●ミクシィの方で、あなたの経験したアルバイトは?の話題に答えていて、我ながらたくさんのアルバイトを経験したな~と感心しなおした。
■いい機会だから、思い出せるだけでも、一言コメントを書いてMEMOしておこう。
ミクシーのマイミクの日記にあげるには長すぎるので。
(だんだん思い出したので追加してます)
小学生時代
牛への餌やり:家は極貧で家畜商。毎日夕方、牛への餌やりは家族全員の仕事。買い物、草刈り、は当然。山羊の乳を毎日もらいに行ったな~⇒違う話になってきた。
市民会館の売店の売り子:親戚が権利を持っていたから、売店にはあまりいないでコンサートを見ていた。
いろいろなアーティストを目の当たりに見れた。これは大きかったが、荒木一郎&マックスが強烈に印象に残っている。
野球場でアイスキャンディー売り。甲子園の予選の時には馬鹿みたいに売れて儲かった(らしい)? 子供は飽きて野球を見ていた。
大事な仕事を忘れていた:内職:我が家では毎晩夕食が終わると内職をはじめる。袋貼り、造花作り、電気部品の組み立て・バリ取り、家族全員でおしゃべりをしながら、毎晩つくりました。本当に貧しいながらも楽しい我が家、を絵に描いたような思い出です。
中学時代
土曜日の午後、日曜日は建築労働(いわゆる土方):親戚が建築業だったから1日1500円もらえた記憶がある。
田植え、稲刈りのバイト:1000円もらった。
高校時代(バイトも本格的)
新聞配達:とにかく冬は寒かった。52軒配って、1月ほぼ1万円
ほとんど毎日玄関で待っていてくれたおじいさんが「若い時の苦労は買ってでもしなさいよ」といってくれたのですが、当時はうるせ~ジジイだな、くらいにしか思わなかったし、苦労なんかもう嫌だ!と泣いたものです。
でも、今になって苦労して良かったな~とつくづく思います。
土方:日曜日と夏休み、冬休みは必ず土方でした。1日2000円位で良かった。
額縁製造、1軒ずつ工業団地を回ってとってきた仕事
ビリーヤード、パチンコ屋、ボーリング場、サウナ、アーチェリー、などの店員
大学時代
昭和52年の大卒の初任給が6万円程度の頃月に20万円前後稼いでいた。
で、生活費、授業料(国立大学は年間3万6千円!!)、飲み代、車代、全部自分でまかなって、しかも時々家に送金していた!
自分で稼いで払った授業料だからもったいなくて授業はほとんど皆勤。友達の代返をしていた。
相変わらず肉体労働系が基本で、一番面白かったのは1m掘れば千円、ってのがあって無茶苦茶掘りましたね。
請けによる歩合と、固定賃金性の違いを知った。
宣伝カー:眼鏡屋、スーパー開店、軽井沢ベルコモンズ、:この時から運転がうまくなった。
通信教育の添削:Z会みたいな奴。1通添削して500円だった。毎日2000円くらいになったから助かった。いつも飲み屋で添削して、その分が飲み代だった。
住宅地図:1軒1軒回って、古い住宅地図を更新する作業。ゼンリンの仕事だったけど、疲れたし割りは悪かった。
バックホーの耐久試験:試作のバックホーの耐久試験。2人で組んで、1人1時間ずつ、土を掘っては埋める作業。1時間縦に掘ったら、右横に掘る、左横に掘る、など厳しく決まっていた。かなり乱暴に扱って欲しいとのことで、ガツンガツン掘ってましたね。生産性はまったくなかったけど、これも面白かった。
アンケート:これも良かった。実は真剣に全部は回らなかった。
選挙アンケート:結構文句を言う人もいた。
朝日新聞は異常に厳しかった。全然割りが合わなかった。
選挙応援:宣伝カー、動因:自民党は金が良かった。
しかし大体共産党か社会党だったから、割りが悪かった。
スナック店員、喫茶店店員:こう言う職種は苦手だった。営業、販売はあわないと思った。
焼肉屋の店員:松本の韓国焼肉屋の店員。最初はオーダーを聞いて出すだけ。そのうちにご飯をといだり、ピビンバを作ったりした。マカナイが美味しかったし、うれしかった。でも、あわないと思ったね。
サンプルに説明文:それなりの言葉があると思うのだけれどなんと言うのかな。要は永●園のお吸い物みたいな商品を開発した味噌屋さんの無料サンプルに説明文をホチキスでとめる仕事。一日中ホチキスを打っていたから、3日で腱鞘炎になってしまった。でも、単純労働は無心になれるし、自分にあっていた。
シイタケの菌打ち:椎茸の原木に菌を打つ仕事。原木がトラックに数十台分あって、毎日ドリルでアナをあけて、菌を詰めて、蝋で封をしたのですが、3週間かかりましたね。これも単純で面白かった。
またまた思い出した(追加):家具卸し:ルートで家具屋を回って、絨毯やタンスを卸してました。2トントラックの運転がうまくなったのはこの時。この時買った絨毯TF-600まだ使ってます。32年使っている!
中古自動車販売:学生相手に中古車を売っていた、1台売ると1万円もらえた。学生が自動車を持ち始める時代だったから、結構売れた。
お茶の販売:学校や役場にズカズカ入りこんで、職員に高いお茶を売った。これもやばかった。
家庭教師:学生の王道を忘れていた。週に1回2時間で1万5千円だったと思う。でも子供の成績はちっとも上がらなくて、この体験から教師をあきらめる。
シリカゲルによる籾の乾燥試験。学校の実験とまったく関係なかったのですが、企業での実験とはこういう風にやるんだと学んだ。
引越し:車の免許を18歳で取っていたので、松本から上田に引っ越す時に、レンタルトラックを借りて運び屋。これはリスクが高かった~。まあ儲かったな。
まだ思い出しました!(追加):運転代行:夜の代行運転ではなくて、自動販売機のルートメンテナンスをしている人が飲酒運転で3ヶ月の免停になったので、私が運転をして、当人は自動販売機のお金を集めて、缶を補充するのです。8時から3時半頃までで3000円だった。当人が1500円、会社が1500円を負担していて、友達とローテーション組んで3ヶ月間やりましたが、これも割が良かったな~。
8/23またまた追加:銀行の泊り込み夜警:年末年始に泊り込んだのです。
12月29日の仕事納めの日から泊り込んだのですが、何故か外から鍵をかけられて、一切外出できなくなってしまったのです。
で、6日の朝までの食料を持ち込んで入ったのですが、やることが無いので、2日には底をついてしまって、友達に頼んでおせち料理を、窓越しに差し入れてもらったのです。
これも情けなかったな~。
小学生の帰宅時に教材のチラシ配り:景品で釣って、住所や情報を聞き出して、プロの販売員が乗り込んで高額な教材を売り込む奴。これはやばかったな~。
トマト工場:これが収入的には一番大きかった。1ケ月に25万円を越したので、19歳で初めて所得税を払った。昭和49年ですよ。
当時大卒の初任給が6万円程度でした。破格に給料が良かった。夜勤の12時間勤務だけど、仕事は楽だった。当時の製造業の管理はは劣悪でトマトジュース製造の裏側を知った。
バイトが事故で指を切断し、アルバイト同盟を結成し団交をした。これが後の学生活動へつながる。 だんだんやばい職種の話し。
葬儀屋:お葬式の段取りにお手伝い。言われたことをただ淡々とやるだけの誰でもできる仕事。ほとんどは夜の担当当番の麻雀の相手。
何日も仕事が無いと「暇だな~、そろそろ誰か死なねかな~」などと不謹慎なことを言っていましたね。
パチプロ:高校生の時からパチンコ台の釘を調整していたから、釘を見るのは簡単。しかも他の台の出玉も詳細に記録してデータ-化していたから、楽勝に毎日儲かった。でも4年生の時に出ないし、時間が無いから荒っぽい方法を使ったんだけどばれて裏で袋叩きになりましたね。
ストリップ劇場:これがなんとも凄かった。バイト料は夜7時から12時までの5時間で3800円位でかなり良かった。しかも夜食付き!当時めしがつくかどうかでうれしさがまったく違った。何しろ本当に金が無い時には残飯をあさっていたのだから。
踊り子さんの給料は1日3ステージで1万5千円。ナマイタする人は2万+α。
こんなこと書いていいんだろうか?たまにはまぁ、いいか。いつもこのブログは硬いと言われているから・・・。
踊り子さんは基本的にやさしくて、いい人ばかりだった。問題はヒモさん。これは無茶苦茶怖かった。
ストリップの合間のコント。これがつまらない。どうせ場末の劇場に来るのだから、皆いわゆる都落ち(?)、です。むかし、マグマ大帝の着ぐるみに入ってましたとか、何とか?忘れた。いっぱいいましたがとにかくつまらない。
中には当時「同棲時代」がはやった頃ですから、旦那は売れない小説家、でそれを支える薄幸な踊り子みたいな世界にひたっているカップルもいましたね。
◆思い出すのは、これくらいかな。とにかく大体の職種は経験したつもりだし、非常に人生に役に立った。 だから、就職する気なんて全然無かった。
当時の中村雅俊の「俺達の旅」を真似して自分達で「何でもする会社」を作ろうと考えたけど、仲間が集まらなかったので断念。
会社に入ったら、いきなり初任給7万円と激減!!でも時間ができたので、別の面で時間を有効に使いましたね。思えば、23才位が一番のんびりしていた。
★ところが、入社1年目で会社が倒産して、仕方が無いから、20代そこそこの若造が金を出しあって、今の会社を設立したのです。
最初はベンチャーの雄!と言われて、マスコミにもとり上げられたのですが、その後は単なる田舎の零細企業になってしまいました。
でも今でも、会社が倒産しても、首になっても全然怖くないし、かえって面白いと思っている。自分にはタフさと、バイタリィティー、ハングリー精神があるから。
だらだらと思い出を書いてしまった。たまにはいいね。