できるだけ歩く鳥

サラリーマンエンジニアによる日常メモ。たまにMac偏り気味。

Alchemical City

2008-09-04 03:05:59 | design
空気のごとくどんなエリアも無線LANばんばん入ります。
高層ビルもあれば、自然との共生ができてる住施設もあったり、公園とかもいい感じ。
そこで生活する人はみな、OSにAndroidを採用したNetBook、Android携帯、iPhone、マルチタッチ液晶搭載のMacBookなどを所有しています。MacProのようなDesktop機もぼちぼち人々が集って作業をするような「ワークスペース(個室もあるよ)」には存在。

こんなインフラが整った都市、しかもリチャード・フロリダが思い描きそうなクリエイティブ都市、を考えてみると、今の都市で暮らす人々が利用しているもので、必要なくなるものが出てくるはず。必要なくなるであろうところで必死で商売しようとしても、たぶん徒労に終わる。その都市で必要なくなるものを、必要とするクラス(地域)が他に存在するかどうか、考えてみてもいい。
自分はどういうクラスをターゲットにしているのか、をきちんとわかってなきゃいけない。

都市側をターゲットにし(且つ、そういう未来にしていきたいという考えを持てば)、こんな都市なら新たに必要になる(あった方がより楽しい未来になるような)今はないものが考えられるはず…だといいな。

んでもって、こういうのって、八百万の神信仰的な意味での日本文化を背景にもつような、アニミズムなコンテクストから生まれてくるんじゃないかな。


などと想いを巡らせていた、Chromeがリリースされた日の夜更け。もう日付変わってるけれど。
さて、早く寝なきゃね。

iPhoneのタッチパネルがなぜすごいのか

2008-07-16 01:05:32 | design
iPhoneとかiPod touchのタッチパネルがなぜすごいのか。

僕なりに考えてみたところ、それは機能が境界上に現れる(ことが多い)からだと思うのです。
例えば、タッチパネルを使った画像拡大機能の実装を考えてみます。

■凡庸な場合
  1. 虫眼鏡アイコンとか、なんか、これから拡大機能を使いますよ、という宣言をするためのボタンなりメニューがあり、それを指で選び、拡大機能使いますよ、と、デバイスに対して宣言してやるみたいなことをする
  2. 拡大したいところを、タッチパネル上で指でタップする
  3. 指から離れた画面の中で、拡大処理が行われ、一瞬で拡大された結果を見る


■iPhoneの場合
  1. 指2本でにゅいーっと広げると、同時に、にゅいーっと拡大されるのを、見る



iPhoneの場合、人間の指先と機能が境界で繋がっているんです。様々な機能を実現している「中の人」に裏方と舞台上でパフォーマンスを繰り広げる役者とがいて、そして舞台があるということは重要です。機能を求める人と提供する人が、舞台上で、接しているんです。すると、一体感が形成されるのです。

それに対して凡庸なタッチパネルは、実は物理的なボタンを置き換えているだけだったりすることが多いのです。様々な機能を実現する「中の人」は、デバイスの奥に引きこもってます。ひどいやつだと、たまにあるあまり対応がよろしくないお役所の窓口みたいなイメージです。無機質なカウンター、無愛想な担当者、必要事項をこちらが記入して書類を渡すと、奥でなんか時間かけてがさごそやって、んで出てくるのはあっさりした紙切れ、え?こんだけ?みたいな。

…「中の人」の例えはわかりにくいなぁ。

(ある機能によって引き起こされる)現象と、それを求めてなんらかのアクションを起こした指先との距離感が、全然違うのです。iPhoneの方が身体とデバイスの機能が連続的で、その他凡庸タッチパネルは断絶がある、ということです。この断絶は、人間が手・指先で使う「道具」としては致命的なのではないでしょうか。大工さんの手とカンナとの間に感覚の断絶があったら、致命的だと思います。


なんて書いておいて、どちらも持ってないし実物触ったことすらないんで、全然見当違いのこと書いてるかもよ。もしくはどっかで誰かが同じようなこと(もっと深いきちんとした考察とか)とっくの昔に書いてるかもよ。

ネタが自分の中から湧き出てこない件

2008-07-01 01:00:03 | design
昨日の「インタラクションを考えた暇つぶし」で、文化的なものだとか、知的な営みに足を突っ込むと、1人でやれないことが多い、と書いてから、ふとわかった気がした、適当な理由(言い訳)に値することが見つかった、と思ったのが、自分が作曲できなくなっていることについて。

今って、作曲できないというか、曲を作りたい欲求が浅いんですよね、なんか。なぜかというとたぶんそれは、聞かせたい相手がいない、ということ。インタラクションのくだりを書いていて、あーそういうことか僕の場合は、と思ったのです。


どういうことかっていうと、かつては、誰かに自分の作った曲を聞いてもらって「こんなふうな感覚をもってもらえたらいいな」みたいなのがあって、それが動機でありまた同時に想像のスタート地点でもあったり。しかも「誰か」ってのが、音楽系サークルにいたから、身近な人達で具体的にイメージしやすかったってのもあると思います。
知人に頼まれて劇中曲を作るときなんかも、曲を聴かせる相手、その曲をバックに舞台に立つ人達、なんかを自分の中に具体的にイメージできていたから、その人(たち)と僕との間のインタラクションが生まれて、活動のエネルギーになってたんだと思います。


作曲活動の果てに誰かを想定したときに、自分とそこの間にインタラクションが発生して、そこが曲作りのイメージが湧きでる先なんじゃないか、と。地下水脈的なものは自分の中にあるけど、相手との相互作用という次元でそれが初めて湧き水として表出する感じ。


そして、学生の頃ってそういうことに費やす時間と心の余裕があったんだなと思います。作る側も聞く側も金はたいしてないけれど、時間はあって、プロの作ったものとは比べ物にならないような駄曲を聞いてくれる人がいて、聞かせようと思ってしまえる若さを持っていて。

今の自分は時間的余裕がないだとか、感覚が錆び気味だとか、そのへん全部ひっくるめて、活動するにあたっての相手を想定できてない、ってことかな、と。


んでもってこの「インタラクションがあって初めて活動のエネルギーが生まれる」みたいなことって曲作りとかの限定的なことではなく、日頃のいろいろなことにも当てはまるんじゃないでしょうか。誰かの喜ぶ顔を見たい(見ると自分が満足する)から、誰かが喜ぶことを一生懸命考えて実現しようとする、みたいな。


そう考えてみると、インタラクション・デザインってすごい根源的で大切なことを扱う概念(であるはず)なんだなと思います。


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補足:最近(2008年6月)のDESIGN IT! w/LOVEの記事、とくに「暗黙知はどこにあるか?/情報は界面にある」を、自分の経験に照らし合わせて消化してみようとした、といった感じです。

インタラクションを考えた暇つぶし

2008-06-30 02:33:48 | design
人間の活動において、生物として必要な活動ってわりとひとりでできる。もちろん「そこに至る背景を除いて考えると」ですよ。例えば飯とか、睡眠とか、運動とか、1人でやることになんの問題もない。

ところが、文化的なものだとか、知的な営みに足を突っ込むと、1人でやれないことが多い。

例えば、(たいして知的ではないかもしれませんが)このブログを更新するときなんかだって、実は1人ではできていないんじゃないか、と、思うのです。ブログってSNSとは違い他者との関わりを極力抑えることだって可能で、むしろそれが人によっては便利だったりするのに、なのに1人ではできていない、というのがおもしろい。

僕のこのテキストも、なんらかのペルソナ的なものを思い浮かべて、書いているわけです。具体的に知ってる人の顔を浮かべることもあれば、こういう読者層とか一丁前にイメージしてみたり。ブログなんて自分用メモだよ、ってのはある意味「後で見るかもしれない自分」という今の自分自身ではない人間を想定しているわけで、なんらかの~を意識して書いているには違いない、とこじつけることができます。
(書きながらも、意識しているペルソナ的なものは微妙に入れ替わり立ち代わり、ではありますが、それはこれが物書きが物書きとしてきちんとした媒体に書くテキストではなく、ただのサラリーマンが何者としてでもなくブログに書くから、というのもあるとは思いますけど)


さて、そこで最近考えるのが「暇つぶし」の在り方。とくに家庭用ゲーム機でプレイできるゲームで、人が「暇つぶし」と捉えてプレイする場合。

インタラクション・デザインがしっかりした暇つぶしってのはどんなものがあるのか。
その「インタラクション」は何と何の「インタラクション」として考えられているのか。

僕はゲーム脳とか、マスコミがよく批判するゲームの残虐性だとか、凄惨な事件が起きた時のゲームの影響とか、そういうのにたいしては「何言ってんだかな」というスタンスだけれど、最初に書いたように、文化的なものだとか、知的な営みに足を突っ込むと、1人でやれないことが多い、ということで考えると、ゲームをとりまく周辺って、しっかり考えないといけない場合も増えてきてる気がしたのです。

たぶんそこをユーザや社会より先に考えて商品化しちゃってるのが任天堂なんだろうな、と思ったり。

本物は次元が違う

2008-06-05 01:05:17 | design
昨晩、変な流れ(*1)からクロード・モネの絵(*2)をネットで見まして、そのときになんだか胸にこみ上げるドキドキ感に包まれ、モネの作品にとても惹かれました。(僕は芸術方面に全く明るくないです。モネ?エゥーゴの量産機みてえってくらいよくわかってません)

そんなこんなで夜な夜なモネについて検索して画像をいろいろ見て、気に入ったものを使ってGIMPで自分用壁紙作ったりしてたらもう2:30。(ってのは昨晩の話ですよ)


ネットで画像検索してるときに思ったことが、それぞれ画像の色味が違っていて、どれが「本物」に近いんだかわからないということ。自分がときめいた絵(画像)が、実は本物とはかけ離れたものだったら、本物見てもときめかない可能性とかもあるのかななんて。まあその辺は、ちゃんと気を遣って印刷された書物で確認すればだいたいは掴めるのでしょうけれど。

で、色味の件も含め、デジタルなところを経由したこういう類の絵は、色味、大きさ、質感、存在感、どれをとっても、「本物」には到底及ばないんだろうなと、そしてそれが当然なんだろうなと、あらためて思った次第です。リアリティってなんだろう、みたいな。飛躍するとクオリアの話にもなるのかなぁ。


例えば、Full HDの次は4K2Kだと言われてますけど、それは何を追い求めてるのか、と。

「本物は次元が違う」ってことを自覚した上で、感覚に訴える要素の再現性を高める努力をしたり、他に足りないものは何か考えたり、いっそ違う目的での利用方法を考えるなり、それぞれのスタンスを取り得るんだということが意識できてるか。

そういうことがいつでも考えられるような「基点」を持っておくってことも大切なんじゃないかなと、漠然と思ったのです。

ユーザ側の欲求にも言えることで、どこまでの質を求めているのか、何を以って「それ」とするのか、そういう感覚を失っちゃいけないんだろうなぁ、と。そういう意味で僕はモネの絵画に関して、何を以って「モネの絵」と感じるか、しっかりとした感覚が無いようなもんですが、知識ないがゆえの素の感覚も、大切にした方がいいときもあると思います。


さて、何が言いたかったかわからなくなってきました。印象派テキスト。


*1:ハムスター速報 2ログ:夜に非日常に出会った俺の話→「死の床のカミーユ」→他の絵も見てみる、という変な経路。
*2:「散歩、日傘をさす女性」「印象・日の出」「アンティーブの朝」など。クロード・モネ - Wikipedia

ガンダムの作られ方

2008-05-30 00:11:47 | design
数年前に買ってちょっとだけ読んで、ただのマニア向け資料集かよ、とあっさり放置した本を、今になって読んでます。(そんなこと言ってる僕自身マニアですけれどね)

ガンダムの現場から―富野由悠季発言集

いやいやいや、ただのマニア向け資料集なんかじゃなかった、これ。
読んでいて感じたのは、「ガンダム」という作品が、「コンシューマー向け」として、商業的な制約もある中で、やれることとやりたいことの狭間でギリギリに作られているということ。


■原動力
まずはじめにありきは「現状からの脱却(を目指したい)」という富野監督の意志。

それを「次に作るロボットアニメという仕事」に盛り込んだときに「ロボットアニメの評価を覆したい」となり、実現するために監督はガンダムでいろいろと「挑戦」をするわけです。

富野監督の想いはどちらかというとアニメ製作業界に向けられている(ように見える)けれど、視聴者からの「今までのロボットアニメとは違う」という評価があってはじめてその「脱却」感も成り立つわけで、両者に対して新しいロボットアニメの在り方を見せなければならない。と同時に、商業的にも、スポンサーが期待するように、(過去作品に倣って)うまくやっていかないといけない。

ということで、ガンダムで監督が行った挑戦というのは、どのようにして商業的な意味でのロボットアニメの必要条件(ロボットが出てくる、合体変形、ヒーローだ!など)を損なわずに、「現状からの脱却」を作品に盛り込むことができるか、という方法論の挑戦でもある。(視聴者に伝わるかどうかは精一杯がんばるけど最後はもう賭け)


■あくまで演出の道具(設定)としてのニュータイプ
具体的にどんな手法をとっていったか。

富野監督は、自分の主張のメタファーに「人類」を持ってくることで、現状から脱却した人類=「ニュータイプ」という概念の「発明」をする。

その発明した概念をいかにリアル感を持った状態で視聴者に伝えるか。

「ニュータイプ」という空想上の概念にリアル感を持たせるために、富野監督は概念を取り巻く世界をリアルに描くという演出の方法を取った。とくに人間のドラマとして世界を生々しく描くことで、それを達成しようとしている。
例えば、そのための演出方法のひとつとして、セリフ回しのみで人物と人物がどういう関係か推測できるようにする、といった工夫もしている。(ランバ・ラルとハモンがどういう関係かという説明は劇中は一切ないはずだけれど、なんとなく、夫婦というか愛人関係というか、とにかくその絆は見ている側は感じられるわけで)

また、作品中で「ニュータイプ」を完全には描ききらないことで、「ニュータイプ(≒神様)ならなんでもありじゃん」っていう陳腐化を避けるようにもみえる。でもそれは結果論で、描ききれなかったとも。


■(アニメという)モノづくり
あとづけかもしれないけど、ガンダムを見て刺激を受けた人が次の世代の新しいアニメを切り開いていって欲しい、というような、映像表現界のニュータイプの出現の期待をガンダムに込めた、みたいな部分もあるようで。

富野監督発言集を読んでて思ったのが、ものづくり全般においてもまずは「意志ありき」が大切だよなということ。そして実現するための方法論に滅多やたらと独創性やら創造性は必要ないことが多くて、実現するための核となる部分にのみ、突き抜けた感性が必要になるくらいなんじゃないか、ということ。

で、そういうものの原動力になるのは、お前は世になにをしたいんじゃという、強い意志。さらには、意志を固めるための下地構成。

どんな目で世を見てきているかっつー、ソーシャルデザイン的な問題意識を持つリーダーなり経営者なりが必要なんじゃないかっつーオチで、このエントリは終わり。


■おまけ
おもしろかったのは、当時のファンとの一問一答67問。たとえば問50。

Q.ホワイト・ベースとヤマトはどっちが強いのですか。
A.聞くも愚問で、波動砲さえかわせればホワイト・ベースが強いにきまっています。

かわせなかったら負けwwwwwww

思考の補助線という情報をデザインする

2008-05-20 01:41:08 | design
信じるという言葉(音、文字列、記号、絵、点の集まり、etc)が人と人の間に位置するとき、そこには「信じる」という意味がある/発生する、ということを信じるか。

「そういうこと」として、過去に同意を得てきたことであり、そしてただそれのみが記号「信じる」に「信じる」という意味が宿ることを「信じていい」根拠らしきものである。


シニフィアン=表すもの「(記号としての)信じる」とシニフィエ=表されるもの「(意味としての)信じる」を結びつけているのは、その結びつきを「信じる」ことのみ。ソシュールのいう恣意性ってのはだいたいそんな感じ。たぶん。(シニフィアンとシニフィエ

そういう前提条件の積み重ねで人類の文化は成り立っている。シニフィエがモノとして実在する対象、例えば「リンゴ」だったとしても、リンゴという文字列とあの果物を結び付けているのは、そういうことにしましょうという共通認識の積み重ねの歴史。今のところ、そういう結び付きが「信じられている」ということに過ぎない。


現代は、信じてよい「結び付き」、信じてよいかどうかわからない「結び付き」、思考の範囲の届かない「結び付き」、全て爆発的に増えている。知の断片化。構造主義からポストモダンへと移り、極端なところではタコツボ化が進む。タコツボの中で「結びつき」の検証~承認作業をしていれば、タコツボの中の世界は安定させることができる。


一人の人間が手に負える「検証済み結び付き」には限界があるにも関わらず、世界は存在し、今もまた結び付きを増やし続けている。そうなってくると本来淘汰されて然るべきようなことまで、未検証、検証不足で、(ときにタコツボの中で)世界に存在し続けるようになる。
それは、「シニフィアン」と「シニフィエ」の結びつきを「柱」として構築されてきた人類の文化が、支えるべき柱の脆弱性(耐用年数の短さ)に気付かずに、どんどん増改築をしているような状況にも思えてくる。やがては「件(くだん)の限界」を迎えることになるかもしれない。


そんな時代に、シニフィアンとシニフィエの結び付きの検証を可能な限りやってやろう、というのが「思考の補助線」著者の茂木健一郎さんのスタンスに見える。

結び付きが「そういうことになっている」という、「世界の同意」を得るためには、結び付きを多方面から見て、多方面の人々にわかるように見せて、多くの同意を得なければならない。その作業が「思考の補助線を多方面にわたり引きまくること」なんだろう、と思う。


ひらたく言えば、物事はいろんな角度でみましょう、くらいなんだが、それを(たとえ実現不能と感覚的にわかっていても)この世のすべてに対してやってやるという意気込みを持たねば真のインテリジェンスは生まれない、みたいなことを言っているんだろうと思う。なんとなく同意できるし、自分の日々の生活においても、もう少し思考の範囲を広く、難易度を高く、挑戦してみてもいいんじゃないかな、と思う。



ときに創造的と言われるような試みが失敗に終わるとき、それはどういった人々に、どういうシニフィアンとシニフィエの(新しい)結びつき方を承認して欲しいか、がぼやけているのかもしれない。結びつきはこうなってますよ、という「見せ方」の失敗でもあったり。

そう考えると、思考の補助線を引く、というのは、情報デザインでもあるなぁと感じる。


思考の補助線 茂木-健一郎 著

アフォードされてるとバレたらダメなんじゃん?

2008-04-30 02:41:58 | design
大学入学後サークル入って、バンドやり始めたばかりのころの話。
練習後の片付け時にマイクケーブルを巻いていると、クセがついてしまっていてねじれてしまいがちなマイクケーブル(以下ケーブル)に出くわす。普段から使われ方がよくなくて、八の字巻きされずに使われ続けてるケーブルとかで、こういうのは無理に矯正しようとしても、なかなかきれいに巻けない。

そんなときに先輩が教えてくれた言葉がある。
「ケーブルが巻かれたいように巻いてあげればいいよ」
言われた通り、ケーブルがねじれたいように巻いてあげたらすんなり巻けた。これ聞いたときは目から鱗。今でも覚えてる。そして今思うと、ある意味「アフォーダンス」の話。

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アフォーダンスとは:
アフォーダンスとは、もともと知覚用語であるが、Normanがインターフェイスの用語として定着させた。物体の持つ属性(形、色、材質、etc.)が、物体自身をどう取り扱ったら良いかについてのメッセージをユーザに対して発している、とする考えである。動詞はサ変活用(?)で「アフォードする」などという使い方をする。

使いやすさ研究所 用語解説/アフォーダンス
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ケーブルの「こう巻いて」というアフォーダンスの認知能力が僕にはなかったが、先輩にはあった。この差は知識とか経験とかに根ざすと思う。本来「アフォーダンス」って言葉がデザイン系の話に出てくるときは、無意識に働きかけるような話だったりするので、こういうのはアフォーダンスとは言わないかもしれないけれど、最近の幅広く使われちゃった「アフォーダンス」で考えれば、これもアフォーダンス。

このクセのついたケーブルの巻き方に関するアフォーダンスは、巻きやすさ(片付けやすさ)だと思って認識すると、クセに逆らわずに巻くことに。それがよくないねじれまくりのクセだったとしても。
でも、ケーブルの正しい使われ方としてのアフォーダンスだとすれば、八の字巻きしてあげることこそが「ケーブルが巻かれたいように巻く」ということにもなる。

なぜかというと、ケーブルにとっても、それを使う人・環境にとっても、総じてよいのは八の字巻きだ(と言われている)から。ってことは「クセに逆らわない」というだけでは、アフォーダンスを誤って認知してしまう可能性があるとも言える。
いや、アフォーダンスを認知できなかった初心者の僕のような人がいて変なクセをつけてしまったがために、ケーブルは本来のアフォーダンスを失ってしまい、歪んだ巻きやすさアフォーダンスを発する存在になってしまったのかもしれない。そうすると、経験者でもそう認知するしかなかった、ということかも。

と考えると、ケーブルは最初から八の字巻きのクセがついた状態で売っているべきなのかも、と考えることもできる。そうすれば、知識や経験に根ざすアフォーダンスにあまり依存せずに済むようになりやすいわけで。(本当にそんな売り方しろとは微塵も思ってないけど)

つまるところ、やはりアフォーダンスってのは後天的学習により認知可能になるようなものとしてではなく、無意識に働きかけるべきものとしてあれこれ議論するのが、本質なんだろうなと思う。


僕はユーザーインターフェース屋とか、デザイナーとか、そういう類の仕事はまったくしてないのになにを唐突にこんな話を書いているのかというと、こういうの考えるのが好きだというだけです。


ケーブルが巻かれたいように巻いてあげればいいよ、と先輩が僕に教えてくれたのはもう10年以上前。10年以上前の言葉が今アフォーダンスの話と結びついてよみがえったわけですが、そんな僕は先輩よりももう6年も長く生きているのです。

やすらかに。