できるだけ歩く鳥

サラリーマンエンジニアによる日常メモ。たまにMac偏り気味。

ガンダムの作られ方

2008-05-30 00:11:47 | design
数年前に買ってちょっとだけ読んで、ただのマニア向け資料集かよ、とあっさり放置した本を、今になって読んでます。(そんなこと言ってる僕自身マニアですけれどね)

ガンダムの現場から―富野由悠季発言集

いやいやいや、ただのマニア向け資料集なんかじゃなかった、これ。
読んでいて感じたのは、「ガンダム」という作品が、「コンシューマー向け」として、商業的な制約もある中で、やれることとやりたいことの狭間でギリギリに作られているということ。


■原動力
まずはじめにありきは「現状からの脱却(を目指したい)」という富野監督の意志。

それを「次に作るロボットアニメという仕事」に盛り込んだときに「ロボットアニメの評価を覆したい」となり、実現するために監督はガンダムでいろいろと「挑戦」をするわけです。

富野監督の想いはどちらかというとアニメ製作業界に向けられている(ように見える)けれど、視聴者からの「今までのロボットアニメとは違う」という評価があってはじめてその「脱却」感も成り立つわけで、両者に対して新しいロボットアニメの在り方を見せなければならない。と同時に、商業的にも、スポンサーが期待するように、(過去作品に倣って)うまくやっていかないといけない。

ということで、ガンダムで監督が行った挑戦というのは、どのようにして商業的な意味でのロボットアニメの必要条件(ロボットが出てくる、合体変形、ヒーローだ!など)を損なわずに、「現状からの脱却」を作品に盛り込むことができるか、という方法論の挑戦でもある。(視聴者に伝わるかどうかは精一杯がんばるけど最後はもう賭け)


■あくまで演出の道具(設定)としてのニュータイプ
具体的にどんな手法をとっていったか。

富野監督は、自分の主張のメタファーに「人類」を持ってくることで、現状から脱却した人類=「ニュータイプ」という概念の「発明」をする。

その発明した概念をいかにリアル感を持った状態で視聴者に伝えるか。

「ニュータイプ」という空想上の概念にリアル感を持たせるために、富野監督は概念を取り巻く世界をリアルに描くという演出の方法を取った。とくに人間のドラマとして世界を生々しく描くことで、それを達成しようとしている。
例えば、そのための演出方法のひとつとして、セリフ回しのみで人物と人物がどういう関係か推測できるようにする、といった工夫もしている。(ランバ・ラルとハモンがどういう関係かという説明は劇中は一切ないはずだけれど、なんとなく、夫婦というか愛人関係というか、とにかくその絆は見ている側は感じられるわけで)

また、作品中で「ニュータイプ」を完全には描ききらないことで、「ニュータイプ(≒神様)ならなんでもありじゃん」っていう陳腐化を避けるようにもみえる。でもそれは結果論で、描ききれなかったとも。


■(アニメという)モノづくり
あとづけかもしれないけど、ガンダムを見て刺激を受けた人が次の世代の新しいアニメを切り開いていって欲しい、というような、映像表現界のニュータイプの出現の期待をガンダムに込めた、みたいな部分もあるようで。

富野監督発言集を読んでて思ったのが、ものづくり全般においてもまずは「意志ありき」が大切だよなということ。そして実現するための方法論に滅多やたらと独創性やら創造性は必要ないことが多くて、実現するための核となる部分にのみ、突き抜けた感性が必要になるくらいなんじゃないか、ということ。

で、そういうものの原動力になるのは、お前は世になにをしたいんじゃという、強い意志。さらには、意志を固めるための下地構成。

どんな目で世を見てきているかっつー、ソーシャルデザイン的な問題意識を持つリーダーなり経営者なりが必要なんじゃないかっつーオチで、このエントリは終わり。


■おまけ
おもしろかったのは、当時のファンとの一問一答67問。たとえば問50。

Q.ホワイト・ベースとヤマトはどっちが強いのですか。
A.聞くも愚問で、波動砲さえかわせればホワイト・ベースが強いにきまっています。

かわせなかったら負けwwwwwww

思考の補助線という情報をデザインする

2008-05-20 01:41:08 | design
信じるという言葉(音、文字列、記号、絵、点の集まり、etc)が人と人の間に位置するとき、そこには「信じる」という意味がある/発生する、ということを信じるか。

「そういうこと」として、過去に同意を得てきたことであり、そしてただそれのみが記号「信じる」に「信じる」という意味が宿ることを「信じていい」根拠らしきものである。


シニフィアン=表すもの「(記号としての)信じる」とシニフィエ=表されるもの「(意味としての)信じる」を結びつけているのは、その結びつきを「信じる」ことのみ。ソシュールのいう恣意性ってのはだいたいそんな感じ。たぶん。(シニフィアンとシニフィエ

そういう前提条件の積み重ねで人類の文化は成り立っている。シニフィエがモノとして実在する対象、例えば「リンゴ」だったとしても、リンゴという文字列とあの果物を結び付けているのは、そういうことにしましょうという共通認識の積み重ねの歴史。今のところ、そういう結び付きが「信じられている」ということに過ぎない。


現代は、信じてよい「結び付き」、信じてよいかどうかわからない「結び付き」、思考の範囲の届かない「結び付き」、全て爆発的に増えている。知の断片化。構造主義からポストモダンへと移り、極端なところではタコツボ化が進む。タコツボの中で「結びつき」の検証~承認作業をしていれば、タコツボの中の世界は安定させることができる。


一人の人間が手に負える「検証済み結び付き」には限界があるにも関わらず、世界は存在し、今もまた結び付きを増やし続けている。そうなってくると本来淘汰されて然るべきようなことまで、未検証、検証不足で、(ときにタコツボの中で)世界に存在し続けるようになる。
それは、「シニフィアン」と「シニフィエ」の結びつきを「柱」として構築されてきた人類の文化が、支えるべき柱の脆弱性(耐用年数の短さ)に気付かずに、どんどん増改築をしているような状況にも思えてくる。やがては「件(くだん)の限界」を迎えることになるかもしれない。


そんな時代に、シニフィアンとシニフィエの結び付きの検証を可能な限りやってやろう、というのが「思考の補助線」著者の茂木健一郎さんのスタンスに見える。

結び付きが「そういうことになっている」という、「世界の同意」を得るためには、結び付きを多方面から見て、多方面の人々にわかるように見せて、多くの同意を得なければならない。その作業が「思考の補助線を多方面にわたり引きまくること」なんだろう、と思う。


ひらたく言えば、物事はいろんな角度でみましょう、くらいなんだが、それを(たとえ実現不能と感覚的にわかっていても)この世のすべてに対してやってやるという意気込みを持たねば真のインテリジェンスは生まれない、みたいなことを言っているんだろうと思う。なんとなく同意できるし、自分の日々の生活においても、もう少し思考の範囲を広く、難易度を高く、挑戦してみてもいいんじゃないかな、と思う。



ときに創造的と言われるような試みが失敗に終わるとき、それはどういった人々に、どういうシニフィアンとシニフィエの(新しい)結びつき方を承認して欲しいか、がぼやけているのかもしれない。結びつきはこうなってますよ、という「見せ方」の失敗でもあったり。

そう考えると、思考の補助線を引く、というのは、情報デザインでもあるなぁと感じる。


思考の補助線 茂木-健一郎 著

お弁当を食べながら

2008-05-15 03:04:48 | music
なにかと話題の「ほっともっと」…のCM曲が気になっていた今日この頃。
菅野よう子作曲という情報までは知っていたのですが、歌ってるのが誰だかさっぱり。曲名も。

プレナスのWebやらプレオープン中(?)のほっともっとのWebみても、5/15にならないとあまり情報掲載しないっぽかったのですが、5/15になったので確認してみたら、あら意外と早い、もう情報出てるじゃないですか。5/15の朝にならないと掲載しないかと思ってたよ。で、お目当ての情報もありました。

下記サイトの下の方、赤いバナー『新ブランド「ほっともっと」について』→『「ほっともっと」テーマソング』で聞けます。歌詞も載ってます。
ほっともっと


ほっともっとテーマソング「お弁当を食べながら」
作詞:岩崎俊一
作曲:菅野よう子
うた:清浦夏実

菅野よう子は、個人的にはアニメ「カウボーイビバップ」で知ってたくらいなんですが(OP曲「Tank!」かっちょいい)、いろいろと有名なんすね。作詞の岩崎俊一さん、うたの清浦夏実さんは、恥ずかしながら存じ上げず、なので調べてみると、岩崎さんって方はコピーライターさんみたいですね。清浦夏実さんは女優さんのようで。18歳!


「ほっともっと」関連の、ごたごたしたビジネス的な話はさほど興味ないのですが、歌はなかなかいいじゃないですか。