令和6年12月8日(日)、谷口邦彦様の「旅して学ぶ 下田、八丈島、福井・敦賀」と題した講演会でした。
歴史は、文献を中心としながら現地へ赴いて実見し、体験してさらに事実が明らかになるものです。
その意味で、今回の講演はリアルな映像を通して事実をより理解することが出来ました。
<下田>
伊豆半島の先端にある下田。ここは、何といっても吉田松陰がペリーの軍艦に乗って米国へ渡ろうとしたことで知られる所。また、米国使節ハリスが玉泉寺を領事館として幕府との交渉をもった所であり、その時にハリスを世話する女性として「お吉」が登場することでも知られています。当地では、「お吉哀史」として伝えられています。更には、安政4年(1854)11月4日の大地震による津波で、ロシアの軍艦ディアナ号が沈没、これを戸田の漁師たちが救済に当たり、新艦を建造して送り返した日露の友好を伝えるところでもあります。
幕末期には、土佐藩の藩主山内容堂と幕臣勝海舟が宝福寺で坂本龍馬の脱藩赦免について会談した所でもあります。谷口氏は、現地のパンフレットなどを駆使して、当時の姿、雰囲気を生き生きと伝えてくれました。
<八丈島>
ここは、流人の島で知られています。豊臣秀吉のもとで活躍した五大老の一人宇喜多秀家が、関ケ原合戦で西軍豊臣方に就いて敗れた後、家族とともに流されたことから、秀家は「八丈島流人の祖」とも称されています。幕臣の近藤重蔵が、水戸藩の木村謙次らと択捉島へ探検し、日本領としたことは知られていますが、重蔵の長男富蔵が刃傷沙汰を起こして江戸幕府最後の「島流し」となっていたことは新しいニュースでした。宇喜多秀家パンフレットが、当地の実情をリアルに描いています。
<福井>
「近代日本の夜明け前、福井が描いた国の姿」を紹介する福井県立博物館、福井市立博物館が発行している『図録』「幕末維新の激動と福井」を基に、水戸藩とは違った見方をしている点を紹介しました。
「従来、攘夷派の巨魁とみなされていた徳川斉昭も、幕末には開国を承諾し、朝廷へも姻戚関係のある前関白鷹司政通(夫人は斉昭の姉)を通して条約調印への理解を求めていた」
福井藩主松平慶永も、強硬攘夷派から積極開国へ主張を転回した。自ら招いた儒者横井小楠の影響か。慶永が幕府へ提出した安政4年11月26日付け建白書は、開国・通商・富国強兵策・将軍後継者問題が明瞭に記されている。
藩校明道舘の教官に命じられた橋本左内の慧眼には驚かされる。医学を学んだことから世界的視野で物事を洞察している。今後の世界の指導者は英国・露国である。日本は日露同盟を以て進むべきである。その背景として朝廷を中心とした政治体制を確立し、その中心に一橋慶喜を将軍とし、併せて国内有能な人材を登用することが重要であること。これらが、福井藩全体の幕末史として描かれている。
福井藩が一体となっていたことはうらやましいことでありました。
<敦賀>
ここ敦賀は、江戸時代の人々にとって日本海側における大陸への窓口の一つと認識されていた。隣接する小浜藩もまたは「京師衛要之場所」として、庶民にまで海防対策が浸透していた。しかし、水戸天狗党が来るまではここ敦賀は比確的平穏な湊町ではなかったか。
今でも、天狗党の首領武田耕雲斎の銅像を建て、供養を欠かさないで祀っている方々には感謝の念しかありません。
耕雲斎の子金次郎は敦賀では遠島刑を受けて謹慎生活でしたが、赦免されて准藩士扱いとなり、小浜藩預けとなりました。小浜藩では准藩士屋敷を建てて住まいさせてくれました。
水戸藩内が割れた抗争の残酷さは、今もって語り継がれています。訪ねた北陸の地は温情の地でした。やはり「旅すること」は歴史理解の基本だと思います。
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