令和7年3月25日(火)、3月2日(日)の講演会「田中正造をめぐる郷土の人々 ― 根本正と黒沢酉蔵 ―」を受けて、田中正造関係の遺跡を訪ねました。また、近隣野木町にある煉瓦窯も見学してきました。参加者39名。天気に恵まれ、有意義な移動教室となりました。
○佐野市郷土博物館内「田中正造記念室」
佐野市では、郷土の偉人を顕彰するために、博物館内に「田中正造記念室」を設けています。
館長の案内と直訴状や和歌をはじめとした当時を知る原資料を通して、正造が谷中村に住み込んで足尾鉱毒排出問題に立ち向かった必死な行動を実感しました。
また、田中正造が初めに北海道の苫小牧に就職して北の大地の苦労を体感し、東北地方の冷害調査などを経験したことが、その後の生き方を変え、明治天皇への直訴へと繋がっていったことを学びました。
○ 田中正造旧宅
正造の色紙「愛」が光りました。また、『田中正造全集』が揃って展示されており、編集に尽力した黒沢酉蔵の談話記事も展示紹介されていたことに感激しました。
生家前の夫妻の墓所には、全員揃って参拝しました。
多くの人に称えられ、分骨された墓が6か所もあるそうです。弱い者の味方となり、人生のすべてをかけた人物の証だと思います。
○ 渡良瀬遊水地:廃村谷中村
足尾銅山の鉱毒は、遊水地を設けて解決を図りました。立ち退きを迫られた谷中村の人たちの悲痛な叫び声が聞こえてくるようでした。
日本の高度成長時代の公害問題を思い出しました。いつの時代でも、文明の黎明期には想定外の問題が起きます。その問題を解決しながら人間は歩んできました。私たちが便利で快適な生活が出来るようになるまでには多くの犠牲があったことを忘れてはなりません。
遊水地は、現在は葦などの自然植物の繁茂に任せています。広大な面積で、3月初めに葦焼きが展開されます。目的は自然保護とも野鳥のためともいわれています。
今回は、その焼け跡全体を展望台に上って観察、しばし感慨に耽りました。
この鉱毒被害はその後の環境問題の教訓となっています。
○ 野木町煉瓦窯
煉瓦造りの建屋は、渋沢栄一の尽力による深谷駅や東京駅などが有名でしたが、渡良瀬遊水池の対岸に位置する野木町にも煉瓦窯が在りました。
⇩ 観光案内書を参考にしました。
旧下野煉化製造会社煉瓦窯(通称、野木町煉瓦窯)はホフマン式の煉瓦窯で、明治23年(1890)から昭和46年(1971)までの間に多くの赤煉瓦を生産し、日本の近代化に貢献しました。この煉瓦窯には16の窯があり、1つの窯で1回に約1万4千本、全ての窯を連続して使用した場合には約22万本赤煉瓦を生産することが可能でした。また、この煉瓦窯は創業時から約130年経過した現在においても、ほぼ原型のままで存在しており、建造物として価値が高いものです。昭和54年(1979)に国の重要文化財に指定され、さらに平成19年(2007)には、「近代化産業遺産群」の一つに選定されました。
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