水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

河内駅家の謎を解く

2023-10-05 05:28:25 | 日記

R5秋季講演会「文化遺産シリーズ」第1回が、9月17日(日)にふれあいセンターごだいで行われました。講師は樫村弘明氏です。

古代の駅制は、中央と諸国を結ぶ駅路に凡そ16キロメートルごとに設けられた駅家の馬を利用できる公的使者が、中央の命令を地方に伝えるという交通・通信の制度のことです。
その駅家の一つである那賀郡の「河内駅家」、『新編常陸国誌』にでてくる那珂川沿岸にあったとされる「河内駅家」の位置について、文献や実地踏査をされた結果についての報告です。歴史の真実を求めて進めていく調査研究の楽しさが窺えた感じでした。

1 樫村様の詳細な考証は省きますが、駅家の探求の方法は文献と発掘調査の成果と地形を読むこと。「土地宝典」の小字名は貴重な文献であるとされています。
  那珂川の右岸が自然堤防により微高地となるので候補地である。渡里廃寺や郡衙のあった渡里地区にあったと想定できる。

2 この河内駅家は渡里地区としても、前期と後期と位置が動いている。前期河内駅家は長者山や渡里官衙遺蹟の南方あたりか。小字地名「洞ノ内」を挟む両隣に「神田」が二か所あるが、これは「駅田」でもある所から駅家の存在と推定される。

3 移転した後期駅家は、現茨城大学の駐車場に近い小字名「前原」「狸久保」「南前原」辺りと推定する。

4 『常陸国風土記』に出て来る「曝井の泉」は、小字名「狭間」「曳池」「上曳地(池)」のある周辺で前期河内駅家の南側にある崖の「狭間」に当たる。現在建碑されている愛宕町の場所とは異なる。

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