茫庵

万書きつらね

12月27日 - 詩と技巧 4

2011年12月27日 23時30分20秒 | 詩学、詩論

詩と技巧 - 4

 前回は、詩と技巧について、定型詩と自由形式 詩を中心に取り上げました。 自由形式詩は、定型詩が引き受けてくれるものを、詩人が自分で背負わなければならない分、はるかに難しいこと、散文は詩とは 認められないこと、自由詩は詩人本人の感性のみの世界に耽溺して読者の感性から乖離しやすいこと、これに対して定型詩は懐が深く、その作法に従う事で、誰 でもその歴史と伝統全体に連なる事が出来ること、などを論じました。


 今回は詩語について。

  漢詩では「詩語」というものがあり、当たり前にこれが詩作に使われます。 古語にない事を詠みたければ中国語を使います。 基本的には国字や日本語の熟語 は使いません。 詩語は古来3000年の歴史の中で、各時代の詩人たちが使ってきた物の集大成として、いくつもの詩語集が作られているので、それを参照し ます。 自分で勝手に熟語を作ったり、詩語にない表現を用いる事はタブーとされます。 何故なら、それは単なる独善であり、他者に理解され得ない戯言にす ぎない、と見做されるからです。 このため、漢詩を作る人は、型の勉強だけでなく、詩語についても相当熟達しておかないと、人をうならせる様な作品は作れ ない、と言う事ができます。

 詩語集には平仄と韻それぞれについて体系的に整理してある、誠に詩作する者には有り難いタイプのものがあり ます。 これを一冊手元に置いておけば、誰でもそれっぽい絶句の一首位は作れる様になります。 では、詩語を組み合わせて作った詩は自分が作った詩といえ るのでしょうか?

 確かに詩語は、詩人たちが歴史の中で名詩の中に散りばめ、残してきた表現の集大成です。しかし、自分がある詩語に共鳴 し、それを自分の表現として選択する、という事は、画家が絵の具の選択し、その配色を決めるのと同じ心があればこそで、そこに作者の「詩心」を認める事が 出来るので、本人の作と言えるのです。 良い詩語を選択出来る、という事は、作者の作詩のセンスがそれだけ良い事を意味します。

 では、 自分が作りたい詩が詩語のボキャブラリーでは表現しきれない場合はどうでしょうか? 当然、それは表現不可能な詩情という事になり、その時作者は詩作を断 念せざるを得ないでしょう。 ただ、それは全部自分の言葉で作ろうとした場合でも同じで、その場合は選択肢が詩人個人の語学力の範囲に限定されるだけの事 です。 たった独りが一生かかって獲得するボキャブラリーと、何百年もの歴史の中で、一流の詩人たちが残してきたボキャブラリーの、どちらがより詩として 豊かな表現力を持ち、言語としても完成度の高い表現を為し得るか、答えは明白でありましょう。

 口語詩は文語を棄て、自由形式詩は定型詩 を棄て、現代詩は、それまでの言語表現すべてを棄てました。その上で詩を作る上は、棄てた物以上の何かを用いなければならないはずですが、結果としてそれ 以上の成果を挙げた様には私には見えません。 これは、所詮微力な個人個人の活動だけでは長大な歴史には勝てない、という当たり前の事と、古来伝えられて きた詩語や独特な表現方法の持つ底力が、個人では発揮し得ないという理由に依るのではないか、と私は考えています。

   古(いにしへ)の詩情豊かに
   吾が思い 詩語に託せり

   詩語なくば何も述べ得ず
   吾が思い 何ぞ処するや

   選びたる詩語に宿りし
   吾が思い 詩縁なり

   詩縁との巡り逢いにて
   吾が思い 遂に実れる


12月26日 - 詩と技巧 3

2011年12月27日 00時15分08秒 | 詩学、詩論


定型詩と自由形式詩、現代詩、散文

 詩についての議論のひとつに定型詩と自由形式詩の問題があります。 私は無論定型詩派です が、定型詩の型に窮屈なまでに抑えこまれ、決まった表現方法で決まったお題を詠む、という事への反発で自由形式詩が誕生した、という理解でいますが、ここ にひとつの大きな誤謬があります。

 即ち、定型詩には積み上げた歴史とその歴史の重み、また、その決まりきったとされる作法の洗練された 形式美が極限まで追求された故の芸術性、美しさを伴っています。自由形式詩にはそれがありません。定型を捨てる以上、それと同等か以上の「何か」を自前で 創り出さなければ定型詩を超える事は出来ません。 超えられないなら定型を捨てる理由もないと思います。

 また、定型詩には、歴史と伝統 に裏打ちされた、それ自体の存在の重みがありますが、自由形式詩はあくまでも既存の「定型」にアンチテーゼとして打ち出された新時代の「自由」であり、 「定型詩」の存在無しにその真価を位置づける理由がありません。ここにも自由形式詩が安易に発展出来ない足かせがあります。

 現在の自由形式詩は以上見てきた二つの足かせに見事に打ち勝っているでしょうか?

  さて、ここで自由形式という観点について、確認しておきましょう。 元来詩というものには韻律が備わっていて、読んでも唱えても聴いてもその言語特有のリ ズム、律動を感じてある種の心地よさが感じられるもの、とされてきました。定型詩とは、その韻律の様式が古来決まったパターンを持っているもの、自由形式 とは、ひとつにはその韻律にこだわらないもの、そしてもうひとつには、詩人自らが、自分の形式で韻律を定めたもの、という意味があります。つまり、自由形 式詩には、二種類のタイプが存在するのです。

 私は詩とは韻律を持った言語表現だと考えているので、韻律を無視したものを「詩」と呼ぶ事 は出来ないのですが、韻律の形式を詩人自らが定め、その方式に従って書かれた詩は、詩と呼んでも構わないと考えています。 言い換えると、韻律を持たない 言語表現、即ち散文は形式上詩にはなり得ません。

 私の詩観では「散文詩」というものは認められません。それは、ちゃんとした詩が書けな い者の言い訳にすぎない、という見解になります。 これに対して、詩情の有無を問題にして、韻文でも詩情がなければただの文章だし、散文でも詩情が感じら れれば詩と呼んで良い、という理論がありますが、現在の自分では、まだ詩というものの理解が浅く、そこの判断は出来ません。 詩とは言えない韻文がある事 は理解しますが、詩といえる散文があるとするなら、その判断基準は何か、客観的に示したものを見た事がありません。

 次は定型詩の限定性 批判について。定型詩嫌いの詩人の定型詩批判でよく言われるのは「創作を限定される」とか「単なる語呂合わせになってしまう」といった事ですが、果たして そうでしょうか? これはその詩人の創造力の乏しさ、表現力のなさ、精進の欠如の言い訳にすぎないのではないか、と私は常々思っています。 言葉の芸術の 担い手として、もっと工夫を重ねる余地はあるはずです。 少なくともそういう事へのチャレンジ精神や好奇心はもっと欲しいところです。

  西洋の定型詩も、中国の定型詩も、音数と脚韻と途中のリズムやアクセントについての細かい決まりがあって、それがその言語ならではの律動感をかもし出して いますが、日本語にはアクセントや脚韻により律動感を生み出すような特性はありません。これをふまえた上で、明治、大正期の文学士達は、西洋の言語で書か れた詩を和訳したり、日本語でそのような雰囲気を醸し出す詩を作る為に、様々な試みを繰り広げてきた訳ですが、その末裔たる我々が、あっさりそれを捨て て、薄っぺらな自由形式口語体詩のみの世界で満足してしまって良いのか、という思いは、私は文学士ではありませんが、多少は持っています。

 このあたりは、前にも述べましたが、詩の愛好家や趣味で詩を読んだり書いたりする人ではなく、「詩人」を名乗るような者全般が果たすべき責務ではないかと思います。

 もうひとつ。

 詩の懐の深さ、広さの違いについて。
  定型詩には、多くの詩人の知恵と努力の結晶が詰まっています。読む方もそれをよく承知していて、定型の中で表現された事は、時代を通じて人々の間で共有す る事ができます。 つまり、定型詩は作り手も読み手もひとつの大きな世界を最初から共有しているのです。 一方、自由形式詩はそれが詩人個人の創造の結果にすぎないので、時としてその作品は、詩人本人以外には理解出来ないしろものになる可能 性を、常に秘めています。 大変な力量とエネルギーが詩人個人に要求されるはずです。 怠け者の自分にはちょっと、、、な世界です。

 自由形式詩が極端に定型を嫌い、日常使う言語(口語)表現すら嫌って、言語を使用した詩人独自の世界を構築し ようとした時、いわゆる現代詩というジャンルに属する詩が生まれました。これにより、詩は読者を失い、閉ざされた世界の中でのみ流通する特殊なものになっ ていきました。つまり、作者と、その意向を(どうにか)許容出来る一握りの人にのみ享受出来る芸術性、とでも言うのでしょうか。

 これに 対して定型詩は、時代を越えて生き残ってきた重みと広い許容性を持っています。例えば、我々が古来の作法に則り七言絶句を作れば、それは杜甫、李白の時代 から、1000年以上に渡って七言絶句に関わってきたすべての人に理解され得る作品になる事が保証されています。 西洋のソネットも同様。 ルネッサンス 時代以降の伝統の上に立って、表現された作品は、800年の歴史を越えて人々の理解を得るでしょう。 但し上手下手の違いはありますが。 人類にとって、 より普遍に近い価値を持たせる事が出来る、と言い換えても良いです。


   心根を言葉に乗せて
   新しい詩を賦す為に
   振るうのは言葉の絵筆
   磨くのは美的感覚

   それぞれの才能育て
   芸術の扉を拓く

   定型詩、懐深く
   自由詩は感性放つ
   伝統を受け継ぎつつも
   新境地 拓くは誰か

   後世の歴史のみ知る