できるだけ歩く鳥

サラリーマンエンジニアによる日常メモ。たまにMac偏り気味。

インタラクションを考えた暇つぶし

2008-06-30 02:33:48 | design
人間の活動において、生物として必要な活動ってわりとひとりでできる。もちろん「そこに至る背景を除いて考えると」ですよ。例えば飯とか、睡眠とか、運動とか、1人でやることになんの問題もない。

ところが、文化的なものだとか、知的な営みに足を突っ込むと、1人でやれないことが多い。

例えば、(たいして知的ではないかもしれませんが)このブログを更新するときなんかだって、実は1人ではできていないんじゃないか、と、思うのです。ブログってSNSとは違い他者との関わりを極力抑えることだって可能で、むしろそれが人によっては便利だったりするのに、なのに1人ではできていない、というのがおもしろい。

僕のこのテキストも、なんらかのペルソナ的なものを思い浮かべて、書いているわけです。具体的に知ってる人の顔を浮かべることもあれば、こういう読者層とか一丁前にイメージしてみたり。ブログなんて自分用メモだよ、ってのはある意味「後で見るかもしれない自分」という今の自分自身ではない人間を想定しているわけで、なんらかの~を意識して書いているには違いない、とこじつけることができます。
(書きながらも、意識しているペルソナ的なものは微妙に入れ替わり立ち代わり、ではありますが、それはこれが物書きが物書きとしてきちんとした媒体に書くテキストではなく、ただのサラリーマンが何者としてでもなくブログに書くから、というのもあるとは思いますけど)


さて、そこで最近考えるのが「暇つぶし」の在り方。とくに家庭用ゲーム機でプレイできるゲームで、人が「暇つぶし」と捉えてプレイする場合。

インタラクション・デザインがしっかりした暇つぶしってのはどんなものがあるのか。
その「インタラクション」は何と何の「インタラクション」として考えられているのか。

僕はゲーム脳とか、マスコミがよく批判するゲームの残虐性だとか、凄惨な事件が起きた時のゲームの影響とか、そういうのにたいしては「何言ってんだかな」というスタンスだけれど、最初に書いたように、文化的なものだとか、知的な営みに足を突っ込むと、1人でやれないことが多い、ということで考えると、ゲームをとりまく周辺って、しっかり考えないといけない場合も増えてきてる気がしたのです。

たぶんそこをユーザや社会より先に考えて商品化しちゃってるのが任天堂なんだろうな、と思ったり。

臭いものにふたを(2)

2008-06-17 02:04:31 | diary
したりしなかったり。
しつこいけど自分の脳内の話ですよ。


人間関係も、ふたをかぶせたくなる。
例えば会社でどうにもこうにも話を聞いてくれない人、人の話を理解する気ゼロに見える上司とかいた場合。(自分の周りにはそういうのはいないけど(違うタイプの苦手な人はいる))

流行(?)のパーソナリティ障害かと疑ってみる。勝手に。脳内で。こうやって名前つけてカテゴライズすることも「臭いものにふたをする」行為の一種と言えると思うんですよ。

※医者でもないのに勝手に判断するこの僕の脳内の思い込みのことを「臭いものにふたをする」と例えて言っているのであって、パーソナリティ障害という概念自体がもうなんかいかにも「臭いものにふたをするためのもの」って感じがするぜっていう意見が世の中にあることには今は触れない。


なんらかのパーソナリティ障害っぽい人とか、どこの会社にもいますよ、きっと。人格の偏りなんて誰だってあるわけで(なきゃ気持ち悪い)、ただパーソナリティ障害ってのはそれが「度が過ぎる」わけです。でもDSM-IV基準では障害と判断されない「度が過ぎるほどではない人」ってのはいくらでもいるんじゃないっすかね。

パーソナリティ障害で最近気にしてるのが、自己愛性~。
(まあ自己愛性~に限らないけど)相手の文脈を読めないわけで、それがリアル会話でそうなるってんだから、メールや掲示板等のテキストベースのコミュニケーションの機会が増えれば、自然と発火しちゃう機会も増えるんじゃないかと、思うのです。テキストベースなやりとりって、空気(行間)読めなかったり、逆に深く読め過ぎたりで、「コミュニケーション」ツールとしてはうざったいんですよね。

んなもんで、これまで社会生活が送れていたパーソナリティ障害と判定されない人が、高度なIT化(笑)によって、文脈読めずで発火っていうのも出やすくなってるんじゃないか、と。とくに40代50代で、あまり向いていないにも関わらず、PC操作に慣れなきゃいけなかった人達とか。

リアルではそうでもないのに、ネットになると、ひどく粘着して、自分の正しさを周囲に認めてもらうまで引き下がらない、それを繰り返す人、なんてのはたぶん要注意だと思う。ひとつひとつの主張は至極真っ当なことだったりするんだけど、ちょっと前後してその人を追ってみると言いたいことが見つからないというか、言いたいことはオレを認めろってこと?みたいな。(主義主張が一貫してるなら「発火してしまった理由」が明確ということで、こちらとしても脳内処理においての落としどころが見つけやすいんですけれども)


とはいえ、困った感じを受ける人をスルーし続けていてもいいものか、とも思います。企業内におけるこの種の問題は、利害に直結しますから。それに、こんなこと書いてる自分だって、ささいなこときっかけでいつ発火するかわからないし。

あと、臭いものにふたをしたつもりで、実は好みに合わないにおいだっただけじゃないの?一貫した主義主張あるの見落としてんじゃん?って場合もあるかもしれないと思うと、もう「この人」をどう捉えていいかの脳内処理の落としどころがわからず、心が疲れそうです。「人」で捉えるからダメなんでしょうけれど。基本的に、ネットベースのやりとりにおいては低コンテクスト派(モヒカン)が「気楽」だとは思います。気楽であるけれど、100%無難かというとそうでもないとは思いますが。少なくとも企業内などにおいては。


発火する社員(上司)がもしもこんな人だったら困りもんです。

カラスは白い?!
どんなことでも“証明”してしまう論理の達人
http://premium.nikkeibp.co.jp/itm/col/suzuki/131/

この記事では、屁理屈王というか、そんな感じの人を漫画ONE PIECEの悪魔の実に例えて「論理の実の能力者」って言ってますw
能力者への対処法なども書いてあるのですが、リアル対話だから可能なんだろうけれど、ネット対話だった場合、論理の実の能力者には絡まないのが一番かと僕は思います。ネットで使える海楼石求む。

君子危うきに近寄らず、なんでしょうか。放置してたら「社会に受け入れられない」感を増大させちゃってどうなることやら。予告inしたお。助けて君子!


でも結局臭いものにふたをしてるようなもんなんだという、モヤモヤ。
相手が本物だろうとそうでなかろうと、しょせんはこちらの都合での「臭いもの扱い」してるだけという、モヤモヤ。


結局、臭いものにふたをしたりしなかったりを繰り返しながら、微妙どころかけっこう臭う世の中で、嗅覚を半分麻痺させながら生きていくしかないのかしらん。たまに自分も異臭放ちながら。なんて諦めるのも違う気がする。


オチはないです。相対的にしか位置づけられない人と人の関係性において、基軸となる疑似固定座標が得られにくい場合に、どうしたもんだろというぼやきです。


推敲めんどくせ。いいや。投稿。ぽちっとな。

臭いものにふたを(1)

2008-06-14 23:10:45 | diary
したりしなかったり。
あ。自分の脳内の話ですよ。


例えば秋葉原の事件に関する報道。
そんなこと追求しなくていいよもう、と思える内容とか、ふたをしたくなる。目をつぶりたくなる。ダガーナイフどんだけ~みたいな内容の報道とか、もういいよ。
でも報道というお鍋のなかにはいろんな具材があって、臭いものは一部。他の良い具材にまでふたをして封印してしまうのは残念なこと。臭いもののせいで他が台無し。目を閉じて耳をふさいでしまっては、何も入ってこない。

とはいえ、最近は臭いものばっかりの報道だったりするけれど。恐いもの見たさ、臭いものかぎたさ、を常に煽ってないとテレビ画面の前から人がいなくなっちゃうとでも思ってるのか。まあいいや。

亡くなった方々の紡いできたその人の歴史、これから紡いでいくはずだった未来、という「糸」を、ひろいあげるという姿勢の報道は個人的には「あり」です。被害者遺族のこと考えると、んなこと言ってらんないんだけどさ。それでも、失われたものの大切さってのをこんな時代においてどう実感し得るか、というのは、しっかり考えなきゃいけないことだと僕は思うのです。時間的、物理的、心理的にも、情報(=この場合は凄惨な事件のニュース)と自分との距離感がよくわからなくなりがちなので。

距離感がわからなくなるっていうとまあ曖昧な表現なんですが、例えばYahooニュースとかね、RSS配信でもいいや、そうやってネットでニュース見て、事件が起きた現場・被害者・加害者・取材者・ニュースが自分に届くまでのもろもろなどをリアリティをもって自分の中に捉えることができるか、ということ。周辺にリアルさがないと、中心もリアルに欠けると思うんですよ。ガンダムの作られ方で書いた富野監督の演出方法で、ニュータイプ概念にリアリティをもたせる方法としてその周辺にリアリティを持たせることでそれを実現したってのも、中心のリアリティのための周辺のリアリティの必要性ってことで考えればなるほど納得という感じです。

そういう意味で、事件と自分の関わりをすっと想起できるか、っていうと、僕は正直できない。距離感が掴めない。

距離感がしっかりつかめてないと、(何事に対してでもですけれど)大人としてのスタンスの取り方、世の中に向き合う姿勢、をちゃんと世の青少年達に見せることができない恐れがあって、そこが気になってます。


でもやっぱ、バランスの問題で、臭いものが増えてくると、あーもう!って面倒になってきて全てにふたをかぶせたくなる。


(2008.06.16ちょっと加筆)

QuickTime(Perian利用)でflv再生中の音が出ない

2008-06-14 02:29:34 | diary
こんばんは、わ、ワ、WA。
Macのソフトウェアアップデート完了後でございます。
が。
今回のでQuickTimeが7.5になってから、QuickTimeでflv動画再生するときの音が出なくなりました。
なんでだよーとあれこれやったわけでもなく、真っ先にPerian古いよなきっとと疑ってみましたらですね、いや本当に古くて、最新版は1.1なのに、0.5とかそんな感じのVersionの使ってましたよ。

Perian:
flv動画(やその他もろもろ)をQuickTimeで見れるようにしてくれる、便利でステキなおかた。
http://perian.org/


上記から最新版入手してきて、あっさり直りました。

ってずいぶんスムーズに話が進んだみたいに書いてますが、実は「Perian」って名前が出てこなくて、なんて名前のコンポーネント追加したんだっけなぁ、と、そこからのスタートだったりして。

すっかり「消費者側」な感じ

2008-06-11 00:31:15 | diary
おこんばんわ。
「すっかり消費者側」っていうか、もともとそうだよね。って自分で思った。


■急にどうしたの?
少し前からなんだか小難しいフリしたエントリばかり書いてますが、なんてことはない、茂木さんの「思考の補助線」を読み始めた頃から、自分の好きな「デザイン」方面の頭の体操がんばろう、と思っただけです。

これからも、意味があるかどうかわからないニュース記事のピックアップも、ただの日記みたいなのも、書くと思います。これもそうだし。


■Googleの思うがまま?
最近、いろいろなものをGoogleに集約しようと思いまして、今まで躊躇していたカレンダーやらiGoogleやら利用し始めました。

RSSリーダーもGoogleにしました。今まで会社ではGraniで、自宅ではSafariでチェックしてましたが、まあ明らかに重複してるので一カ所に統一。ついでに、広い意味での「デザイン系」フィードもいくつか購読するようになりました。んでもって「これは」と思った記事は、誰に対してってほどでもないのですが、一応公開してます。PCでこのブログ見てる人は右サイドバー最上段を見てください。まあなんてことない、元僕の個人Webサイト跡地に、単なるブログパーツをでーんと貼付けてるだけなんですが。でも、それだけだと「ヒドイ」とおしかりをうけたので、オマケでスクリーンセイバー配布中w
(一応サイトとしては「暫定」のスタイルです)

他には、今まで重要視していなかったGmailのアカウントを積極的に利用し始めています。
Blogも整理も兼ねて引っ越ししようかなぁとも思ったのですが、そこは今のところ保留中。


■.Mac→MobileMeどうすんべ
で、↑の元僕のWebサイトって.Macにあるんですが、その.Mac、これから「MobileMe」に生まれかわるそうで。

アップル - MobileMe - 特長

カレンダー、メール、ギャラリー、アドレス帳、iDisk、がWebアプリで共有できるとな。ふむふむ。今までの.Macは専用環境が必要だったけれど、基本的にブラウザでおk、と。なるほど。って、なんかGoogleと被るなぁ。MobileMe使い道どうすっかなぁ。

メールアカウントが@mac.comから@me.comになるのかなぁ?いろいろ登録直すの面倒だ。Gmail利用率上げていっているとはいえ、まだまだmac.comメールもいろいろメインで使う気あるし…と思ったら、大丈夫そうです。

MobileMeにアップグレードしても、mac.comのメールアドレスはそのまま使えます。同じユーザ名でme.comの新しいアドレスを作ることもできます。お好みでお選びください。

あーよかった。


■最近、写真が楽しい
安心したところで、あらためてMobileMeどうすっかなといったところで、ギャラリー機能は使ってみようかな、と。最近デジカメでそこらへんの花の写真とか撮るのが楽しいのですよ。撮ったあと、名前調べるのは一苦労だったりもしますが。

新しい機種買ったとかではなくて、結構前に買ったPanasonicのLUMIX DMC-LX1でがんばってます。コンデジとはいえ、なかなかいけます。当然デジイチほどではないのですが、どういう撮り方するとどういう絵になってっていうのがそれなりにできて、おもしろい。ってことに気付いた。テレ端マクロバンザイ。

次はデジタル一眼欲しいと思ったけど、ソニーのDSC-H50みたいなのでもいい。お手軽さも残しておきたい。って買いませんけどね。LX1でがんばるよ。

本物は次元が違う

2008-06-05 01:05:17 | design
昨晩、変な流れ(*1)からクロード・モネの絵(*2)をネットで見まして、そのときになんだか胸にこみ上げるドキドキ感に包まれ、モネの作品にとても惹かれました。(僕は芸術方面に全く明るくないです。モネ?エゥーゴの量産機みてえってくらいよくわかってません)

そんなこんなで夜な夜なモネについて検索して画像をいろいろ見て、気に入ったものを使ってGIMPで自分用壁紙作ったりしてたらもう2:30。(ってのは昨晩の話ですよ)


ネットで画像検索してるときに思ったことが、それぞれ画像の色味が違っていて、どれが「本物」に近いんだかわからないということ。自分がときめいた絵(画像)が、実は本物とはかけ離れたものだったら、本物見てもときめかない可能性とかもあるのかななんて。まあその辺は、ちゃんと気を遣って印刷された書物で確認すればだいたいは掴めるのでしょうけれど。

で、色味の件も含め、デジタルなところを経由したこういう類の絵は、色味、大きさ、質感、存在感、どれをとっても、「本物」には到底及ばないんだろうなと、そしてそれが当然なんだろうなと、あらためて思った次第です。リアリティってなんだろう、みたいな。飛躍するとクオリアの話にもなるのかなぁ。


例えば、Full HDの次は4K2Kだと言われてますけど、それは何を追い求めてるのか、と。

「本物は次元が違う」ってことを自覚した上で、感覚に訴える要素の再現性を高める努力をしたり、他に足りないものは何か考えたり、いっそ違う目的での利用方法を考えるなり、それぞれのスタンスを取り得るんだということが意識できてるか。

そういうことがいつでも考えられるような「基点」を持っておくってことも大切なんじゃないかなと、漠然と思ったのです。

ユーザ側の欲求にも言えることで、どこまでの質を求めているのか、何を以って「それ」とするのか、そういう感覚を失っちゃいけないんだろうなぁ、と。そういう意味で僕はモネの絵画に関して、何を以って「モネの絵」と感じるか、しっかりとした感覚が無いようなもんですが、知識ないがゆえの素の感覚も、大切にした方がいいときもあると思います。


さて、何が言いたかったかわからなくなってきました。印象派テキスト。


*1:ハムスター速報 2ログ:夜に非日常に出会った俺の話→「死の床のカミーユ」→他の絵も見てみる、という変な経路。
*2:「散歩、日傘をさす女性」「印象・日の出」「アンティーブの朝」など。クロード・モネ - Wikipedia

GoogleのFaviconが変わった

2008-06-03 02:17:32 | diary
GoogleのFaviconが変わった。今気付いた。

このblogもお世話になってる、gooのと並べてみた。

どちらも小文字「g」のデザイン。

だからどうしたって、別になんでもないんですが。