水戸歴史に学ぶ会

水戸を中心に茨城県内外の史跡及び歴史事象を訪ね、調べた結果を講演会や文章にしています。ときには史跡の整備もしています。

太平記の里を訪ねて

2021-11-05 15:34:25 | 日記

 令和3年11月1日(月)薄曇りながら紅葉の始まった上州路を参加者24名で、金山城跡、金龍寺(曹洞宗)、 生品神社、反町館跡を訪ね、南朝に味方した忠臣新田義貞公の往時を偲びました。

金山城跡
 新田義貞公の子孫岩松氏が15世紀半ばに築城、同系統の由良氏 が全盛期を生み出し、その後後北条氏の配下に入り、天正18年(1590)に後北条氏が豊臣秀吉に攻められて滅亡するともに廃城となりました。
 中世の城郭は、深い堀と石垣を持たない高い土塁のイメージが強いですが、この城は標高239mの金山(全山石山)の尾根上に築かれた山城です。近辺の金山石を以て野面積みされた石垣や石畳みの曲輪を持ち、多くの堀切を以て防禦を固めた特異な城郭です。平成に入ってから整備復元が進みました。
 山頂には新田義貞公を御祭神とする新田神社が祀られています。義貞公の誠忠に思いを馳せながら参拝しました。境内の大ケヤキも歴史の古さを偲ばせてくれます。

金龍寺(曹洞宗)
 本堂裏手の山裾には、新田義貞の供養塔を中心に、新田氏及びその家臣団が整然と祀られています。由良氏が、常陸国牛久に移封されたことから、牛久にも金龍寺が移転され、そこにも立派な供養塔が立てられています。中世領主一族がまとまって供養されている例が少ない中で、ここ太田市の金龍寺には新田公に対する畏敬の念の強さが漂っていることを感じさせてくれます。

生品神社
 御祭神は大穴牟遅神(オオナムチのかみ)です。元弘2年(1332)11月、後醍醐天皇の朝権回復の企てに味方して楠木正成公が、河内国千早城に拠って義旗を翻します。その軍勢を攻めるために北条執権勢が集結します。その数、全国66か国のうち36か国の軍勢80万余と言われ、その中に新田義貞も加わっていました。楠木正成公の孤軍奮闘ぶりが、如何に厳しい状況であったかを伺うことができます。
 そのうちに、義貞公が後醍醐天皇の綸旨を受けて、義に目覚めるとともに、鎌倉北条氏の新田の庄への侵略に対抗して鎌倉攻めに転じます。約150騎の少人数でしたが、実に勇気ある大英断でありました。元弘3年(1333)5月8日のことです。出陣する際に戦勝を祈願したのがこの生品神社です。
 境内には、鎌倉攻めのために七里ガ浜の稲村ケ崎で家伝来の古刀を捧げて、潮引きを祈願する新田義貞公の銅像が建っています。
 その銅像の前で、参加者全員で唱歌「鎌倉」の一節、「七里ガ浜の磯伝い、稲村ケ崎名将の剣投ぜし古戦場」を歌いました。義貞公もさぞ、大喜びされたことと思います。

反町館跡
  一時、新田義貞公が住まいされた館跡で、堀や土塁が残り、一部は整備されて水を満々とたたえた水堀となっています。戦国時代に三重の濠をめぐらしたといわれる新田の荘を代表する館内には、現在は照明寺が建っています。新田義貞公の生活の一端を垣間見る思いです。
 城館跡の整備の一つとして、参考になる所です。

 後醍醐天皇に反旗を翻した足利高氏方の軍勢に攻められた新田義貞は、越前金ヶ崎城に退却しますが、延元2年(1337)3月、金ヶ崎城も陥落して杣山城へ移り、藤島(福井市)の灯明寺畷で激戦となります。ここにおいて、家臣中野宗昌が退却を進言しますが、「部下を見殺しにして自分ひとり生き残るのは不本意」なりと最後の奮戦を試みる中、相手方の氏家重国の矢に当たって戦死します。同年の閏7月のことです(38歳)。『太平記』は「身を慎んで行動すべきであったのに自ら取るに足らない戦場に赴いて、名もない  兵士の矢で命を落とした」「都大路を引き回された後に獄門に下る」と批判的に記していますが、終始変わらない忠誠心には、心打たれるものがあります。

 淡い紅葉の「太平記の里」を、しみじみとした思いで後にしました。

 

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