パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2024年3月10日

2024-03-10 22:36:17 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書箇所:マタイ23:13-39
説教題:らくだを飲み込む者の末路

導入)
  イエスは神殿で弟子たちを教えていました。パリサイ人たちについて弟子たちに警告を与えた後、直接パリサイ人たちに最後の裁きをくだしています。二日程後には、イエスは彼らに捕縛されるのでした。「わざわいだ」という言葉でパリサイ人たちの問題が示されています。

本論)
13-15節 パリサイ人たちの問題の一つ目は、人々が天の御国に入ることを妨げていることでした。彼らは、イエスがメシアだと告白する者を会堂から追い出していました。異邦人をユダヤ教に改宗させることには熱心な人たちがいたようですが、教えが間違っているために、悪い結果になるのでした。イエスはここで門番のイメージを用いて語っているのです。
16-22節 次に誓いについての愚かで欺瞞に満ちた教えを指摘しています。彼らは、誓いが守れなかった時の言い訳を作り上げていたのです。誓う対象によっては、誓いが果たせなくても問題がないというのです。すると、誓いの言葉を聞くだけで、その人物が誓いを果たす気が無いことがわかることになるのでした。パリサイ人たちは、単に誓いを立てることで外見的に良い印象を与えようとしていたのかもしれません。 
  イエスが21節、22節で指摘しているように、誓いは神に対し、神を指して誓うものです。しかし、人間の能力は限られていて、誓いを果てせないことも有るのですから、むしろ誓ってはならないのです。イエスも誓わないように教えています。(マタイ5:34, 37参照)また、イエスの兄弟と考えられるヤコブも、同様の原則を示しています。(ヤコブ 5:12参照)また、彼らの誓いに関する教えの内容の幼稚さ、愚かさは、パウロの偽教師の教えに対する評価を思い起させます。(コロサイ 20:8 参照)
23-24節 レビ記27:30が、地の産物の十分の一を神に捧げるように命じているので、パリサイ人たちは、収穫量の少ないであろうはっかなどのハーブについてもきちんと十分の一を捧げるようにしていました。しかし、一方では、もっと重要な律法の精神である正義、憐み、誠実をないがしろにしていました。マタイ15:1-6 では、パリサイ人たちの教えが、扶養の必要な老いた両親への援助を切り捨てる方法の指南になっているという指摘が取り上げられています。そのようなパリサイ人たちの実践が、ぶよはこしているが、らくだは飲み込んでいると表現されているのです。レビ記11章には、汚れた動物の規定が記されていますが、ぶよもらくだも汚れた動物に分類されています。ワインに入ったぶよを飲み込まないように濾しているですが、正義、あわれみ、誠実をおろそかにするという、律法の精神を無視していて、まるでらくだを飲み込むような霊的状態だということです。
25-28節 パリサイ人たちは、器を介して汚れないように、器の外側をきれいにしました。彼らは、同様に、人に見える部分については敬虔で神を敬う人のように振る舞っていました。しかし、彼らの内側、心の中は、強奪と放縦で一杯だとイエスは責めています。強奪というのは、ここでは、金の欲、物質の欲ということで、放縦というのは色欲を指すものだと言われています。彼らの心はきよめられて、正義、あわれみ、誠実で満たされる必要が有ったのです。
  パリサイ人たちが外見を飾っても内側が汚れていることを、続けて、白く塗った墓に例えて述べています。民数記19:16に示されているように、死体に触れることは汚れる行為であり、七日間隔離されなければならないと言う規定が有りました。ですから、普段も気を付けますが、特に祭りが近づくと、墓を白く塗って目立つようにして、誤って触ったり踏んだりしないようにしたのです。いかにきれいに白く塗ってあっても、墓の中身は死体とよごれた物です。それは死を象徴するものでもあり、パリサイ人たちの心の在り方が霊的な死に導くものであることをも示していると考えられます。
29-32節 お墓のつながりで、イエスはパリサイ人たちが昔殉教した預言者たちの墓や記念碑を建てるという実践を持ち出します。彼らは、自分たちがその時代に生きていれば、預言者を殺す行為に参加しなかっただろうと言っていた様子が30節にあります。しかし、この時点で、パリサイ人たちはイエスを殺すことを計画していました。32節で「おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。」とイエスが言ったのは、計画度落ちに自分を殺すようにと言ったことになります。イエスは三日後には十字架にかけられて死にましたが、神の計画を実行する備えができていたのです。
33-38節 ここでは、パリサイ人たちにくだされる神の裁きが述べられています。先ずゲヘナの刑罰が挙げられます。(33節)次に彼らがイエスの弟子たちをも殺すような存在であることが予告され、旧約の全ての預言者の血の報いが彼らに下るとしています。(35節、36節)アベルからザカリヤに至るまでというのは、ユダヤ人の経典(私たちの旧約聖書)の順番において、最初の巻から最後の巻に出て来る殉教者まで、ということで、その間の全ての殉教した預言者を含むという意味が有ります。また、彼らが誇りに思っていたエルサレムの神殿が崩壊します。(38節)家と訳された語が単数形であるために、そのような理解になります。
  どうして彼らに裁きがくだるのかは、37節に示されています。彼らがイエスの招きを拒絶し、また、イエスを拒絶したからです。因みに、翼の下に集める、守るという動作は、詩編91:4にも出て来る表現ですが、神のなさることです。イエスはここで、私は神だと言う宣言を含めておられるように思われます。
39節 ユダヤ人もしくはパリサイ人たちが、『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』と言う時まで、という表現が有ります。これは、詩編118:26のメシアを歓迎する詩編の引用です。イエスは最後までご自身が約束のメシアであると公言していました。ここに記されたことがいつ起きるのかというと、旧約聖書の預言、黙示録、パウロの説明などから、大患難時代の後ではないかと注解書には説明されています。

まとめ)
らくだを飲み込む者の末路という題をつけました。その末路は、神の裁き、断罪です。私たちは逆にそのらくだを除き、内側をきよめ、パリサイ人の生き方から離れて生きなければなりません。その為に心掛けるべきことを確認してみます。

1)間違った教えを警戒し避けること
  私たちの敵は、私たちを邪魔して天の御国に入れないようにします。異端は教会に入り込む努力をすることが有ります。また、聖書を用いたカルトが、自分達の利益のためにクリスチャンを騙し、支配しようとすることがあります。ですから、そういうことが有るのだと認識して、警戒を怠らず、疑わしいものを避けるのです。また、そのために、よく聖書を読んでいることが必要です。

2)キリストへの信仰に堅く立つこと
  イエスはパリサイ人たちに、自分を殺すように言いました。それは、イエスが旧約に預言され、約束されたメシア、救い主だからです。神の計画に従って、イエスは十字架にかかり、その血をもって私たちの罪の代価を払い、三日目によみがえりました。私たちは、天の御国とキリストの再臨の希望をしっかり持つのです。その信仰が、私たちに正義、あわれみ、誠実を保つ力を与え、私たちの内側に強奪と放縦が湧き上がることを止めるのです。

3)すべての人々に開かれている福音を伝えること
  イエスはご自身がメシアであり神であることを明言し、また、パリサイ人たちを天の御国に招きました。また、彼らが弟子たちを殺すことを予見しました。同時に、それは、弟子たちが宣教をして福音が拡大することを意味します。その福音が私たちにも届きました。そして、現在も広がっているのです。  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする