かくれて咲く花

~凛として~

「合わない」

2010-10-03 23:54:24 | Weblog


早くも10月。あっ!!カレンダーめくらなきゃ

さあ、一枚めくったところで書き始めましょ
最近負荷を上げた筋トレの成果を少し感じつつ、もうちょっと伸ばしたいことを先生に相談すると「楽にできるような負荷でやっていては意味がありません。もっともっと!!重いのできるはずですよ」と言われ、いまの限界突破をめざしてがんばっている。エアロビクスの井村雅代(とひそかに呼んでいる)先生も、「まずなりたい身体をイメージすること。そしてあとは努力!!!」とのアドバイス。久々に再開した水泳は、最初はヨタヨタと泳いでいたクロールも、筋トレのおかげか、徐々に伸びてきた感じがする。しかしバタフライに挑戦している母には負ける。でも新しいこと、いろんな分野で始めていきたい気はしている。まあ、今後の挑戦したいことのひとつに置いておくとして。

あんまり大勢の人とまじわるのが苦手なのだけど、自分に関心のあることを勉強しに行った先なら、お友達ができるかなと思って出かけても、ああ、やっぱり・・・合わない

自分が狭量なだけなのかもしれないと思うけど、ああこの人たちと仲間にはなれないなというのは、最初から分かっていたことなのだけど、改めて「やっぱ合わないなあ」と思いながら帰るのは、多少残念なこと。本当に、直感は正しいと言うか、最初に「これは違う」と思ったものや人は、やっぱりだめですね。理由なんか説明つかないんだけど、この人(たち)と仲良くなれそうな気がしないというのは、第一印象で分かっている。でもまあ、そこで勉強することは自分にとって必要なことだから、淡々とやっているけど、なんというか独特の内輪意識が形成されつつあって、絶対にそこには入らないでおこうと、妙な決意が胸のうちに湧いてくる。

だけど私と合わないからといって、別に彼らが悪い人であると言っているのではない。悪い人たちじゃないんですよ(含意:いい人だとも思ってない)。でも別に彼らを否定する気はない。そういう人たちも世の中にはいるんだな、という感じ。むしろ自分に「合わない」ということを認識させてくれることで、自分にとっての居心地のよさや一緒にいて快適な人たちとはどういう人たちなのかということを明確にしてくれる、貴重な存在でもある。自分とは、大切にしているものが違うから合わないのは仕方ない。自分なら踏み込まないな、というところにガンガン入っていくのも入ってこられるのもOKというのは、ある種度量の広い方々なんだろうと思うし、自分なら多少の遠慮が働くな、というところに物おじせずガンガンいけるというのは、ある種の美点とすべき面なのだろうし。ただ好みの問題。私はそういうのは好きじゃない。そこまでは別にいいんだけど、何がいやなのかというと、同種の人間以外をなんとなく排除するような雰囲気を形成していること。こういうとき、自分はその場に一緒にいても、意識は完全に違うところから見ているという感覚がある。「同調」を求められる雰囲気にあって、同調してないから浮いてしまう自分。それをまたどこか冷静に見ている自分がいる。ああ、また入っていけないな、と。

別なところだけど、「イヤでイヤでたまらない」場所に勾留されていたとき、遊びに来てくれた友人が気分転換に連れ出してくれて、「もう、あんたが浮きまくっとったんは一瞬でわかったわ。でもあそこになじんでる方がおかしいし、全然気にすることないわ」と言ってくれた。そのときは友人の心遣いが本当にうれしく、熱く語り合い盛り上がって楽しいひとときを過ごしたのだけど、いったいこの差はなんなんだろうと思った。まるで世界が違うというか、その場所があまりにも重く低いところであればあるほど、「天使の梯子」が降りてきてスッと天上へ連れ出してくれたような感じ。違う場所、自分が安心できる場所があることを知っていれば、「合わない」場所に絡め取られて、そのいたたまれなさに必要以上に心が苛まれることはない。多少悲しい思いをするのは、人間である以上仕方ないけど、まあ別にどおってことはない(→致命的な影響はない)レベルのこと。

なぜなら「合わない」ということにいい悪いはなくて、単に「自分には合わない」だけであって、周りがよくて自分が悪いということではないから。もちろん逆も然りで、自分がよくて周りが悪いということでもない。単に「違う」のだということ、そして「違う」ということに善悪はないということ。その違いをお互いに尊重していれば、平和に共存していられるのに、この世ではその「違い」を許さない雰囲気をつくって弾圧したり、自分が正しい(と思い込んでいる)価値観と違った人を見つけては裁きたがる人がいる。そういう人たちは、「あの人は間違っている」と裁くことで「自分は正しい」と安心を得ようとするのだろう(「許せない」という正義感を、そういうところに投下するのは生産的なことには思えないけど、それは私の価値観だ)。第三者的に見れば、「その人から見たら“間違っている”と見えている」、ということなのだけど、「その世界」にいる人たちはその価値観を共有しているため、「違う」人がその中にあらわれると、その違いを認めると全体の結束というか、価値観が揺らぐから困るから異質・異端を排除しようとするのかもしれないけど、とにかくあの、なんというか井戸からあがってきたばかりの辛気臭いオバケがベチョ~っと取り憑いてくるような、「ここではこうするべき/これが常識→だからそれに合わるのが当然」という脅迫に近い「同調圧力」は、私は体質的に受け付けない。一刻も早くこの場を逃げ出さなくては、と思うことの方が多い気がする。どこへ行っても。

だけど「全体としては水が合わない」と感じるところでも、そのなかで個別に仲良くなれる人もいて、そういうのは本当にうれしい出会い。私の好きな人たちはだいたいみんなそういう感じで仲良くなった人たちだ。砂金を探すような出会いなだけに、しょっちゅうそう大切な人に出会うことはないけど、本当に純金な人たちばかり。circle of friends、というのは私の人生においては当てはまらないことばの一つなのだけど、いろんなところに個別に羽を休める場所がある感じ。そもそもどこかに所属していること、決まった人間関係の中にいることが苦手で、群れるのがイヤだから、「輪」の中に閉じ込められるようで息苦しくなる。いつもどこかへ飛んでいく自由を確保していたい、はぐれ鳥というか自由人な人生、friends are just frineds, no matter where we areという感じ。

合わなきゃ違うところへ飛んでいくまで。安心して羽を休めることができる、大切な人のところへ


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