水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

中世の豪族結城氏を追って

2023-04-01 12:10:49 | 日記

春爛漫、桜満開の3月29日(水)、中世の豪族・近世の譜代大名であった結城氏の跡を訪ねて、歴史の重み、深さを堪能してきました。

結城氏は、小山氏から出た朝光が結城郡を与えられ、 地名を以て結城姓を名乗り初代当主となって以降、約400年間の歴史を編んだ名族です。
朝光は、親鸞聖人と出会い帰依し、上人の高弟真仏を開山として称名寺を建立しています。この寺には朝光以降4代までの墓があります。

結城氏は、3代広綱の弟祐広が白河を得て、白河結城氏を起こします。南北朝時代は、北朝方の下総結城本家と南朝方の白河結城氏で同族間の争いとなったこともありました。

その後、下総結城氏は関東管領や鎌倉公方との対立抗争 を経ながら、永享13年(嘉吉元年)6月氏朝(11代)・持朝(12代)の代に落城します。
初代朝光以来250余年の結城家の歴史終焉断絶となります。
しかしまもなく復活します。
16代
政勝が「結城氏新法」(104カ条)を制定し、菩提寺乗國寺(懇切な対応に感謝感激でした)の三度目の修復を果たします。
政勝は慈眼寺を創建して城内の歴代領主の御廟所を移転整理しました。

政勝の子晴朝に子がなく、晴朝の養女鶴姫に秀康(家康の次男;秀吉の養子)をむかえます。
秀康は天正18年(1590)、三河1万石から結城5万石領主となります。
しかし、関ケ原合戦後、越前北の庄67万石に移封となり、城下は「北の庄」を改め「福井」と称しました。

慶長7年(1602)、結城城は廃城となり取り壊されました。
慶長12年(1607)、秀康は34歳で歿し、嫡男忠直は結城姓を改め松平姓を名乗ることとなりました。          

江戸時代に入り、結城は天領となり伊奈備前守忠次が支配、その後水野監物忠元が入り、水野家が明治維新まで結城藩を収めました。
中世から近世の面影を残す城跡は、公園として整備され、満開の桜が迎えてくれました。
園内の聡敏神社は、備後福山藩から結城へ移った藩主水野勝成の功績を称えて福山から勧請創建された神社で、「総敏」は勝成の「聡明俊敏」を称えて社名にしたものです。

結城市郊外の小田林には、「三国三公之碑」と「江戸重通之碑」が並んで建っています。
「三公の碑」は幕臣榎本武揚の門人となった結城藩士光岡多治見の尽力により、石工宮田九鶴が彫ったものです。
題額「三国三公之碑」(下総・下野・常陸の三国に渡る地域で功績のあった平貞盛、藤原秀郷、結城朝光を顕彰)は榎本武揚です。
「江戸重通の碑」は、結城晴朝の娘婿水戸城主江戸重通が佐竹重義に攻められ落城した際に、義父を頼って庇護されていた「江戸殿館跡」に建っています。

最後は市内に戻り、結城氏の菩提寺称名寺(浄土真宗)を訪ねました。
御住職の丁寧な説明を受けた後、朝光公の墓に詣でてきました。

 

太田の佐竹氏に奪われるまで約160年間、水戸城を支配した江戸氏、那珂氏から江戸氏、福井へ移っては水戸氏を名乗るなど数奇な運命に思いを馳せながら、その史跡を訪ねた一日でした。
こうして、春の草木を愛でながら史跡めぐりの出来る平和な今日に感謝した日でもありました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 令和5年 春期講演会のお知ら... | トップ | 昭和天皇と終戦の混迷 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事