パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2019年10月13日

2019-10-13 21:56:08 | 日曜礼拝
聖書箇所:ルカ4章14節~30節
説教題:故郷に拒絶されたキリスト

導入)
 イエスはガリラヤに帰って福音を伝て人々を癒しましたが、故郷のナザレには直ぐに戻られませんでした。カナやカペナウムなど、他の町々村々を回り、その噂が故郷のナザレに伝わってからナザレに行かれました。24節でイエスは、「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。」と言っています。そして、この後イエスは実際に故郷の人々に拒絶されることになりました。今回は、拒絶に目を留めて考えて行きたいと思います。

本論)
 イエスがいつものようにユダヤ人の会堂に入ると、係の者がイザヤ書を手渡しました。会堂管理者は朗読をしたり説教をする人を選ぶ係でしたから、イエスを教師として認めたことになります。イエスの宣教の噂が伝わっていたからです。20節では、イエスが朗読を終えると座ったと書いてありますが、それは、当時は教師が座って教え、人々は立って聴くのが習慣だったからです。人々の目がイエスに注がれたというのは、どのような話をするのかという好奇心が有ったということです。
 21節で、イエスは朗読された聖書の言葉が成就したと言いました。朗読されたイザヤ書の言葉は、メシア預言の箇所ですから、言い換えれば、「私がそのメシアですよ。」と言ったことになります。イエスが宣教を通してして来られたことがこのイザヤ書と重なるのです。
 1)イエスは洗礼を受けて聖霊に満たされました。2)神の国の良い知らせを霊的に貧しい人々に伝えました。3)罪からの解放を宣言されました。4)身体的にも霊的にも盲目の人々の目を開きました。5)主の恵みの年というのは、50年に一度すべての負債が免除されることを指していますが、罪の咎、負債からの完全な解放をさす預言と考えられます。これらがイエスの使命であり、業務のリストとも言える内容でした。
 22節では、内容には全く触れられていませんが、人々はイエスの口から出る言葉をほめたと記されています。しかし、それは「彼はヨセフの子ではないか。」というつぶやきに変わりました。それは、どこでイエスは学んだのか、本当にメシアなのかという疑問でもあったと思われます。彼らの気持ちを代弁するように、イエスは「医者よ。自分を直せ。」という諺を引用します。人は自称する内容の人物であることを証明しなければならないという意味です。また、預言者は郷里では歓迎されないというのは、自分が本当に神から遣わされた者であるということの表明でもありました。
 イエスはここから、神の遣わされた者、メシアを受け入れないとどうなるかということを、旧約聖書の預言者の例を挙げて説明されました。預言者エリヤの時代に、偶像礼拝をして創造主なる神に従わなかったイスラエル人に対して、神様は三年半雨を降らせないという罰を与えました。しかし、人々は悔い改めませんでした。エリヤも拒絶されたことになります。そして、彼は異邦人であるシドン人のやもめの所に遣わされることになりました。また、預言者エリシャの時代に、イスラエル人の間にもツァラトにおかされた人はたくさんいたはずですが、エリシャの元に来た異邦人であるシリヤ人ナアマンだけが癒されました。この二つの例からわかることは、イエスがイスラエル人に拒絶されると、その恵みは異邦人に向かうということと、異邦人も信仰によって神の恵みをいただくことができるということです。
 ここまで聞くと、会堂にいた人たちはひどく怒ってしまいました。その怒りの理由は先ず、自分達が神に不忠実だった時代の人々と比べられたこと、次に神の恵みが自分達が見下している異邦人に行くと言われたことでした。その怒りの元になっていたのは、彼らのプライドでした。プライド、自尊心は神への純粋な信仰の大きな妨げになるのです。
 プライドが何に彼らを駆り立てたかを見てみましょう。彼らは礼拝が終わらないうちにイエスを殺そうとして立ち上がりました。彼らは神に対して忠実だと思っていましたが、実際の行動は違っていました。ナザレは丘の上に立っていましたので、はずれには崖が有ったりしました。そこからイエスを投げ落とそうとしたのです。
 この行動は、三つの点で律法に適っていませんでした。一つ目は、法廷での審理を省いてしまったことです。二つ目は、死は儀式的な穢れと考えられましたので安息日に死刑を執行することは禁じられていたのに、イエスを殺そうとしたことです。三つ目は、律法に規定されている死刑は石打ちか木にかけることでしたが、崖から投げ落とそうとしたことです。それがプライドに突き動かされた姿です。彼らはこのようにして、神に与えられた律法に従わない神に不忠実な存在であることを自ら証明してしまったのです。
イエスは普通に考えれば逃げられない状況でしたが、神の奇跡の力でその場を離れて行きました。そのことも、イエスが神に遣わされたメシアであることを人々に示すことになったと思われます。

まとめ)
 イエスを拒絶するという観点と合わせて、この聖書箇所から読み取れると思われる原則を確認してみたいと思います。

1)主日を守ること
 イエスはいつものように安息日を守られたということです。いつものようにという表現は、子供
 の頃から一貫してと理解できるそうです。私たちに模範を残されたと考えることができます。今
 日の私たちには日曜礼拝を守るということになります。日曜礼拝を軽んじて教会の頭なるイエス
 を拒絶することのないようにしたいものです。事情が有って日曜礼拝に出席できないことが有り
 ます。その時でも、一定の時間を聖別して、み言葉に聞くことを心掛けてください。今はオンラ
 インで礼拝を視聴することもできますし、私たちの教会のブログにも説教がアップロードされて
 います。
2)イエスがキリスト、救い主であること、神の国の福音が礼拝の中心であること
  この聖書箇所でも、イエスの説教は旧約聖書のメシア預言の箇所でした。また、その内容は、
 キリストによる解放でした。同様に、今日、牧師たちも説教がそういうものであるように努めて
 います。聞く者も、そういう部分に心を留め、それを見出すように心掛けて聴くのです。何か違
 うものを期待して、あるいは漫然と聖書の言葉に耳を傾けることは、イエスを拒絶していること
 になります。福音と恵みを喜び感謝する心を持って日々歩むのです。
3)プライド、自尊心を捨てて、謙遜に神の道に従うこと
  プライドに生きる時、神の恵みは届きません。自分の力で自分を守ろうとしているからです。
 プライドこそが、サタンが堕落した理由です。サタンは荒野でイエスを誘惑する時にもプライド
 に訴えました。しかし、イエスはサタンと同じ過ちをおかすことはあり得ませんでした。私たち
 がこのイエスに完全に信頼して守っていただく時、プライドに基づいて行動する必要は無いので
 す。自分のプライドに従って生き、行動するということは、イエスに信頼していないということ
 であり、イエスを拒絶した生き方になります。

  私たちはキリストに「友」と呼んだいただける存在です。その私たちが、イエスを拒絶した同
 郷の人々のように、親しい主イエスを拒絶した生き方をすることがないようにしたいものです。

説教音声ダウンロード (mp3ファイルをダウンロードすることができます。)
ダウンロード画面右上のダウンロードボダンをクリックしてください。

SOUNDCLOUDプレーヤーは3週間程度で削除されます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする