令和7年3月16日(日)、当会事務局長仲田昭一が「昭和100年への道、我、ロシア南下の盾たらん ― 中庭午吉の日露戦争従軍日記 ―」と題して講演しました。
江戸時代から明治時代にかけて南下を続けるロシアの脅威に対して、日本国民がどのように対応したか、盾の役割を果たして行ったかを、地元の中庭午吉(なかにわ うまきち)の日記に触れながら、また現在のウクライナへのロシアの侵略と併せ考えながらの講演であったことから、受講者の共感を呼ぶ内容でした。
当時の世界情勢は、英国をはじめ先進国がアジアへの侵略を進めていた歴史であることを認めることが大前提でなければなりません。清国や朝鮮、日本などの先人が、独立を如何にして保つかに死力を尽したことを、自分の事として学ぶ姿勢が求められたことと思います。
日本の独立保持、安定化には朝鮮の安定が必要でした。そのために朝鮮の自主独立を求めた日本の姿勢は、朝鮮からは是とされたのかどうか。是とされる可能性はあったのか、また是とされるには何が必要であったのか。現在にも与えられている大きな課題であることも再認識させられた講演でした。
1.当時の世界情勢への視点
① 地理上の発見とは、他民族への侵略の歴史である。
② 日本は朝鮮の安定化を実現して、南からの英国と北からのロシア勢力に対処しようとしたが、朝鮮との間に江華島事件などで強圧的施策が見られたことは遺憾である。朝鮮の認識としては、日本は東夷、朝鮮は儒教と礼儀・道義において日本よりは優位な国との認識も強く、一方では大陸の清国に従属する姿勢も持っていた。両者の相互理解は難しい状況にあった。
③ 朝鮮への主導権争いが日清戦争となった。日本としては初の対外的、国際戦争である。恐怖心はかなりのものがあったが、日本は軍制改革、軍人教化、兵器の近代化に成功ことなどにより勝利することができた。
④ 勝利した日本は、遼東半島を獲得した。これが、より大陸に進出する機会となったが、これが誤りの原点であるとの主張もある。しかし、領土の獲得が国際通念の時代であったことからは、単純に非難は不可であろう。
⑤「 日本が遼東半島を領有することは清国の独立を危うくする」との露国・仏国・独国の三国干渉は、はたして是認できたか。しかし、干渉を拒み続けた外相陸奥宗光は「武力的背景をもたない外交は無力である」と慨嘆した。3年後の明治31年(1898)、露国は清国から遼東半島を25年間租借する契約を結んだ。満州民族であった清国は、満洲民族発祥の地(先祖の地)を守護する意識・気概があったのかは、厳しく問われなければならない。
2.日露戦争<明治37年~明治38年>
遼東半島は勿論その周辺へのロシアの軍事力は強化されていった。日本は、それを許すことは出来なかった。否、ロシアが直接に日本の領土に迫るまでじっと耐えていればよかったのか。日本は国民挙ってその脅威に反応し、積極防衛に出ていった。遼東半島の旅順港近く、203高地周辺の戦場へ出兵した輜重兵中庭午吉であるが、戦闘の合間に日記を付けていた事実に驚く。
『中庭午吉日記』(抄) 明治37年
6月 1日 雨天、出発7時半、実に道路悪しく山を越えるに困難なり。腰より下皆土だらけ、着地4時頃、夕方雨止む。着地安東県清人の家に宿舎す。本日よりパン一食づつなり。
6月19日 曇り、晴天 午前馬蹄鉄打替、午後休み、旧5月6日にして、5日の節句には屋根に支那、皆桃の枝を赤き布をつけさすなり。猶、ヨモギもさす、柏餅は麦粉の中に生のニラを入る、猶ブタも入れ置くなり。午後5時頃雨少々降り、一時間ばかりにて止む 夜中2・3時頃大雷あり。
6月23日 晴天、午前引馬 前宿舎の浦の山へ三縦列集合し、本国の本願寺坊主出張し説教しそれを聞く。午後1時武器検査あり。
6月24日 晴天、朝霧 午前引馬演習、午後休み、4時馬の検査あり
8月24日(乃木軍総攻撃の日) 朝6時ころ迄(砲音)激しく。朝より砲音も激しく、午前8時頃より時々の砲音になり、19日よりわが軍にてフウセンを2千5百メートル突き程上げ、フウセンの品はフクロキヌなり。フクロノ下に角の籠を下げ、其の内に一人参謀長にて佐官来たり敵陣を双眼鏡にて見、下へ電話にて通知す。またフウセンを針金の綱にて引きをるなり。
晴天、午前8時より宿舎地の前へ行き見物す。海には海軍旅順より東の海に2列を隊に固めおり。西の海にも右の通り旅順近辺は皆小山ばかりの処へ砲台あり。午後8時半出発にて砲台まで弾丸の空箱を受け取りに参りし時、小銃の音激しく致し、敵は時々ノロシを上げ、探海灯は照らさず、12時半宿舎地へ帰り。
29日 晴天、午前引馬、午後休み。夜の12時頃より激しき小銃音す。雨少々降り。
31日 晴天、曇り、午前引馬、休みは午後なり。5時馬屋番。
※ 日記の中に、引き馬、馬屋番など馬の記録がある。戦場への馬への視点を改めて認識させられた。茨城県内の主な軍馬供養碑は、那珂市常福寺、石岡市峰寺西光院、桜川市友部路傍、つくば市吉沼八幡神社、つくば市金村別雷神社などに見られる。常陸太田市若宮八幡神社には日清戦争戦歿者供養碑が建っている。
3.ポーツマス講和条約調印 明治38年(1905)9月5日
日本が、米国のセオドア・ルーズベルト大統領に仲介を要請。日本の小村寿太郎(外相)とロシアのウィッテ(前蔵相)が交渉。結果は
・日本の韓国(大韓帝国)に対する保護権を認める。
・日本に遼東半島南部の租借権を譲渡する。
・日本の南満州の鉄道の利権を認める。
・南樺太(北緯50度以南の樺太 = サハリン)を日本に割譲する。
・沿海州・カムチャッカ半島沿岸の漁業権を日本に譲渡する。
※ 賠償金取れずに条約反対暴動(日比谷焼討ち事件)
一方で、米国の大陸への野望が判明する。米国鉄道王ハリマンが来日し南満州鉄道の共同経営提案10月12日、桂太郎首相とハリマンの協定。米国の中国大陸進取の野望あり。小村外相は、この協定を破棄させた。
4.日露戦争以後
(1)影響
・ロシアの崩壊、ソ連の成立と中国大陸への共産党勢力の拡大
・アメリカの中国大陸への進出
・中央アジア民族の歓喜(黄色人の日本が白色民族の露国を破ってくれたと)
(2)福島県二本松出身、米国エール大学教授朝河貫一の警告
・日露戦争に勝利した日本への英米の圧力は増して来る。「米国の世界的強国」主義が清国の独立保全・機会均等の実現に寄与することを是認して、日本もそのように対応する必要がある。
・日本国民の愛国心は大切であるが、驕ることなく、公平なる態度・沈重の省慮を具備すること。国民の善良なる習慣を養成することに努力することが肝要である
(3)「戊申詔書」の発布
明治天皇は、明治41年(1908)「戊申詔書(ぼしんしようしよ)」を発布され、勝利に驕らず本来の日本人に目覚めて誠実勤労・質素倹約に日々努める国民に戻るよう善導された。これに感激した青年たちにより、全国各地に戊申青年会・同志会なるものが結成され、地域社会の気風改良の運動が展開された。
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