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水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

歴史に学ぶ社会福祉の成立 ―和を以て貴しと為すから―

2021-11-28 14:09:53 | 日記

 秋期講座Ⅱの1回目が11月21日(日)に茨城県那珂市ふれあいセンターごだいで約50名の来場者のもと開催されました。
 テーマは「歴史に学ぶ社会福祉の成立」―和を以て貴しと為すから―で、講師は谷口邦彦氏が務めました。

 谷口 講師は、「福祉」が声高に叫ばれる今日、「福祉とは(ゆりかごから墓場までの)幸せづくりである」との基本理念から始まり、古代社会から現代まで仏教の「慈悲心」、為政者の「お救い、慈愛」から権利意識の高揚と法制度整備の近現代までを、渋沢栄一の貢献を交えながら時系列的に映像を交えて丁寧に説かれました。

 永年福祉政策を研究されてきた谷口先生の明快な講演は、改めて福祉の歴史的重みに納得された様子であり、自助・共助・公助の意義、普段からの精神的紐帯の大切さを実感させられた内容でした。

以下に、講演の概要を示しておきます。

日本の社会福祉の歴史的展開
1 萌芽期
 ○ 日本の皇室の基本的姿勢:「民に利あらば何ぞ聖の業に違わん」(国民福利を第一との考え)
 ○ 6世紀に仏教の伝来以降、仏教的慈悲心の高揚
 ○ 推古天皇の意向を受けた聖徳太子の四天王寺(「極楽への入口」ともされた)建立(593年)、石の鳥居前の石柱には「大日本仏法最初四天王寺」とある。
  関連施設として四箇院を設置
 ○ 敬(きょう)田院(でんいん)(修行所)、悲田院(貧窮者・孤児など収容救助施設。聖武天皇の皇后である光明皇后が設置)、療病院(療養施設)、施薬院
  (薬草栽培と分与。光明皇后が設置)の4施設は
  福祉施設の原点である。御歴代皇后は、福祉施策の先頭に立たれ、福祉の振興・増進に腐心されております。
 ○ 聖徳太子の17条の憲法(604年)の「和を以て貴しとなす」は互助・共助の精神を説き、福祉の精神の出発点である。聖武天皇。光明皇后は仏教の慈悲心を
  以て、全国の地震・疫病に備えようとされた。全国の総国分
  寺である東大寺に対し、743年に大仏建立の詔を発した。やがて、平安時代には武士の勃興による戦乱、マシンの流行や天変地異の頻発により末法思想にお
  おわれる、容易な救済を求める浄土教の教えが広まる。
  この混迷の世を救おうと、僧侶たちが活動する。行基は用水池を掘り、橋を懸けた。旅行者の救済に布施屋を設けた。諸国を遊歴した空也や源信が、厭離穢
  土・欣求浄土の精神を広めた。平安の世を生み出そうと、
  仏教界・僧侶たちの活躍は注目に値する。

 鎌倉時代には、や病人が文殊菩薩の化身とされて彼らへの施しが盛んになる。叡尊が代表的存在であった。その弟子忍性も鎌倉に極楽寺を開き、極楽寺坂切通しを開くなど社会事業にも貢献し、四天王寺の別当となっては石造の明神鳥居や悲田院・敬田院を再興している。聖徳太子を尊崇し、四天王寺の役割をよく認識していた。筑波山麓の領主小田氏の保護を受け、三村山麓の清冷院極楽寺に住し布教活動を行ったことは、忍性を身近に感じさせる。
 江戸時代には急激な人口増加と国土開発が進み、頻発する災害から「生きる」力が求められた。江戸時代をおよそ260年として、平均とすると20年に1回のペースでマシンが流行したことになる。それに備えて、「治」の在り方に「勧農」と「御救」のバランスが求められた。百姓一揆も「生きる力」の発揮とも捉えることができる。各藩では備考貯蓄として会津藩の「社倉」、岡山藩の「義倉」、水戸藩の「稗蔵」などが設置された。幕府は、貧窮病者のための医療機関「小石川療養所」や老中松平定信による就労促進の「人足寄場」も設けられた。

2 生成期
 ○ 明治5年に渋沢栄一の尽力による「東京養育院」が設置され、明治7年には恤救(じゅっきゅう)規則が成立して貧窮者に対する救済も具体化された。

3 発展期
 ○ 明治明治32年に、横山源之助の『日本之下層社会』に代表されるように都市下層社会の調査が行われ、翌33年には非行少年の教育保護として感化法が制定された。茨城県那珂市出身の代議士根本正は、「教育の機会均等」の立場から
  小学校の授業料撤廃、青少年の健全育成の立場から未成年者禁酒禁煙法を議員立法化させた。

4 成熟前期
 ○ 第一次世界大戦は、輸出の増大による財政再建を果たすとともに、一方で資本家と労働者の格差社会が出現した。経済的貧困や生活の困窮は、社会的要因に より発生することが認識され、「慈恵」から「社会事業」
  の必要性が強く認識された。その要求の代表的例は、大正7年8月に富山県魚津町から発生した米騒動である。

  この頃緊迫してきた日米間の親善のためにもと「日本国際児童親善会」が設立され、渋沢栄一もこれに尽力した。

 谷口邦彦講師は、「社会福祉が対象とする生活問題は、資本主義社会の根本的矛盾から必然的に生まれたものであり、特に社会福祉政策という言葉は、資本主義社会の固有な政策として、内部の展開過程で出現したものである」と結んでいる。

5 成熟後期
 ○ 戦後の改革では、婦人参政権や労働組合の結成を認め、憲法25条に生存権が明記され、比較的恵まれないもの・弱者へのまなざしが強化された。公衆衛生局も設けられ、またGHQの推薦により労働省の初代婦人少年
  局長に水戸出身の山川菊栄が登用された意義は大きい。
  法整備も進み、生活保護法・児童福祉法・民生委員法・身体障碍者福祉法老人福祉法など次々と福祉法が制定された。

 このような中、自助・互助・共助・公助などのことばが頻繁に使われ出し、社会的にも福祉に関しての意識の再認識が深まったのである。

 

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太平記の里を訪ねて

2021-11-05 15:34:25 | 日記

 令和3年11月1日(月)薄曇りながら紅葉の始まった上州路を参加者24名で、金山城跡、金龍寺(曹洞宗)、 生品神社、反町館跡を訪ね、南朝に味方した忠臣新田義貞公の往時を偲びました。

金山城跡
 新田義貞公の子孫岩松氏が15世紀半ばに築城、同系統の由良氏 が全盛期を生み出し、その後後北条氏の配下に入り、天正18年(1590)に後北条氏が豊臣秀吉に攻められて滅亡するともに廃城となりました。
 中世の城郭は、深い堀と石垣を持たない高い土塁のイメージが強いですが、この城は標高239mの金山(全山石山)の尾根上に築かれた山城です。近辺の金山石を以て野面積みされた石垣や石畳みの曲輪を持ち、多くの堀切を以て防禦を固めた特異な城郭です。平成に入ってから整備復元が進みました。
 山頂には新田義貞公を御祭神とする新田神社が祀られています。義貞公の誠忠に思いを馳せながら参拝しました。境内の大ケヤキも歴史の古さを偲ばせてくれます。

金龍寺(曹洞宗)
 本堂裏手の山裾には、新田義貞の供養塔を中心に、新田氏及びその家臣団が整然と祀られています。由良氏が、常陸国牛久に移封されたことから、牛久にも金龍寺が移転され、そこにも立派な供養塔が立てられています。中世領主一族がまとまって供養されている例が少ない中で、ここ太田市の金龍寺には新田公に対する畏敬の念の強さが漂っていることを感じさせてくれます。

生品神社
 御祭神は大穴牟遅神(オオナムチのかみ)です。元弘2年(1332)11月、後醍醐天皇の朝権回復の企てに味方して楠木正成公が、河内国千早城に拠って義旗を翻します。その軍勢を攻めるために北条執権勢が集結します。その数、全国66か国のうち36か国の軍勢80万余と言われ、その中に新田義貞も加わっていました。楠木正成公の孤軍奮闘ぶりが、如何に厳しい状況であったかを伺うことができます。
 そのうちに、義貞公が後醍醐天皇の綸旨を受けて、義に目覚めるとともに、鎌倉北条氏の新田の庄への侵略に対抗して鎌倉攻めに転じます。約150騎の少人数でしたが、実に勇気ある大英断でありました。元弘3年(1333)5月8日のことです。出陣する際に戦勝を祈願したのがこの生品神社です。
 境内には、鎌倉攻めのために七里ガ浜の稲村ケ崎で家伝来の古刀を捧げて、潮引きを祈願する新田義貞公の銅像が建っています。
 その銅像の前で、参加者全員で唱歌「鎌倉」の一節、「七里ガ浜の磯伝い、稲村ケ崎名将の剣投ぜし古戦場」を歌いました。義貞公もさぞ、大喜びされたことと思います。

反町館跡
  一時、新田義貞公が住まいされた館跡で、堀や土塁が残り、一部は整備されて水を満々とたたえた水堀となっています。戦国時代に三重の濠をめぐらしたといわれる新田の荘を代表する館内には、現在は照明寺が建っています。新田義貞公の生活の一端を垣間見る思いです。
 城館跡の整備の一つとして、参考になる所です。

 後醍醐天皇に反旗を翻した足利高氏方の軍勢に攻められた新田義貞は、越前金ヶ崎城に退却しますが、延元2年(1337)3月、金ヶ崎城も陥落して杣山城へ移り、藤島(福井市)の灯明寺畷で激戦となります。ここにおいて、家臣中野宗昌が退却を進言しますが、「部下を見殺しにして自分ひとり生き残るのは不本意」なりと最後の奮戦を試みる中、相手方の氏家重国の矢に当たって戦死します。同年の閏7月のことです(38歳)。『太平記』は「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない  兵士の矢で命を落とした」「都大路を引き回された後に獄門に下る」と批判的に記していますが、終始変わらない忠誠心には、心打たれるものがあります。

 淡い紅葉の「太平記の里」を、しみじみとした思いで後にしました。

 

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