水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

身命を賭して国事に奔走した水戸の先人たちを偲ぶ -桜田の一挙は現代人に何を問いかけるのか-

2024-03-19 08:43:47 | 日記

3月3日は旧暦ながら桜田門外の変の当日に当たります。
この日、桜田烈士のご子孫にあたる鯉渕義文氏が、「身命を賭して国事に奔走した水戸の先人たちを偲ぶ」― 桜田の一挙は現代人に何を問いかけるのか ―と題しての講演をしました。

平成20年、水戸を元気にと青年たちがに内閣府の「地方の元気再生事業」に応募しました。応募した事務局長を務める三上靖彦さん(当時49)は、「桜田門外の変は誇りを持って語れる歴史なのに、郷土教育でも敬遠して扱わない。地元だからこそ、もっと正面から取り上げていい」(朝日新聞DIGITAL2008年8月20日より)。として、桜田門外ノ変映画化支援の会を立ち上げられました。会では歴史講演会をはじめ、地域を元気にするための様々なプログラムが実施されました。鯉渕義文氏は支援の会のプログラムに参加しながら、自らも調査・研究を重ね、これを後世に伝えようという思いから『情念の炎』上・中・下と『志士たちの挽歌』の計4冊を著しています。

では、講演の内容をごく簡単ですがお伝えしたいと思います。

烈士たちは、国事に奔走し、身命を賭して、使命感を全うしようとしました。
今日の政治家はもちろん、我々国民も、その意義を考える必要があると思います。
国のことを他人事ととしては、社会改革は成らないのではないでしょうか。

● 変の狙いは大きく2つありました。
 一つは、水戸の志士たちは横暴な井伊大老を排除することにあり、もう一つは、薩摩藩では荒れている京都の朝廷守護をどうするかにありました。
 尊王攘夷思想を抱く彼らは、井伊直弼が日米修好通商条約を無勅許で調印したことを重くとらえ、井伊直弼の横暴な君側の奸を除くことに主眼を置いたのです。
 志士たちの残した「斬奸趣意書」からは、違勅調印譴責を口実に、将軍継嗣問題決定の延期を狙っていたことが見えてきました。

● 全体の計画立案者は、水戸藩小姓頭取の高橋多一郎と郡奉行金子孫二郎でした。
 要撃実行者は水戸脱藩烈士17名と薩摩藩士1名
 ※ 薩摩藩では藩主島津久光が勅命によって行動することを求めていたため、勅命がない以上、行動は許されないとの信念がありました。
   この藩内混迷から9名の殉難者を出しています。

● 義挙なのか? 暴挙・テロなのか?
 志士たちの残したものからわかってくることとは…?
 いくつか、挙げておきます。

・烈士の行動は「身を殺して以て仁を成す」(『論語』衛霊公第15)

・鯉渕要人の遺書から見えるもの
 現代の我々は結果的に大老暗殺が成功したという前提に立っているが、烈士たちが故郷を離れる時は、死ぬ覚悟で江戸に向かって行ったことを忘れてはならない。

・黒澤忠三郎の絶命詩
 「狂と呼び賊と呼ぶも他の評に任す、幾歳の妖雲一旦晴る、正に是桜田門外血は桜の如し」

・現場指揮官 関鉄之介の叫び
 「今のままでは駄目だ、人心を、世間を変えなければ日本は滅びる。先ずは志を持った我等水戸の同志が、その意思を天下に示そうではないか」

 

 この桜田門外の変後、幕府は急速に求心力を失い滅亡に向かったことは確かである。
 桜田烈士たちの行動は、王政復古の道を開いたといえる。
 社会変革の志をもってその意思を社会に示す。この150年前の先人たちの叫びが、鮮やかに現代に蘇ってくる。

 

 

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