できるだけ歩く鳥

サラリーマンエンジニアによる日常メモ。たまにMac偏り気味。

ネタが自分の中から湧き出てこない件

2008-07-01 01:00:03 | design
昨日の「インタラクションを考えた暇つぶし」で、文化的なものだとか、知的な営みに足を突っ込むと、1人でやれないことが多い、と書いてから、ふとわかった気がした、適当な理由(言い訳)に値することが見つかった、と思ったのが、自分が作曲できなくなっていることについて。

今って、作曲できないというか、曲を作りたい欲求が浅いんですよね、なんか。なぜかというとたぶんそれは、聞かせたい相手がいない、ということ。インタラクションのくだりを書いていて、あーそういうことか僕の場合は、と思ったのです。


どういうことかっていうと、かつては、誰かに自分の作った曲を聞いてもらって「こんなふうな感覚をもってもらえたらいいな」みたいなのがあって、それが動機でありまた同時に想像のスタート地点でもあったり。しかも「誰か」ってのが、音楽系サークルにいたから、身近な人達で具体的にイメージしやすかったってのもあると思います。
知人に頼まれて劇中曲を作るときなんかも、曲を聴かせる相手、その曲をバックに舞台に立つ人達、なんかを自分の中に具体的にイメージできていたから、その人(たち)と僕との間のインタラクションが生まれて、活動のエネルギーになってたんだと思います。


作曲活動の果てに誰かを想定したときに、自分とそこの間にインタラクションが発生して、そこが曲作りのイメージが湧きでる先なんじゃないか、と。地下水脈的なものは自分の中にあるけど、相手との相互作用という次元でそれが初めて湧き水として表出する感じ。


そして、学生の頃ってそういうことに費やす時間と心の余裕があったんだなと思います。作る側も聞く側も金はたいしてないけれど、時間はあって、プロの作ったものとは比べ物にならないような駄曲を聞いてくれる人がいて、聞かせようと思ってしまえる若さを持っていて。

今の自分は時間的余裕がないだとか、感覚が錆び気味だとか、そのへん全部ひっくるめて、活動するにあたっての相手を想定できてない、ってことかな、と。


んでもってこの「インタラクションがあって初めて活動のエネルギーが生まれる」みたいなことって曲作りとかの限定的なことではなく、日頃のいろいろなことにも当てはまるんじゃないでしょうか。誰かの喜ぶ顔を見たい(見ると自分が満足する)から、誰かが喜ぶことを一生懸命考えて実現しようとする、みたいな。


そう考えてみると、インタラクション・デザインってすごい根源的で大切なことを扱う概念(であるはず)なんだなと思います。


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補足:最近(2008年6月)のDESIGN IT! w/LOVEの記事、とくに「暗黙知はどこにあるか?/情報は界面にある」を、自分の経験に照らし合わせて消化してみようとした、といった感じです。

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