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水戸・歴史に学ぶ会

水戸を中心に歴史を訪ね、学んだことを講演会や文章にしています。会の主旨は、歴史に学びそれを今に生かし将来に伝える事です。

満洲への憧れ ― 満洲鉄道と満洲国建国 ―

2025-04-13 11:47:13 | 日記

令和7年4月6日(日)、当会の事務局長仲田昭一が、「満洲への憧れ ― 満洲鉄道と満洲国建国 ―」と題して講演しました。満洲はロシア南下防止の最前線であり、ここの安定化に如何に努めるかが日本の国策でした。日本、清国、ロシアの問題であったところへアメリカが食指を延ばしたことから、ますます重要な地域となった行きます。しかし、清国もアメリカも満洲地域の防衛や経営に何等の犠牲も投資もしていないことは確かです。開発に意欲的であった日本、国民も憧れを持っていたことも確かです。ただ、満洲民族、漢民族の地であった所、そこへ入る日本民族の配慮は十分であったのか、「五族協和」「王道楽土建設」実現に真摯に向き合っていたのか、等々再考しなければならないことであろうと思われます。

日本の政策を一方的に否定するだけでなく、世界的視野をも以て思考することの大切さを学びました。

〇 満洲の起こりと漢人の進出
  明時代を経て清国を起こしたアイシンギョロ・ヌルハチ(愛新覚羅努爾哈赤)が自国を「滿珠(まんじゅ)」と称し、中世の金国を継承する意味から「後金」とも称し、民族名を「女真」から「滿)珠」と改めた。都は瀋陽(奉天)に置かれた。それがいつからか国名「満洲」、民族名「満洲」となったという。

古代は高句麗、渤海、中世は女真族、遼、金、元など建国。ヌルハチが建国の頃は、満洲の地は「満洲旗人の地」を保存するとして何人も入れない「封禁の地」であり、1644年、ヌルハチを継いだ復臨(順治帝)が、大陸の関内に入り北京を都として清国を設立しました。その後、漢人が移入し、 牧草地や山林を開拓 して一大耕作地へと変貌したのです。 

〇 満洲の位置づけ
  日本としては、ロシアの南下を防ぐことが重大な課題でした。そのために朝鮮の独立を必死に願ったのでした。日清戦争に勝利した結果、日本は清国から遼東半島を譲渡されましたが、ロシアの悪計、強要により清国へ返還しました。しかし、清国民族の拠点満州を護ることなくロシアに貸与。ロシアは遼東半島突端の旅順・大連を大商港、大軍港として開発地歩を固め、南満州鉄道を敷設して勢力を拡大しました。
これに危機感、脅威を感じたに日本は立ち上がり、日露戦争となります。この時、米国は着々と西進してアジアに迫っていました。シナ大陸、清国への利権獲得のチャンスを狙っていたのです。日露戦争には、ロシアの勢力に抗して日本への好意を示し、日本の勝利に貢献しました。満洲からロシア勢を後退させ、そこへの侵入を図っていたのです。日本は、清国から南満州鉄道の経営権を得ました。

日米の満洲争奪問題
  外相小村寿太郎とロシア外相ウィッテとが米国ポーツマスで交渉中の1905年8月、アメリカ鉄道王ハリマンが、令嬢を伴い日本訪問、南満州鉄道共同経営を提案します。日本単独では、到底鉄道の経営は困難であろうと。桂太郎首相は賛同しましたが、ハリマン及び米国の意図を見抜いていた外相小村寿太郎は厳しく首相に迫り、仮契約を破棄させました。

  その後、米国国務長官ノックスが全満洲鉄道の中立化案を持って明治42(1909)年11月に来日しました。鉄道王・ハリマンは一企業家にすぎませんでしたが、ノックスは国務長官として満洲に介入してきたのです。 「中立化」とは聞こえはよいですが、要するに「ロシアと日本ばかりがうまい汁を吸うのは許せない」ということです。

  これに対して、満洲に最も切実な利害を持つ日本とロシアは結束して反対。また、イギリス・フランスも日本とロシアの立場を優先すべきとして同意しなかったため、この提案は葬り去られました
  日本の大陸政策と門戸開放主義を中心にするアメリカ極東政策の公然たる対立は、ここに端を発したといえますし、日米東亜抗争史はこのときに始まったともいえます。ただし、この満洲の地の存在に関して、清国もアメリカも何等の苦闘もしておりません。財力と民族の血を賭けて奮闘したのは日本とロシアであったことは明記しておかなければなりません。
  アメリカは、これ以外にも清国に働きかけて何とか利権を得たいと運動をしていましたが、それらはどれも失敗し、彼らのフラストレーションは募る一方だった。そして、その不満の矛先は、太平洋を隔てて隣り合う日本に向けられることになっていく。いわゆる「オレンジ計画」がそれでありました。

  この時、日本が折れて、もしも共同経営が実現していたらそのごのたいりくもんだいはどうなっていたでしょうか?この複雑な国際関係の上での混迷、世界の激動を予想することができましょう。

〇 南満洲鉄道株式会社「満鉄」の役割
  満鉄は、鉄道周辺の附属地の治安維持、管理運営に当たるために、日本政府からの多大な資本投入設けて、急ピッチで近代化、都市化を図った。それは、具体的に満洲の地で教育、衛生、学術といった「文事的施設」を駆使した統治であり、農産物、牧畜の振興であり、炭鉱開発、ホテル・百貨店・病院・図書館などを経営する一大総合商社的存在でもありました。満洲地域の人口は日本人17万人、シナ人など他民族を加えると40万人に上ったと言われています。大型ビルの乱立は、当時の勢いの大きさを示しています。鉄道も、大連とハルビンの間を疾走するアジア号に代表されるように隆盛を見ることができました。本土に比べて、生活水準も向上していました。日本人にとっても、米国・ロシアにとっても、満洲はまさに「憧れの地」であったのです。

  こうして、この満洲を統治する上で日本は、領事館(外務省)、関東総督府(後に関東都特府)、満鉄の「三頭立て」の形をとったのですが、明治39年(1906)関東都督府陸軍部が鉄道と附属地を守備する目的で設立されました。その陸軍部が、満洲鉄道の周辺の治安維持のために大正8年(1919)に「関東軍」を誕生させたのです。 満鉄も、営利主義に向かい、満洲全体の統治に汗を流す雰囲気が薄れていきました。

大正・昭和初期の満洲政策
  1911年(明治44)に孫文は、革命を起こして南京に中華民国臨時政府設立し大総統に就任。翌12年2月に清国は滅亡。漢民族である孫文たちは「排満興漢」を旗印としました。これにより、孫文の府と奉天省を掌握した張作の対立となります。反日運動も激化していきました。しかも、支那大陸内では共産主義が勢力を拡大しつつあり、孫文の後を継いだ蒋介石政府と共産主義勢力および反共主義の張作霖と三つ巴の混迷となりました。結果して、張作霖軍は連戦連敗です。

  昭和3年(1928)5月18日、日本政府は張作霖に北京から満洲への引き揚げ、満洲統治専念を勧告しました。しかし、関東軍の一部は、張作霖の撤退により、蒋介石の革命軍の影響が満洲に及ぶことを懸念し、張作霖を暗殺して満洲東北の直接支配を企みました。6月4日、関東軍が奉天へ引き揚げ途中の張作霖を爆殺してしまいます。張作霖の子学良は、当然のように反日の感情を激化させます。

  このように日中関係の緊張が高まる中で、昭和6年(1931)9月18日、奉天郊外の柳条湖で線路の爆破事件が起こります。これが満州事変です。これを中国側の仕業だとして、関東軍は直ちに中国軍への攻撃を開始しました。関東軍の行動は、軍を指揮する統帥権をもつ昭和天皇、日本政府にも無断で起こされたのでした。
  石原莞爾参謀らの関東軍はその後も軍事行動を続け、5か月ほどで満州全域を占領しました。
  こうした既成事実が積み重ねられる中で、若槻礼次郎首相は「不拡大方針」を表明しましたが、やがて関東軍の行動は追認され、天皇や政府は軍の行動を抑制できなくなりました。

〇 満洲国建国と満洲国大学創設開設
  昭和7年(1932)3月1日、日本は「満蒙は日本の生命線」との考えから、中国東北部(現在の河北・遼寧・吉林・黒龍江省と内蒙古自治区)に軍事力を背景に清朝廃帝溥儀を擁立して「満洲国」を建国しました。


  満州国の理念は、 「五族協和」(日本、満洲、漢人、朝鮮、蒙古) を根本精神とする各民族の「共存共栄」を図り「王道楽土」を建設すること。この理想のもと、経済面でも教育文化面でも多くの資力を投じてその発展を期したのであり、ロシア南下の防波堤を期したことも確かでした。
  しかし、五族の中では日本の力は群を抜いていました。国家は日本の傀儡的状況となり、理想の実現は非現実的であったともいえましょう。
  また、満洲の社会事業の意義は、次の2点も考えられます。
 ・近代的な社会事業組織をつくろうとした
 ・大規模な医療社会事業施設をつくろうとした

   「建国大学」については、国内外の優秀な教授陣及び優秀な入学者で構成されました。志願者は定員 75名に1万人ほど、地方の中学でトップクラスの卒業生。将来は大陸経営に貢献する人材を育成する目的で、教育内容も高度で自由な指導法がとられていました。満洲への憧れの一つの要因でもありました。


  一方で、昭和8年3月、関東軍は東部内モンゴル熱河に進撃し、4月5月には「万里の長城」を越えました。そして5月31日、塘沽停戦協定が締結され、河北省島北端キトー地区に非武装地帯設定し、中国軍は撤退しました。これにより、満洲事変の軍事行動はほぼ一段落したのです。
  この時点で、大陸問題の解決に進めなかったか、なぜ万里の長城を越えてまでも進軍する必要があったのかとの思いが募ります。一方で、支那大陸内部に日中間での戦争継続を望む勢力が拡大しつつあったことも確かでありました

〇 満洲を考える視点
・ 清国も米国も満洲を防衛し近代的経営にする為の何等の犠牲を払わず、何等の努力もしていない。
・ 露国は、ほとんど無人の荒野に鉄道を建設し、北清事変の際には数千人の犠牲者を出し、日露戦争では数十万人の死傷者を出した。赤い夕陽の満洲の丘にはロシアの若者の血が流されている。
・ 日本は、清国を含めたアジアを防衛するために20万人の死傷者と20億円の戦費を支払っている。
・ 満洲国の首都:新京(奉天)、満鉄および周辺都市の整備と発展、大学を中心とする教育機関の整備、衛生環境など社会・厚生事業の進展、大豆を中心とする農産物の生産強化など、満洲国の発展に、日本本土は財政的にも多大な貢献、寄与した。新しい理想国家の実現に邁進した。
・ 清国人、満洲人、および米国その他外国の日本に対する羨望、怨望は日本の傀儡的存在を強調。
・ 日本は、各民族の独立自存への配慮はできていたか。各民族の自尊心に寄り添っていたか。
・ 日本は、他の諸民族から尊敬される国家国民であったか。

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