水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

北条家の人々 ― 北条義時と泰時と承久の乱 ―

2022-05-30 12:38:11 | 日記

令和4年5月29日、春季講演会のテーマ「『大日本史』から見た鎌倉御家人たち」の中の「北条家の人々 ― 北条義時と泰時と承久の乱―」を開催しました。

 伊豆韮山の北条郷から出た中世の豪族北条氏が就いた執権の主な人物(〇数字は代数)
  北条時政、②義時、泰時、⑤時頼、⑧時宗、⑭高時(新田義貞の攻撃により自害)

2 御家人の抗争 (陰湿な謀略・謀殺により将軍や有力御家人が次々と滅亡してゆく)
       御家人十三人の合議制(1199.4) 梶原景時の失脚(1200.1) 北条時政執権(1203) 比企能員謀殺(1203.9) 源頼家伊豆修善寺で謀殺(1204.7) 畠山重忠敗死(1205.6) 北条義時執権(1205.⓻)
   和田義盛敗死(1213.5) 源実朝暗殺(1219.1)
   13人の中で、下野宇都宮氏から出た八田知家は、常陸大掾多気義幹を討って常陸に入り、北条時政との親交を重ねて勢力を伸張し、源義朝から実朝までの源氏4代に仕えて生
   涯を全うしました。これは稀有な例です。八田氏からは、常陸の小田氏、宍戸氏、下野の茂木氏などが出ています。             

3 北条時政
  頼朝夫人政子の父、人となりを『大日本史』は「外は厚重、内は深阻、能く権器を以て衆心を収む」と評しています。平氏でありながら、源氏の流人頼朝を匿った決断は奈辺
  にあったのでしょうか。これがなければ、鎌倉時代の到来はなかったであろうから、歴史上に現れる一大決心の一つといえましょう。

 

4 北条義時と政子
  江間の小四郎と称した泰時、『大日本史』は「沈深にして胆略有り、度量人に過ぐ」と評しています。平家滅亡後、頼朝は夫人の弟であることから日に日に親信を増し、家人
  の最たるものとなっていきます。頼朝歿後、力を増した義時は、後鳥羽上皇の命にも服することを拒否する姿勢を示しこともあって、上皇は源氏の世は絶えた、「威権当に帝
  室に復帰すべし」と義時追討の院宣を発します。

  なお、後鳥羽上皇の朝権回復の意図は、以下の御製に表れています。

     「奥山のおどろがしたも踏み分けて 道ある世ぞとひとにしらせむ」

  これをみても、院宣の意味は北条義時一人を追討するのが目的ではありません。
  この時、義時の姉で亡き頼朝の夫人政子の侍たちへの次のような激励はあまりにも有名です。

  「故右大将(頼朝)鎌倉(幕府)を草創してより、伝えて今に至れり。諸君際会に遭遇して世々富貴を保つこと、(その)恩、江海より深し。豈に報効の志無からんや。今、讒臣難を構え
  て天聴を熒惑 (けいわく)せんとす。諸君、名節砥励せんと欲せば、宜しく速やかに藤原秀康・三浦胤義等を斬りて以て三将軍の偉業を全くすべし。如(も)し、院宣に応ぜんと欲する
  もの有らば、去就を今日に決せよ」と。

5 承久の乱
  義時は、嫡男泰時を先陣に付け、19万余の軍勢を以て東海道・東山道・北陸道から京へ進みます。上皇方は、2万足らずの兵力です。

  上皇方は敗れます。これについて『大日本史』は以下のように記しています。

  「官軍一時に崩潰せり」「胤義等帰りて奏せんとす。上皇、門を閉じて内(い)れたまわず。諸将或いは自殺し、或いは逃亡し、京都遂に陥る」。この戦いの咎(とが)を戻った「忠臣の
  公卿大納言藤原忠信ら6人に帰する」と。

  上皇はそのような姿勢であったのかと驚くと同時に、『大日本史』の公平さが窺えます。

6 明恵上人と北畠親房の評価
  以下は、この乱に関して交わされた北条泰時と明恵上人との内容であり教えです。

  <北条泰時と栂尾高山寺住持明恵上人(高弁)>
    栂尾は殺生を許さない山でありますし、私は仏に使える者であります。鷹に追われる鳥あれば、これを助け、猟師に追われる獣あれば、これを保護してきました。まして人
  の救いを求める者あれば、これを助けないはずはありません。官軍の将士を、確かにこれまでかくまいました。今後も保護したいと思います。それがいけないというのであ
  れば、私の首を刎ねてください。

  <その後、泰時が栂尾を訪ねての教え>
     我が国は、神武天皇以来、皇統連綿として今に続いています。それ故、天皇の御命令には、絶対に服従しなけれなならないのであって、もしそれがいやというのであれば、
  日本の国から出て、シナへでも印度へでも、行くがよいのです。それを、あなたは、官軍を亡ぼし、都に討ち入り、上皇達を遠い島々へお流し申し上げ、多くの人々を殺す
  とは、何という間違いをしでかしたことでしょう。この罪は至って重く、容易なことでは償われません。

  <『神皇正統記』の評価(第87代後嵯峨天皇の項)> 
  「凡そ保元平治より以後の猥(みだり)がわしさに、頼朝と言うなく、泰時と云う者なからましかば、日本国の人民いかがなりなまし。
  「人臣としては君をとうとみ、民をあわれみ、天にせぐくまり、地にぬき足し、日月の照らすを仰ぎても、心のきたなくして光りに当たらん事をお(怖)じ、雨露の施すを
  見ても、身の正しからずして恵みに漏れん事を顧みるべし、朝夕に長田狭田の稲の種をくうも皇恩なり、昼夜生井栄井の水の流れを呑むも神徳なり、在るに任せて欲を恣に
  し、私を前として公を忘るる心あるならば、世に久しき理侍らじ」(自然への崇敬、国家への謝恩と奉仕)

  結局は、義時は以下のように三人の上皇を島流しにいたします。上皇配流は歴史上重大事件です。
  後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳上皇を佐渡へ、土御門上皇を土佐へ配流(翌年阿波へ)。

7 北条氏の最期
  元仁元年(1224)  6月 北条義時歿(62、執権)
  嘉禄元年(1225)  6月10日 大江広元歿(78、政所別当) 7月11日 北条政子歿(69)  12月18日 佐竹秀義歿(75)
  貞永元年(1232)  8月 泰時、関東御成敗式目を制定する
  延応元年(1239)  2月22日 後鳥羽法皇、隠岐に崩御(60)  12月 三浦義村歿
  仁治 3年 (1242)  6月15日 北条泰時歿(60、執権)  9月12日 順徳上皇、佐渡に崩御(46)
  寛元 4年 (1246)  3月 北条時頼(母は松下禅尼)、執権に就く
  宝治元年(1247)  6月 時頼、三浦泰村とその一族を滅する(宝治合戦)
  宝治 2年 (1248)  5月 安達景盛歿
  文永 5年 (1268)  3月 北条時宗、執権に就く  この後しばしばの蒙古の使者に対応
  文永11年(1274)10月 蒙古軍、壱岐・対馬・筑前に上陸、台風により撤退(文永の役)
  弘安 4年 (1281)  5月~6月  元軍来襲 閏7月 蒙古元軍大風雨で壊滅(弘安の役)
  弘安 7年 (1284)  4月 北条時宗歿(34)
  弘安 8年 (1285)11月 執権北条貞時、安達泰盛一族を滅亡させる(霜月騒動) 
  元弘 3年 (1333)  5月 新田義貞、鎌倉を攻撃し北条高時以下自殺し北条氏滅亡する  5月 7日 京都    北方探題北条仲時 最後の挨拶の後に切腹
             (従う者;総員少年兵ら含む430余人 全滅)
                      522日 鎌倉 執権北条高時、東勝寺にて切腹(31一族の殉死者280余人、将士の自決者870余人  

  ※ 北条泰時以降も、権力保持のために謀略を以て有力御家人であった三浦氏(宝治合戦)、安達氏(霜月騒動)を滅亡させていく姿への評価は分かれるところです。
    しかし、執権高時の最期に多くの殉死者が出ていることは、北条氏及び鎌倉武士の心意気を窺うことができます。

 このシリーズへご参加くださいました皆様方に厚くお礼申し上げます。

 

北条政子及び北条泰時と栂尾高山寺住持明恵上人(高弁):『源平の時代展』茨城県近代美術館より  後鳥羽上皇:『鎌倉武士』世界文化社より

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