秀実は、任蔵の妻子を御前山長倉の大森家に預けましたが、任蔵の妻はここで歿し、任蔵も大坂に潜伏中病死してしまったことにより、任蔵の妻が持っていた遺品は大森家に残ったのでした。大森家には桜任蔵から直接譲られた遺髪と、任蔵の妻子がもっていた遺髪との二組が残されて、現在に至っています。
<矢嶋行康>
慶応3年(1867)に長島尉信が歿して後、信州海野宿(上田市東部町)の矢島行康が明治5(1872)から6年にかけて長島家を訪ね、彦九郎関係の資料を書写、収集しています。行康は、天保7年(1836)に生まれました。行康は、高山彦九郎を深く欽慕し、安政元年(1854)19歳のころからその遺墨遺品の蒐集につとめ、その譲り受けできないものは、いかなる遠路もいとわず訪ね行き、書写してその大部分を集めています。また、行康は養蚕業も営み、蚕種の販売に諸地方へ出かけて資料の情報を得、目当てのものがあると売上の多くは蒐集費用に充ててしまったといわれています。(現在、矢島家に所蔵されている尉信自筆の『高山子遺書漫録』『高山仲縄紀行集』『安永四年北国日記』なども、行康が長島家を訪問したときに、譲り受けたか、購入したかと思われます。)
行康は、こうして集めた彦九郎関係の資料を上田藩の能書家二人と経師屋を雇って住まわせ、表装・整理しさらにその複製本をつくらせ、『玉能御声』や『高山錦嚢』などにまとめています。明治7年(1874)には、彦九郎遺書等の縁で岩倉具視との交流が始まり、同11年の明治天皇の北国巡幸に際しては、『玉能御声』などか天覧に供されました。これらは、さらに同20年12月に、桐箱に収められて天覧に供され、そのうち数点が献上されています。
明治10年ころからは、有志と協力して高山神社創建を企画し、その準備を進めます。神社は、同12年12月12日に造営され、行康は、彦九郎の遺品中、浄衣・笏・冠・沓の四点を献納しています。行康のこのような積極的な行動は、かつて林鶴梁を訪ねた時きに厳しく問われたことが背景となっています。即ち「高山彦九郎は忠義の人である。あなたは、外見は忠義の人であるが、内実はどうであろうか。いかに万巻の書を所蔵していても、それが天下に益するところがあるか。そうでなければ、彦九郎は喜ばないであろう。そうはいうものの、いわゆる忠と義とは古今の人々の実行しがたいところである。あなたは、彦九郎の書をひもとくごとに、彦九郎を目標として行動できるかどうか。もしできれば、彦九郎がまた今日に生きているということができよう。あなたの覚悟はどうかと。
このように、桜任蔵をはじめとして長島尉信が譲り受けた高山彦九郎の遺書は、尉信によって保存され、または書写されるとともに、さらに尉信によって彦九郎心酔者に分与されていきました。それらは、幕末の志士を互いに結びつけることとなり、彼らの尊王心・忠義心を高めて、幕末激動の担い手となっていくのです。一人の人物の行動が、世の中を動かしていく例として、長島尉信から学ぶ所、実に大きいものがあります。
郷土の歴史に注目し、郷土愛に徹した尉信、多くの同士を育て結び付けた尉信、確かな歴史上の人物を精神的バックボーンとした尉信。精力的に走り続けた長島尉信の生涯でした。
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