水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

水戸藩三屋敷巡り

2023-09-10 04:53:38 | 日記

夏季講座は「徳川家康と水戸」をテーマに展開しました。その一環として、8月28日(水)と9月6日(水)の2回「水戸藩三屋敷を訪ねて」の移動教室を開きました。
徳川家康が辛抱強く江戸の整備に努めた心境をおもいながら、江戸城を中心に水戸藩三屋敷が俯瞰できる地図や切絵図を手にして、水戸藩の上屋敷(小石川)、中屋敷(駒込)、下屋敷(小梅)跡を巡りました。

小石川上屋敷跡
小石川後楽園と東京ドーム、遊園地が占める上屋敷跡は、藩政の政治・経済・外交の主要事業を展開した所で、藩主や長男、主要な家臣団の住居や藩士長屋が存在した所です。主要部は後楽園になっています。隣国の詩人氾文正の「岳陽楼の記」にある「君子は普段から先に将来を憂いてそれへの備えを怠らず、対策を練る(先憂)。その結果は大変に望んでも何事もなかったように平安な社会を実現させたことを喜ぶ(後楽)」から採ったものです。

この公園には、義公光圀が忠義心や親子兄弟愛を学んだ伯夷叔斉兄弟を祀った「得仁堂」や朱舜水考案の石橋「円月橋」、藤田東湖が安政の大地震に際し、母親を助け出したものの、自分は梁の下敷きとなって圧死したことを供養する「藤田東湖先生護母致命之處」などがあり、感慨深く見学しました。

 

 

駒込中屋敷跡
中屋敷跡は、現在東京大学工学部の校舎群となっている向岡にありました。烈公斉昭が藩主就任直前に記した「向岡記碑」(向岡の由来を記す。常陸太田産出の寒水石)が保存されているだけですが、この碑だけでもよく保存されたなと感謝してきました。
隣接する農学部内には、義公が師と仰いだ明国の遺臣朱舜水(中屋敷で生涯を過ごした)に関する「朱舜水先生終焉之地」の記念碑が建っています。

中屋敷は、隠居した藩主や子女たちが住み、時には災害時の避難所ともなりました。烈公はこの屋敷内の「亀の間」で30年間学問に励みながら過ごし、藩主に就きました。逆に、幕府から天保の改革の行き過ぎとして処罰を受けて隠居謹慎をされた屋敷でもあります。

なお、この地は現在「弥生町」です。この名は「向岡記」の中の「夜余秘(やよい:3月)の十日」からとったもので、この周辺で発見された新型の土器は「弥生式土器」と名付けられました。

 

昼食は、皇居二重橋前広場にある「楠公レストハウス」で摂りました。ハウス前の広場に建つ「大楠公」の銅像は、住友金属工業が別子銅山開削200年事業として、東京芸術大学の高村光雲ら彫刻界の粋を集めて明治33年に完成したものです。住友は、義公生誕300年を記念して藤田東湖著『弘道館記述義』の解読解釈本を刊行しています。利益の還元方法の模範を示したものといえます。

小梅下屋敷跡
下屋敷は隅田川に面した所にありました。他藩の人たちを含めて藩外の人々を接待する場所でもあり、水戸から運ばれる年貢米等を保移管する蔵屋敷も多く建っていた所でした。明治維新後は、水戸藩邸(小梅邸)として新政府から下され、11代藩主昭武公などが住まいされていました。関東大震災で焼失した後、屋敷内の庭園を保存しながら公園として整備されました。

明治8年4月4日、明治天皇が行幸され、「花くはし桜はあれとこのやどのよよのこころをわれは問ひけれ」との御製を詠まれました。春爛漫、桜は満開、皆花見に興じるところではあるが、自分は水戸家が代々にわたって尊王のこころを伝えて、ついに明治維新を実現させてくれた。そのお礼を述べたいとの思いからでした。その御製の碑が建っています。

かつて水戸家は、幕府から藩主斉昭が処罰され隠居謹慎を命じられ、側用人藤田東湖もこの小梅の蔵屋敷に幽閉されました。その苦難の中で東湖は「正気の歌」を詠み、自分は忠義の鬼となって皇室を戴く皇国を護持するとの決意を明らかにしています。堂々たる歌碑の前で、東湖先生を偲びました。  

東湖先生は、かつて剣術に秀でていた同僚の秋山魯堂に依頼されて魯堂の剣術道場の記も記しています。魯堂は水が絶えることなく滾々と湧き出るように、常に学問に励んでいたことから「水哉舎」と命名したこと。その魯堂は、蔵屋敷の水主から、蔵奉行として赴任した結果、この屋敷の藩士たちの怠惰が一変したこと、離任は「一邸の不幸なり」と惜しまれたことを併せて記しています。

この小梅屋敷には、様々な模様のドラマが秘められています。それらを見つめ、飲み込みながら、隅田川(墨田川)は悠々と流れていました。

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