できるだけ歩く鳥

サラリーマンエンジニアによる日常メモ。たまにMac偏り気味。

思考の補助線という情報をデザインする

2008-05-20 01:41:08 | design
信じるという言葉(音、文字列、記号、絵、点の集まり、etc)が人と人の間に位置するとき、そこには「信じる」という意味がある/発生する、ということを信じるか。

「そういうこと」として、過去に同意を得てきたことであり、そしてただそれのみが記号「信じる」に「信じる」という意味が宿ることを「信じていい」根拠らしきものである。


シニフィアン=表すもの「(記号としての)信じる」とシニフィエ=表されるもの「(意味としての)信じる」を結びつけているのは、その結びつきを「信じる」ことのみ。ソシュールのいう恣意性ってのはだいたいそんな感じ。たぶん。(シニフィアンとシニフィエ

そういう前提条件の積み重ねで人類の文化は成り立っている。シニフィエがモノとして実在する対象、例えば「リンゴ」だったとしても、リンゴという文字列とあの果物を結び付けているのは、そういうことにしましょうという共通認識の積み重ねの歴史。今のところ、そういう結び付きが「信じられている」ということに過ぎない。


現代は、信じてよい「結び付き」、信じてよいかどうかわからない「結び付き」、思考の範囲の届かない「結び付き」、全て爆発的に増えている。知の断片化。構造主義からポストモダンへと移り、極端なところではタコツボ化が進む。タコツボの中で「結びつき」の検証~承認作業をしていれば、タコツボの中の世界は安定させることができる。


一人の人間が手に負える「検証済み結び付き」には限界があるにも関わらず、世界は存在し、今もまた結び付きを増やし続けている。そうなってくると本来淘汰されて然るべきようなことまで、未検証、検証不足で、(ときにタコツボの中で)世界に存在し続けるようになる。
それは、「シニフィアン」と「シニフィエ」の結びつきを「柱」として構築されてきた人類の文化が、支えるべき柱の脆弱性(耐用年数の短さ)に気付かずに、どんどん増改築をしているような状況にも思えてくる。やがては「件(くだん)の限界」を迎えることになるかもしれない。


そんな時代に、シニフィアンとシニフィエの結び付きの検証を可能な限りやってやろう、というのが「思考の補助線」著者の茂木健一郎さんのスタンスに見える。

結び付きが「そういうことになっている」という、「世界の同意」を得るためには、結び付きを多方面から見て、多方面の人々にわかるように見せて、多くの同意を得なければならない。その作業が「思考の補助線を多方面にわたり引きまくること」なんだろう、と思う。


ひらたく言えば、物事はいろんな角度でみましょう、くらいなんだが、それを(たとえ実現不能と感覚的にわかっていても)この世のすべてに対してやってやるという意気込みを持たねば真のインテリジェンスは生まれない、みたいなことを言っているんだろうと思う。なんとなく同意できるし、自分の日々の生活においても、もう少し思考の範囲を広く、難易度を高く、挑戦してみてもいいんじゃないかな、と思う。



ときに創造的と言われるような試みが失敗に終わるとき、それはどういった人々に、どういうシニフィアンとシニフィエの(新しい)結びつき方を承認して欲しいか、がぼやけているのかもしれない。結びつきはこうなってますよ、という「見せ方」の失敗でもあったり。

そう考えると、思考の補助線を引く、というのは、情報デザインでもあるなぁと感じる。


思考の補助線 茂木-健一郎 著

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