チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ぴんとこな考」

2013年08月29日 18時04分09秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
オバQビルはまもなく解体がはじまるらしいが、小学館は
歌舞伎界を舞台にした嶋木あこ女史の人気漫画
「ぴんとこな」の版元である。この漫画が現在、
TBSでドラマ化され、低視聴率ながら、
木曜21時から放送されてる。
<「ぴんとこな」とは、歌舞伎用語で
「男らしさと憎みきれない色気を併せ持つ二枚目の役柄」
を意味してる>
と、TBSのウェブサイトでは説明されてる。一般にも、
「きりっとした芯のある二枚目」
というふうに解されてる。

ときに、
10年前に開業した六本木ヒルズのメトロハット地下の
回転寿司屋がこの「ぴんとこな」を商号にしてる。
<店内は歌舞伎の世界をモチーフにしてる>
のだという。
写楽が描いた三世沢村宗十郎の唇と
岸谷五郎の唇の区別がなかなかにつかない
拙脳なる私にはいまいちぴんとこないが。ちなみに、
「ぴんとこな」に対するのが「つっころばし」だとされてる。
背を突っついただけでもすぐに転んでしまいそうな優男、
という意味と説明されてる。

それはともあれ、
ではなぜ、「男らしさと憎みきれない色気を併せ持つ二枚目」を
「ぴんとこな」というのか、ということは、
どこにも説明されてない。
以下は私の"推測"である。

人形浄瑠璃とそこから題材を採った歌舞伎で、
唐人が登場するとき、象徴として
襟袈裟(えりげさ)を身に着ける。これを
「ぴんとこ」と言う。では、なぜこれをそう呼ぶのか?
これもどこにも説明されてない。私の憶測では、
「襟」のことを中国では「領」、
「袈裟」のようなもののことを「袍」、
と言うのではないかと思ってる。だから、
両方をあわせれば「襟袈裟」は
「領袍(日本の音読みでリョウホウ)」で、
中国式には「リンパオ」のような発音だったのではなかろうか。
「linpao」が「pintoko」のように日本人は聞いたのかもしれない。

襟袈裟とは、よだれかけにカンガルーの育児嚢をくっつけたような、
襟と前垂れがひとつになったものである。これは、
かつての中国仏教僧が托鉢時に身に着けてた
頭陀袋(ずだぶくろ)の一種である。
「ずだ」とは、サンスクリットの"dhuta(ドゥータ)"に由来する。
"dhuta(ドゥータ)"とは、「区別をなくすこと」が原義で、そこから、
「私欲を捨てること」→「削除」「破壊」「棄捨」
→「煩悩を捨てること」→「仏門の修行」
という語義をも意味するようになった。

ちなみに、
托鉢僧が袋を大きく開けて施しの銭を投げ入れてもらった
このドゥーダ・ズダ(dzuda)袋という語から、
井戸に何かが落ちて水面で起きる音を
「dzuda」→「dzudo」→「ズド」「ズドン」と擬するようになったのである。で、
托鉢も襟袈裟にではなく、鉢に入れてもらうようになったので、
その鉢を「ドン」=「丼」から丼鉢というようになった。また、
物が水の中に勢いよく落ちて発する音は、
「dubun(ヅブン)」「dobon(ドボン)」であり、
勢いがいい水に濡れた状態もズブ濡れと言い、
それが「すっかり」という意味に転じて
「ズブの素人」のような表現もされるようになり、また、
すっかり切り刻むことを「ズタズタ」と言うようになった。さらには、
水や水分を含んだ泥や濡れた状態の穴などに
物が深く沈んでくさまを
「dzubudzubu(ズブズブ)」と言うようになり、
一塊の液体が移動するさまを
「dobudobu(ドブドブ)」と表すようになった。同意の
「dzabudzabu(ザブザブ)」が→「zyabazyaba(ジャバジャバ)」→
「zyabuzyabu(ジャブジャブ)」となり、
LAレイカーズのセンターとして相手ティームを翻弄してかき混ぜるように、
水をかき混ぜる音を意味するようになった。

明朝末期の鄭成功を扱った「国姓爺合戦」で
唐人の登場人物が襟襟袈を身に着けてたことで、
「唐人」=「襟襟袈」
というイメージができあがった。また、
江戸時代は主たる外国交易は長崎において
中国とオランダとしか行ってなかった。そのことによって、
一般的な認識としては、日本人以外は
「外国人」というひとくくりな捉えかたとなった。だから、
歌舞伎や浄瑠璃の「唐人」という言葉も、
中国人だけでなく、西洋人もふくめた
「外国人全般」を指すようになったのである。
それにともなって、
「襟袈裟」の定義も、針金を入れて直角に
"ピンと張った"襟をもつ前垂れのみならず、
16世紀に西洋で流行して、いわゆる鎖国ののちも
オランダ人が身に着けてた
ruff(ラフ、襞襟)のことまで含むことになった。
西洋人(白人)は日本人に比して顔の彫りが深い。
「絵に描いたような」風貌である。英語のpaint、pictureは、
ラテン語の動詞pingo(ピンゴー、描く)の過去分詞
pictus(ピクトゥス、描かれた)が由来であるが、やはり
この語から派生したpintoは、
鎖国以前に日本に入ることを許されてたスペインやポルトガルでは、
pintar(描く)の直説法一人称単数現在形である。
「絵に描いたようなイイ男」を、
被写界深度が広い、彫の深い、焦点(pinto)が合ってる顔、
と受け取った可能性がある。
brandpunt(ブラントプント、レンズの発火点)が日本では
→punt(プント)→ピント(焦点)という"外来語"となった。
「焦点が合ってる」とは「鼻筋がとおってる」ことに等しい。

さて、冗談はともかく、
ポルトガル語のpintoという語には
ひよこという意味がある。英語ではcockである。つまり、
男性器を意味してるのである。対して、
ポルトガル語のcono、conaは
女性器を意味する(cone=円錐形だと考えられてたので)。
したがって、
「ぴんとこな」とは「ぴんと+こな」=「男女結合」。
女性が抱かれたいほどに魅力的な顔をした男を表す、
という次第である。

余談に……、
長崎に現在は上小島いう住居表示の一角がある。ここに、
ピントコ坂と通称されてる坂がある。
元禄3年(西暦およそ1690年)、
長崎に来てた明の商人の何旻徳(カ・ピントク)が
贋金造りの疑いで処刑された。同人は色男で、
丸山遊郭の登倭(阿登倭、とわ(おとわ))と契った仲だった。
ちなみに、それを妬んだ長崎奉行所の役人が旻徳に罪をきせた、
ということになってる。
登倭は旻徳の死骸をこの坂に埋葬し、その墓前で自刃して果て、
永久にあの世で結ばれた
……という噺が残ってるのである。いずれにしても、
上記のシモネタもふくめ、
生物的にどの女性からも契りたいと思われない私には
無関係な、ピンとこない話ではある。とはいえ、
京都ponto町に降る雪も、渡月橋に降る雪も、
雪に変わりがあるじゃなし。
溶けて流れりゃみな同じさ。
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「毎日放送の『プレバト』とは?/語意の空騒ぎ(しゃがむ篇)」

2013年08月16日 18時11分48秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
昨日は20時頃に帰宅して、シャワーを浴びた。その前に
低視聴率にあえぐ「ぴんとこな」を21時から観るために
"チャンネルをTBSにロック"しといた。シャワーから出てきたら、
「正しい日本語」
みたいな内容の番組をやってた。あとで調べたら、
「プレバト!! 曖昧な日本語をしっかり覚えられる 2時間SP!」
という19時から放送されてた毎日放送制作の番組だった。
ともあれ、そこで長嶋一茂に出された設問は、
「西麻布の交差点の旧称は?」ではなく、
「『かがむ』と『しゃがむ』の違いは?」
というものだった。長嶋の答えは当然に不正解で、
"名古屋大学教授"の町田健とかいうのが、
<『かがむ』=尻が膝より上の状態
『しゃがむ』=尻が膝より下の状態>
のように"正解"なるものを解説した。
gamba(がむば=脚)の折れ程度に関係なく、
尻の位置で定義づけてるわけである。なるほど、
プレ・バトなる番組名は、
pressure battleなどという誤用英語ではなく、
pressure buttという造語だったのである(※)。
が……。
語源はともあれ、
現在使われてる意味としては、
これはまったく正しくない。
『かがむ』とは、程度の大小にかかわらず
『腰を曲げる体勢をとる』ことである。
坐してるときも立ってるときも使う。対して、
『しゃがむ』とは、
『尻を地面・床に着けず、少なくとも片方の膝が
完全に曲がった状態で体勢を低くとる』ことである。
つまり、いわゆるうんこ坐りあるいはヤンキー坐りだけでなく、
「片膝立ち」のような座りかたも含める。
オン・デック(日本でいう"ネクスト・バッター'ズ・サークル)で
次打席を待つ打者の坐しかた
(いっぽうの膝は尻より低く、もう片方は尻より高い)、
相撲の蹲踞(両膝と尻とがほぼ同高度)なども含まれる。

さて、
『かがむ』という語の語源は、
このブログでもたびたび触れてるとおり、
『まがった状態/曲線』を意味する
『かか(kaka)/かが(kaga)』である。
ある物体を「えぐる」と、その結果として
『曲線的にカットされた痕』が残る。
そうした行為を表す動詞が、
『かく(kaku)』なのである。
ショベル・カーの動きである。
欠く・掻く・書くなどという字があてられ、
意味も拡大されてった。これと類似した行為が、
『さく(saku)』である。
割く・裂く・咲く(つぼみが"割れて"花が開く)である。
地層が裂けて生じるのが坂(saka)である。
伊予の方言として残る「しゃぐ(shagu)」という語は、この
「さく(saku)」の子音交替である。
標準語としても「ひしゃぐ」という形で残ってる。意味としては
「押しつぶす」であるが、裂く(割く)同様に、原型をとどめない。
また、裂けたり割れたりして中身が出てくるさまを、
「曝る(さる)」という。これも子音交替で「しゃる」ともいう。
そのように、「細かく砕かれた状態」で出てくるさまを、
sarasara、surasuraなどと擬態する。そして、
実際に音をたてるさまをsharishari、その子音・母音交替で
zharazhara、zharizhariなどと擬音する。ともあれ、
「上から圧がかかって、あるいは、
押しつぶされたように体を丸めて低い体勢をとること」を
『しゃがむ』というのである。

また、
以下は私が推測する「なんちゃって」語源である。
絶対に信じないでいただきたい。

令制時代の行政区分であり、旧国名だった
「相模(国)」というものがある。かつては、
「さがむ(sagamu)」と発音した。現在の
神奈川県の横浜・川崎を除く(これらは武蔵国)ほぼ全域と
静岡県のごく一部である。ともあれ、
相模国は8つの郡から成ってた。
東側から西側に向かって、
御浦郡、鎌倉郡、高座郡、大住郡、余綾郡、愛甲郡、そして、
足上(あしのかみ)郡、足下(あしのしも)郡、である。
相模国西端のこの足上郡、足下郡は、現在も
「足柄」とか「芦ノ湖」とかいったように
「あし」という語を含んだ名が残ってる。
いまは山王川というが、小田原を流れるこの川はかつては
葦子川といって、葦子村という地名もあった。現在は、
芦子小学校という名にわずかにその痕跡がある。ともあれ、この
"足"郡が上下に分割された由来は、
葉加瀬太郎と三枝成彰の顔の区別がままならず、
かつまた、故阿知波信介と三枝成彰の顔が判別できない、
悪しき拙脳なる私には知る由もないが、
この分割線が家康時代の東海道となったらしい。ちなみに、
伊豆半島というのはフィリピン海プレイトが
北アメリカ・プレイトにぶつかって隆起し、皺寄せされた
町田や丹沢あたりからの反作用で
グニャっとねじれてできたものである。ときに、
相模国だけはその国府がどこにあったのか、
未だに解明されてない。その理由のひとつが、
古来の東海道というのが、この
相模国から、文字どおり"海路"となって、
房総半島へと続いたことにある。

それらはともかくも、
真鶴岬と三浦岬をそれぞれ両足首より先と見立てれば、
相模国全体がしゃがんだ人のシルエットとなってるのである。
しゃがみのくに、
というわけ……なのである。いずれにせよ、
釈迦牟尼が修行時代に
しゃがむにあたって尻を床に着けずにずっと
うんこ座りからのスクワットを繰り返してたから、
というのではないようである。
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「ドオリデが通ればドウリデが引っ込む道理」

2013年07月23日 18時26分47秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
美人ギタリストでタレントの村治佳織女史(35歳)が
舌癌のために当分の予定をキャンセルして長期休養に入ると
そのウェブサイトで公表したらしい。とすると、
少なくとも2回めの橈骨神経麻痺も
舌癌のリンパ節転移によるものだったのかもしれない。
酒が好きで喫煙者(幼少期の愛情不足と演奏へのプレッシャー)なら
発癌率は高くなるのはしかたないが、そもそも、
吉永小百合や坂本龍一なんかに見込まれて
親しくしてたのが運の尽きだったのである。
ベン・ケーシー・高峰みたいにさきっちょにできた、転移や浸潤のない
ごく初期のもの以外は舌癌は難しい。

あれほど貶日の所業をやり放題にされてもなお、
民主党やそこから退けられた徒党に入れる輩があとをたたない。
民主党大惨敗などといっても、それでも
17人もの貶日が当選してしまったのである。が、
<本日、海江田代表に幹事長職の辞表を提出しました。
今回の参議院選挙で、民主党は歴史的敗北を喫しました。
幹事長は選挙の責任者です。
特に、東京選挙区での敗北は、
候補者を一本化した私に全ての責任があります。
多くの方から温かい励ましを頂きましたが、辞意は変わりません。>
と、民主党幹事長はtwitterで自ら
"歴史的大敗北"
などと謳ってしまってるのである。
あれだけひどいことをしておいてそれでもなお
17人も当選するのだから、
"よくやった""まだまだ捨てたものではない"
という感想しか持ちえないと思うのだが。
癌細胞と同じで、根絶しなければまた増える、
かならず生じる、というのが"悪政"や"悪性"のアクセイたるゆえんである。
ともあれ、選挙前、
民主党が党所属国会議員に、
<ツイッターやブログを使って政策の審議経過や個人的な情報の発信を
しないよう"自粛"を求める>通知を出していた、
のは3か月ほど前のことだった。が、それは
一部には<ツイッターでバカが露見する>
という理由からだったとも報じられてた。

モナ山本女史との公道での堂々路チュウで一躍全国区に
その"ハンサムぶり"を轟かせた細野豪志大先生も
twitterを愛用してる口である。その
プロフィール欄にはこう書かれてる。
<民主党幹事長を務める衆議院議員です。
ツイッターでは個人的な考えをつぶやくと共に、
普段みなさんに伝わりづらい国会議員の仕事を、
わかりやすくお伝えしていきたいと考えています。
細野豪志本人と、ときどき秘書・佐藤でつぶやき中です。
選挙区は静岡5区です。>
まず、<@hosono_54>というアカウント。ゴーシだから54、
なとという最下等のダジャレ語呂合わせ。それに、
本人アカウントで<ときどき秘書がつぶやく>のはダメである。
秘書は別のアカウントで発言すべきである。ともあれ、
"ネット選挙"中のツイッターで細野大先生はこうつぶやいてる。

<これから仙台。
「自由主義とは反対者を認めることだ。
今の自民党は全体主義、ファシズムだ。
長く支持してきたが、やめた。
自由民主党と名乗る資格はない」
と語った91歳の男性と出会った場所です。
最終盤、もう一度、権力のあり方について話そうと思います。>
その翌日には、
<岡崎トミ子 @okazaki1035 候補と4ヶ所で街頭演説を行いました。
今回の選挙はこれまでになく厳しいですが、
オカトミ節は今日も健在でした。
古くからの支援者に若い応援団も加わり、
何としても勝ってもらいたい。>
選挙戦終盤に牛タンの町その他東北に行ったのは、いわゆる
"被災地"を慮ってますよ、というジェスチャーそのものである。
自民党がファシズムだというのを架空の91歳の持論という体で
巧く責任逃れしてるようである。が、
「韓国人の反日デモ参加は日本の国益」などという岡崎トミ子に
<何としても勝ってもらいたい>
というほうがよほど"別の国のナショナリズム"に溢れるファシズムである。

<(その8)皆さんなしではこの選挙は成り立たちませんでした。
明日の天気は全国的に晴れまたは曇り。投票という審判を待ちます。
※この写真は今年の5月19日に福島で田植えをした時の写真です。>
菅直人が被害を増大させた"福島"を思いやってますよ、というアピール。
<民主党政権の実績はマニフェストなどに記載しています。
「ほざく」というのは、批判でも異論でもなく罵倒です。
通常の社会生活の中で大人は使わない。
RT @OverthetopThe: @hosono_54
だから、自分達が政権とった時に何もせんと今更何をほざいとるんじゃ。>
現在の「ほざく」の語意のご説明、ごもっともである。が、
話者とてその意味を知らないのではなく、あえて使ってるのは明白である。
それだけ民主党が"子供手当に目がくらんだ意識レヴェルの国民を欺いた"
という意思表示なのである。
細野大先生は「日本語」についてとやかく言えたレヴェルではない。
それは後述のこの大先生の別のツイートで触れる。
では、最近のつぶやきから。

<人生には良いときもあれば悪いときもある。
困難に直面した時は寄りかかってもいい。
ただ、誰かから寄りかかられた時は、
寄りかかった時の倍の力で支える。
これが、私の考える共に生きる社会であり、私自身の生き方。>
「寄りかかった時の」では主体客体が曖昧になる。ここはおそらく、
「寄りかかられた」だろう。また、こうした形式名詞の
「とき」を漢字で「時」と書くと読みづらくなるので
公式文書でなくてもひらく、
というのが一般的に教養のある者の慣習なのだが、
細野先生はどうやら違うようである。が、ともあれ、
「作用反作用」というごく初歩のニュートン古典力学も知らないご様子。
倍の力では"支える"どころか"腕力で完璧に突きはなす"行為である。

先月下旬には、
<いよいよ、国会最終日。
国民のために残された法案成立を目指したいと思います。>
と、民主党が加担して東電に都合の悪い法案を廃案にしたくせに、
ツイッター上で虚偽の報告をして自ツイッターを炎上させた。
嘘をついったーのである。
また、先月上旬にはふたつも爆笑を勝ちとった。まず、
同胞蓮舫の愛犬写真附きツイートに対して、
<お~。ずぼらな瞳ですね。
蓮舫さん、今日はお疲れさまでした!>
これもすぐにフォロアーその他から指摘された。
永六輔や梓みちよ女史や元カノのモナ女史らから、
「こんにちは、細のちゃん。
あなたの喘ぎ声、そのちいさな○、ずぼらな瞳」
という返信はこなかったようだが、蓮舫は、
<細野さんのお茶目な誤字Tweet、からまれてるなぁσ^_^;。
急いで打つと、間違えること私もよくあるので気持ちがわかる。>
などと、"フォロウ"とも激オコプンプン丸ともオコさま並のアホともつかない
ツイートをしてた。

いっぽう、
この"お茶目"な失言のつい3日ほど前には、
<これまで沈黙してきましたが、
こういうツイートはやめていただきたい。
私は先祖からの日本人ですが、
在日の人たちを卑下するかのような表現は、
少なくとも私のツイッターのやり取りの中で
見過ごすことはできません。>
などとカム着火インフェルノに息巻いてた。
自分のツイッター以外のところでなら見過ごすことも悪びれない、
と言ってるようなものである。それはともあれ、大先生、
「卑下」という言葉の意味も知らない。これでも、
私大よりもさらに多額が日本人の税金でまかなわれてる
国立大学の京都大学法学部卒なのである。それがさらに
国会議員の先生として国民の税金を莫大な歳費として手にしてる。
学歴がなくても地道に真面目に田を耕し米を育てて
腰を曲げて働いて日本社会の一員として尽くしてきた
おじいさんおばあさんがたを
「おめえら無学歴が泥だらけになって汗水垂らして
腰曲げて収めた税金で一流大学と呼ばれる大学を出て
国会議員の先生になってやったぜ」と
バカにしせせら笑ってる人がいたとしたら、
それといったいどこか違ってるだろうか。ちなみに、
「卑下」の対象を自身以外にして使うむきがいまや
大勢いる。そうなると、誤用とはいえなくなる。
こいつらが建前とする"民主主義"と同じである。多数決である。
「新しい」を「あらたしい」と言う者がいなくなったのが
その極端な例である。巷の議論を垣間見ると、
"辞書を引くと"という言葉が溢れてる。
辞書に書いてあれば正しい、という短絡もまた愚かしいのだが、
その例として載ってたのが、国木田独歩が
田山花袋らとともに出した「抒情詩」(1997年)に著した
「独歩吟」なる詩編をまとめたものの序文の一節、
「新文明は物質的偏長の弊に陥り、
世を挙げて唯物主義の浅薄固陋に走り、
宗教は卑下せられ」
なのである。ところがこれは、
漢語名詞+動詞「す」(複合動詞)の未然形「せ」+受身の助動詞「らる」
なのであるが、国木田はこの
動詞「す」をその意味に加えて使役の助動詞「す」の意味も
ごっちゃに混用してるのである。ともあれ、
意味としてはたとえ強要された体であったとしても
主体である「宗教」が「卑下してる」のであって、
客体の「宗教」を誰かが(そんな用法があったとしても)
「卑下してる」のではないことは明白である。
「宗教は卑下させられて」
という意味なのである。いずれにしても、
京大を出ながら日本語のにの字も学習してない者が
権力の中枢にいたというのは国の内外に対して恥ずかしい話である。
国語を知らなければ一事が万事、政策や外交のこと
もな~~、きっと知らないぞ、と思われてしまうのである。

いっぽう、
閲覧者にこのように指摘されてる。
<細野さん、たまにRTの横のスペースを削除してるんで、
相手にリプが飛んでない時がありますよ。>
それに対する細野先生の返答:
<なるほど。気がつきませんでした。ご指摘ありがとうございます。>
なるほど、というのは丁寧親切に指摘してくれたかたには
失礼な物言いである、教えていただいてる者なのだから。

サッカーWCアジア予選の試合結果について。
<残念。オーストリア戦に期待!>
対して、閲覧者から:
<オーストラリアな。オーストリアはアジアじゃないから。>
(サッカーWC予選のこの場合、オーストラリアはアジア枠)
それに対する細野先生の返答:
<確かに。変換、ミスりました。皆さん、ご指摘ありがとうございます。
それにしても、悔しくてすぐには寝られん。>
たとえそうだとしても「変換ミス」は余計ないいわけである。
モーツァルトやベートーヴェンはさぞかし紫外線対策に悩まされたことだろう。ともあれ、
反日や日本に敵意むき出しの国のための政策は推進するくせに、
サッカーにだけは異様に日本を贔屓するエセ愛国者はこの大先生以外にも
非常に多い。普段は、
「国を越えて」「世界じゅうの人たちが手をとりあって」
などと言ってるのに限って、五輪やWCなどになると
蓑を脱いでナショナリストであることを平気でさらすのである。
で、この先生のもっともひどいつぶやきが、前述の売国集団政党に
twitterやブログの自粛を促させる原因となった以下の応答である。

<この三宅氏は本人じゃないですよw。三宅先生はお亡くなりになってますから。>
<三宅さん亡くなったの知らない政治家とかいるんだな>
<無知をさらけだしているな、瓦礫ばらまき議員は。。。>
<馬鹿発見、細野豪志大先生亡くなられた三宅氏にコメントす。>
<細野幹事長様。お疲れですね。もう見ているのも哀れです。
亡き三宅先生を生きていると勘違いして本気で会話しているとは。
その頭の混乱ぶりでは国会議員も務まらないでしょう。
一日も早く病院へ行くことをお勧めします。>
<オレも言いたくはないですが、コレばかりは
他の人と意見は一緒なので言わせてください。
三宅さんが亡くなったのをホントに知らなかったんですか?
世間でも三宅さんが亡くなったのを存じ上げているのに、
そんな調子で次の参議院選挙をやったら、
また敗北を見ることになりますよ。>
これらに対する細野先生の返答。
<大変、失礼致しました。私のコメントは削除致します。>
故人に失礼致しましたなのか、閲覧者に生返事してるのか、
よくわからないツイート。この件は4月20日あたりのことだが、
政治評論家三宅久之は昨年の11月に死亡してる。
三流大卒のそこらへんの中小企業の普通の勤め人レヴェルの男性でも
誰でも知ってることである。また、
自分にとって都合の悪いツイートは消してしまうという、
事故新幹線を土中に埋めてしまうのと同じ思考回路である。
削除してしまった文面はこうだった。
<三宅先生からコメント頂けるとは光栄です。
与党時代、定数削減の協議を幹事長間で何度となく行い、
民主党から妥協案も提示しています。>
さらに、
<ご指摘の通りですね。
ツイッターではなりすましが容易ですので、
対応をより慎重にするように致します。>
なりすましが容易などと容易に軽率な発言である。
これに対しても一般閲覧者から鋭いつっこみをされた。
<あの、そんな調子でネット選挙活動解禁って大丈夫ですか?>
ところが、細野先生は2月下旬にもお粗末な行いを露呈してた
(現在は3月21日以前をざっくり削除してるようだが)。
<細野豪志です。大前先生、大変、ご無沙汰しております。
先日、頂戴した「クオリティ国家」、拝読致しました。
しっかり、考えます。>
これは、
<大前研一 BOT ?@ohmaebot 2月27日
1時間読書をしたならば、3時間考えてみよう。>
への"リプ"だったのである。

<この人なんでbotに挨拶してるの?>
<botにマジレス。必見だよ。>
<いくら機械オンチでもbotに挨拶ツイートしちゃうのはまずいでしょ。>
などなど、世間の反響を呼んだのである。
これに対して細野先生は、
<ツイッターにはbotというものがあるのですね!
知らずに 挨拶してしまいました。
自分がツイートを始めて初の100リツイート越えが、
まさかの間違いツイートとは。
これがツイッターなんですね・・・。「bot」覚えました!>
と宣う。PCに触ったこともなければ、
ガラケーさえいじれないおじいさんおばあさん世代、否、
ももいろクローバーZと物入れクローゼットの違いがまったく判らない
私のようなオヤジ世代とは違うIT世代の1971年生まれで
しかも京大卒でである。

さて、細野先生が、
<私も富士山を目の当たりにして、三島の町を好きになりました♪>
<福島と共に歩む。皆さんとご一緒できるのを楽しみにしてます!>
<大阪で肉を食ってます。
経営者の皆さんの話によると、大阪の景気はまだまだとのこと。>
などと、富士山を見なければ三島は好きにならなかったし、
バスツアーで行くときだけ共に歩み、
貶日民主党が景気をさらに後退させたくせに
大阪の経営者のかたがたの話を聞かなければ
大阪の景気がまだまだだと気づかず、
というステキなツイートを繰り広げてた4月28日に私は、
「語意の空騒ぎ(道理と通り篇)」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/d50fd6cefa58dfa5133b993001a58a05 )
というエントリをアップした。
東京芸術大学音楽学部楽理科に通う
「エッセイスト」と自称する美人ハーフ・タレントの
「通り」と「道理」の混同についてふれたが、最近また、
国民の税金が多く使われてるNHK交響楽団の
"首席"オーボエ奏者でエッセイストを自称する大先生もまた、
<どおりで最近遭遇しないじゃった。>
と、「道理」を「通り」だと誤認してた。また、
「作詞家」を自称し、ネット・エッセイ欄に寄稿し、
演芸誌の巻頭エセーにもエッセイを書いてる大先生も、
<なるほど!通りで空港にSPがたくさん!>
と、これまた物書きで大卒を端々に謳って自分を盛ることには
余念がないが「通り」と「道理」の違いも知らない
教養レヴェルを露呈させるツイートをしてた。とはいえ、
このご婦人はその勘違いぶりや無知ぶりがまた
滑稽すぎてむしろ笑わせてもらえるのでそれはそれでいいのだが……。
それにしても、昨今の"エッセイスト"とは、
羊のクロウン(dolly)みたいに、どれもこれもみな一様に、
「どーりで」に「道理で」という認識が欠如してるのである。
義務教育は大事である。
口にする高低アクセントも「ド↑-→リ↓デ」でなく
「ド↓-→リ→デ」なんて言っててまったく気にも留めないから、
"どおりで""通りで"とやらかす。
日本人の美徳のひとつは
「分相応」「身の丈を知る」「身のほどをわきまえる」「分際をまもる」
というものだったが、自分を盛ることには余念はないが、
基礎勉強をおろそかにしてて平気な日本の左翼政治家や、
オウム真理教のブレインで昨今も日本を貶める「緑の党」の思想的支柱である
中沢新一に傾倒する文化人が跳梁する世の中なのである。
義務教育の小学校の国語で学習してるはずの
基本的な読み書きもできないのに、
「政治家」「エッセイスト」などというのだから日本は懐が深い国である。だがまあ、
少なくともこの先生がたに道理は通らないのだろう。あ、
そうか。中国船が魚釣島周辺の日本領海内で跋扈してるのも
何とも思わない先生がただから、何を言っても馬耳右風なのか。
とはいっても、
"私はこのかたがたを卑下している"わけではない。
ただ老婆心で、ストリートに、否、ストレートにご忠告申しあげてるだけである。
むしろ、微笑ましく思い、応援してるのである。
(ガンバレっ!)
誤解なきよう。
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「出雲大社本殿遷座祭にあたって/AdamとAdumaとIdumo」

2013年05月10日 18時28分25秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
六本木ヒルズができて今年で10年だったが、
以前には、六本木通りを挟んで
日産ビルと西武セゾンが経営してたCDショップWAVE
(現在はそれぞれ六本木ヒルズ・ノースタワー、メトロハット)の向かいに、
六本木アートセンターがあった。引っ越し屋ではない。
スチル写真のスタジオである。現在はファミマになってる
(かつてはマクドナルド)ビルと小道を挟んで隣にあった。
その小道を三つ星の龍吟方面に少し入った左手に、
出雲大社東京分祠がある。ビルの中に神社なのである。
エキゾチック、ジャパン! である。
今日19時からの本殿遷座祭で
杵築大社の60年ぶりの遷宮が完了する。
明治政府が出雲大社と改名して(明治4年)から
3度めの遷宮(明治14年、昭和28年)である。

近年、
古代日本について、ユダヤのいわゆる
「失われた10支族」が幾度にもわたって渡来してきた、
という説が多く書かれるようになった。そして、
ヘブライ語と大和言葉に多くの共通する語がある、
という例示もされてる。
新潟に弥彦神社という大きな神社があるが、
ヘブライ語で「ヤーヒコ」は「神が居る場所=神殿」という意味らしい。
このブログのアルキーフである
「八雲と漱石、そして、地震と津波」
(http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/62dd01e0ad8df90fc20d7723671ace92)
でもすこし触れたように、
出雲大社のあたりは江角(エズミ、または、エスミ)という名字が多い。
edzumi(えずみ)とizdumo(いずも)は、
(i←→e,i←→o:母音交替)で同じ語、つまり、
「出雲=江角」なのである。この語はまた、
dz←→dという近似子音交替で容易く
idzumo←→adamaと辿ることができる。これは、現在のヘブライ語でも
adom(アドム)=赤い、adama(アダマ)=土、
という語が存在するが、
創造主(ヤハウェ。エホヴァ)によって
土から創られた赤い色の血が流れる始め人間ギャートルズならぬ
アダムを意味する。もし、
日本人の祖先の一部がユダヤの失われた10支族の一部だとしたら、
彼らは「新天地」を求めて「東」に向かってきたことになる。
「東」は大和言葉ではヒガシの他に、
「アヅマ(adzuma)」とも言うのである。

日本の大きな神社の多くがそうであるように、
出雲大社も「亀甲」のひとつを紋にしてる。
子持ち罫のような二重亀甲カコミの剣花角である。
SM緊縛プレイが趣味であるのを隠して
ハニカムというわけではない。
亀甲は頑丈な六角形であり、ユダヤの
六芒星あるいはダヴィデの星と相通じる。それから、
出雲神社の古代の本殿はその高さが
16丈(約48m)という巨大建造物だったといわれてる。
ヘブライ語で「idzumo」とは、
「最先端(最高点)」を意味するという。もっとも、
注連縄と女子中学生の三つ編みの違いも区別できない
拙脳なる私はヘブライ語も解らない、ヘ無頼なプー太郎である。ともあれ、
中共やそのぶらさがり朝韓などに、恩を仇で返され
迫害されることでも、日本はユダヤと共通するのかもしれない。
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「語意の空騒ぎ(道理と通り篇)」

2013年04月28日 23時46分08秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
今日はなんだかずいぶんと"清々した"日である。
なにかイヤなものがひとつ国内から消え失せたとか、
遠ざかったとか、そんな晴ればれしい気分の日だった。
来る5月4日に生誕100年となる故森繁久弥作の
「知床旅情」を自宅カラオケで唸ってしまった。
先日は森ビル六本木ヒルズが10年を迎えたが、
ハナエモリビルの跡地に建てられたoak omotesandoも
オウプンした。私が中学の頃は、
六本木も表参道も平日の昼間は
人がほとんど歩いてない街だった。まぁ、
40年も前の話だから、変わって当然だが。

中学生のときに"文庫を読みあさった"私ではあるが、
反日の共産主義者が経営してる岩波書店が嫌いなので、
「岩波文庫」はその限りではなかった。が、
理由はそれだけではない。同文庫は
旧字体・歴史的仮名遣いだったのである。
専門書でもない、大衆向けのものなのに。
旧字体・旧仮名遣い自体が嫌いとかいけないとか
言ってるのではない。
新字体・現代仮名遣いで育った私にとっては
読みづらいこときわまりないものだった。
いわゆる「現代仮名遣い」は間違ってる、
ということを主張するむきがあった。が、
このことは正誤を論じても不毛なのである。
右側通行から左側通行に変更されたのにもかかわらず
かたくなに左ハンドルだから右側通行で走らせるのが正しいなどと
言ってるのと同じことなのである。

現代人が
「ボクは交響曲を作りたい」
というのは、
「ボクは万葉集の歌を詠みたい」
というのと同じで、たとえそれが
どれほど万葉集のマの字も解らない大衆を感動させたとしても、
万葉集の秀歌を集めて溶かしたものをまた
万葉集ふうの鋳型に流し込んで固めた
二番煎じにすぎないのである。すでに
特許申請がなされてるものと同じものを
"発明した"と叫ぶようなものである。そんなものに
価値などあろうはずもない。
クラ音の旋律・和声はすでに出尽くされてる。
おおむねブルックナー・チャイコフスキーで終わりなのである。
教会旋法を持ち出した時点で完璧に限界を迎えた。だから、
20世紀以後いっさいの"音楽創作物"なるものも、
二番煎じ・亜流・剽窃でしかないのである。そんなことは、
クラ音に関わり始めるガキのときに解るものである。
現代人が"クラスィカル・ミューズィク(調性音楽)"を作曲、
なんていうのはナンセンスなのである。そんなものは、
エセなのである。

"エッセイスト"なる肩書きの某国立大在学生がいる。
この人物の文章はおそろしく貧困である。
語法のひどさは手の施しようがない。
その一例である。
twitterでのツイートにこのようなものがあった。
<大学の帰り。
食堂のおじさんと一緒になった。
休日でも大学が空いてたのは、 大学院のしけんがあったからとのこと。
通りで人がいると思った。>
1文めは、体言止めの技法を駆使されてる。
筆者の大学からの帰り道のことだろうか。
2文めは、大学の食堂の職員男性と帰り道が一緒だったということだろうか。
3文めは、決定的に真っ当な物書きの文章とは対極である。
大学が空いていたのは、というのは、
大学の食堂が開いていた、という意味だろうか。
開を空としてしまったのは単純な文字変換上の不注意であろう。
緻密でない性格そのものは物書き不適正というわけではない。
それにしても、大学院の試験の日に食堂を開けるとは、
国民の税金で多大に助成されてる国立大はずいぶんと
余裕ある経営をしてるものである。そして、
授業がない曜日に筆者が大学にでかけたということは、
学生のために大学が日曜でも何らかのサーヴィスを行ってるということである。
物書きの教養およびセンスの両面からも致命的なのは最後の文である。
"通りで"……これはおそらく"道理で"のことだろう。
前の"開"を"空"としたミスは単なる不注意のミスだが、こちらは
根本的に違う。

"道理"を"どおり"と普段から間違って表記してるからに他ならない。
小学校低学年で教わる、現代日本語のごく初歩的な
「決まりごと」である。同人は
日米のハーフで幼少期はNYで暮らしてたという。が、
親の離婚で日本人である母親らと日本に来たのが6歳のときらしい。
とすれば、日本の小学校で学習してるはずである。
アメリカン・スクールだったらその限りではないかもしれないが。
こんな程度の人物のエッセイをありがたがる読者に対して無礼である。
無教養をウリにした物書き、と謳えばまだ赦されるかもしれないが。
一般人や外見的にdollyといえる女子なんかが
「女王(ジョオウ)」を"ジョウオウ"、「仕様(シヨウ)がない」を"ショウがない"
と書いたりするのならそれはいたしかたないことである。が、
ひとさまから銭を取るプロの物書きにはあってはならないことなのである。
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