チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「八雲と漱石、そして、地震と津波」

2011年12月16日 01時03分59秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
女優の江角マキコ女史は来る12月18日が誕生日だそうである。
旧大社町出身で、高校生のときには出雲大社で
巫女のバイトをしたことがあるらしい。ともあれ、
出雲大社のあたりは江角(エズミ、または、エスミ)という名字が多い。
中には旧大社町の大地主もいる。
edzumi(えずみ)とizdumo(いずも)は、
(i←→e,i←→o:母音交替)で同じ語、つまり、
「出雲=江角」なのである。いっぽう、
去る12月9日は夏目漱石の命日だった。大正5年(1916年)だから、
今年で没後95年ということになる。また、
12月9日は嘉納治五郎先生の誕生日でもある。もっとも、
嘉納先生は万延元年10月28日生まれであって、あくまでも、
その日を西暦に換算すれば1860年12月9日だった、
というだけの話である。ちなみに、
いわゆるクラシック音楽を生業にしてる者には
この旧暦やロシア暦についてまったく無知な輩が多い。
教養がないのに音楽で食ってけるとはまた突拍子もない
果報者なことであり、嫌みなく心底から尊敬する。

この出雲と宍道湖を挟んだところに松江がある。
54年の生涯だった小泉八雲が日本に来たのは、
40歳のときだった。そして、
松江、熊本、神戸、東京という15年弱の日本での生活のうち、
松江はもっとも短い1年3月足らずだった。しかも、
松江を愛したもののその寒さに耐え切れず、
熊本の旧制第五高等学校の校長に就任したばかりの、
ハーンより10歳年下で、のちに、帰日途上、横浜寄港2日前に
氷川丸船上で亡くなる嘉納治五郎先生に声を掛けられ、
熊本にそそくさと移ってしまったほどである。
熊本にいたのも2年ばかりだった。が、嘉納先生のもと、
柔術を習ったりしてとても充実した日々だったようである。
ハーンが去って2年後に旧制第五高等学校の英語教師として
やってきたのが夏目漱石だった。漱石は帝大生時代に
現在の早稲田大学の講師をしてたほどの秀才だった。また、
帝大卒業後に高等師範学校の講師となったが、
そこで校長だったのが嘉納先生だった。

神戸時代を経て、ハーンは東京帝大の英文学講師となった。が、
政府はその間、漱石を英国留学させて、ハーンの任期切れを待って
その後任に据えようとした。が、
ハーンは任期で退官させたということにしたが、学生には
ハーンは人気があり、その留任運動まで起こった。さらには、
後任の漱石は叱責した生徒が自殺したりしてすっかり
自信を失って落ち込んでしまったのである。それを心配した
高浜虚子に勧められて"気分転換"に書いたのが、
「吾輩は猫である」だったのである。
「我が背乗りはテコである。名前はまだない」ではない。いっぽう、
八雲は翌年破格の待遇で早稲田大学の講師に迎えられた。が、
半年で虚血性心疾患のために亡くなってしまう。遡って、
米国での記者時代にハーンが取材先のニュー・オーリーンズの
万国工業兼綿百年期博覧会で知り合ったのが、
官僚でのちに政治家となる服部一三だった。
松江での教職の口をきいてあげた人物であり、
日本の地震学会初代会長でもあった。服部は
岩手県知事在職中に明治三陸地震を体験した。また、
この明治三陸地震の報道がきっかけで、
ハーンはいわゆる「稲むらの火」のもとになる
「生神様」を著した。ちなみに、
「吾輩は猫である」の水島寒月は、熊本の第五高等学校時代の
漱石の生徒でのちに弟子となる物理学者の、
"天災は忘れた頃にやってくる"で知られる
寺田寅彦だとされてる。いずれにせよ、ははーん、
嘉納先生を軸足として、八雲と漱石には妙な因縁があったのである。
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