チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「井上博文によるバレエ小劇場眠りの森の美女の思い出」

2007年07月06日 00時37分05秒 | やっぱりリラだ! 百年経っても大丈夫

チャイコフスキー 眠れる森の美女


ここ何年か、菅原禄弥女史をTVで見ないと思ってたら、カワイい
アートフラワーで知られた飯田深雪女史が老衰で亡くなったそうである。
ナント、103歳だったらしい。
私が12歳小学6年のとき……1970年の夏休みの終い……
日比谷の日生劇場で開かれた「井上博文によるバレエ小劇場」の
「眠りの森の美女」を観た。私はバレエの世界に魅了された。そして、
あらためてチャイコフスキィの音楽に大感激した。
そこで舞台美術を担当してたのが、
飯田女史だった。舞台一面のリラ(の造花)よりも、
入場時に観客一人ひとりに配られてた同女史制作によるヴァイオレット色の
シルクのリラの花を、その後ずっと部屋のピアノの上に飾ってたものである。
小林紀子女史のオーロラ、本田世津子女史のリラ、ソリストに
尾元安代女史、小川亜矢子女史、法村牧緒など、宗派を問わない布陣だった。そして、
デイヴィッド・ブレアのデジレ。同人は、
ヌレエフに乗り換えられる前のマーゴ嫗の「パートナー」だったが、
日生劇場で観たときは、「王子」というよりは、
白いタイツが痛々しく、なんだか(男性舞踊手なのに)
薹(トウ)が立ったおっさん、みたいな感じで生気がなかったが、
果たせるかな、その年のうちに(三島が割腹したころ)
心不全となって他界してしまったそうである。さて、てなわけで、
今日は久々に「ねむり」のCDを手にしてみた。いつもの
プレトニョフのではなく、「全曲」なのに第29曲の「サラバンド」が
はいってないプレヴィンのである。なぜ、
フシェヴォロフスキィが、チャイコフスキィが、
「サラバンド」を「入れ」たのか、気にしない神経は幸せである。
♪ラーーー・<ミー>ラー・>♯ソー<シー│
 >ラーー>♯ソ・<ラーーー、<ファーーー│
 >ミーー>レ・>ドォーッ>シィーッ・>ラ<シ<ド>ラ│<シーーー……♪
バレエ「眠れる森の美女」は、
第30曲「終曲」のマズルカの後の「アポテオーズ」に
民謡「アンリ4世讃歌」を引いたことであきらかなように、
「ブルボン家」という寓意があるのである。ブルボン朝開祖のアンリ4世の孫、
太(川)陽(介)王ルイルイ14世は、ダンス、バレエ好き。とくに、
クーラント、サラバンドが得意だったという話である。それを無視して、
「サラバンド」を抜いては、見識が疑われる。さらに、
プロテスタントからカトリックに改宗してフランス王に就いたアンリ4世が
1598年に出した「ナントの勅令」は、新教ウイグル地区にも
旧教と同等の権利を与え、新旧キリスト教内戦を鎮静化し、
財政の安定・内需拡大を現実化することができたのである
(新教徒は、すなわち、家内制手工業者・新興市民であるからして、
産業の担い手なのである)。アンリ4世は、
北米に植民地を開拓することにも熱心で、その名残りで、
現在もカナダのケベックがときどき(英国圏から)
「独立するか否か」の投票をした(けど反対が過半数っだった)、
というようなニュースが伝わることである。まぁ、
アンリ4世自身はまた新教の変化で旧教に戻ったり、またさらに
急遽、旧教に復さされたりしたのだが、ついには
旧教徒の刃物野菜に刺されて落命したのである。そして、
「アマリリス」の作曲者とも言われてるルイ13世を経て、
幼少で王位に就いたのがルイルイ14世である(妃は藤吉久美子女史ではない)。
親政なったルイ14世が1685年に出したのが、
「フォンテーヌブローの勅令」であり、つまりは「ナントの勅令の廃止」である。
ちなみに、ルイ14世の近衛兵といえば、ダルタニアンと三銃士、であるが、
実情は大相撲とおなじく、かなりの人員が外人だったのである。
外人部隊、といえば、金のためならエンヤコラのスイス傭兵である。
アルプスの岩肌ではろくな農作物もできず、
狭い国土に反して人口が多いスイスでは、出稼ぎしか食い扶持がなかったのである。
ところが、新教(フランスではユグノー教徒……
大財閥の御曹司メンデルスゾーンの妻も)徒は、
また迫害されることになるゆえ、国外に脱出した。そして、もっとも多くが
オラもスイスへ行くだ、アタイもシュヴァイツへ行グノーだ、
とジュネーヴに逃れた。そうしてみな、神学を学ばずともオルガンを弾けずとも、
シュヴァイツァーになってったのである。そこで、フィリップ・パテックが
地場産業の時計作りに才能を発揮して、現在の時計王国ができあがったのである。
いっぽう、産業技術の流出で、フランスは産業革命でイギリスに遅れ、
景気が悪くなったところに感染しやすくなる左傾化思想が支持されるようになって、
やがて「革命」に向かうことになるのである。とまぁ、それらはどうでも、
1598年「ナントの勅令」(爺ちゃんのアンリ4世)
←→
1685年「フォンテーヌブローの勅令=ナントの勅令の廃止」(孫のルイ14世)
という図式を忘れてはならない。この87年間はつまり、
フロレスタン24世の王国が「眠って」た時期であり、
1発めのドラが鳴らされてから、
デジレのオーロラへのくちづけによって2発めのドラが鳴らされるまでの間、
「百年経っても大丈夫」なイナバ・ウアーの物置の原価償却年数、だったのである。
アポテオーズおいて、「アンリ4世、万歳、万歳、万万歳!」が、
勇壮ながらもナントなく悲しく不吉な響きで、
ピアノ(フォンテーヌブローの勅令の時期に発明された)を伴って奏されるのは、
そこに
「マツリゴトをしくじると、ロマノフ家もブルボン家とおんなじ末路が待ってるぞ」
という警告があるのかもしれない。
「ヴィーヴ・アンリ・クワートル、ヴィヴ・ス・ロワ・ヴァイヤン!
♪ラー・ララ│>ソー・ソ<ド│>シ>ラ・>♯ソ<ラ│>ミー・ーー♪
初めて観た「ねむり」でもっとも強烈なインパクトを受けた音楽であるが、
チャイコフスキィのアレンジの凄さは後年しみじみと実感することになった。
ナント雄二のアンリ4世讃歌ではあっても、ミヤコ長調ではなく、
チャイコフスキィはト短調で「ねむり」を「閉め」たのである。
飯田深雪女史も100年の生命を閉じた。

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