1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

8月11日・孫正義の死生

2021-08-11 | ビジネス
8月11日は、アップルの共同創業者スティーブン・ウォズニアック(1950年)が生まれた日だが、ソフトバンクの創業者、孫正義の誕生日でもある。

孫正義は、1957年、佐賀の鳥栖に生まれた。父親は在日韓国人の廃品回収業者だったが、
正義が生まれた後、パチンコ店経営に乗りだし、パチンコチェーンを作り上げて成功した。正義は男ばかりの4人兄弟の次男だった。
貧しく、被差別的な環境のなかで、正義はよく勉強し、福岡の学校に通った。そのころ司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』を読み感銘を受けた。坂本龍馬の土佐藩脱藩にならい、米国行きを決意した。米国へ行くのに先立ち、東京の日本マクドナルドの藤田田社長に会いに行った。何度も門前払いをくった後、ようやく会えた藤田社長に、高校生の孫は、米国でなにをするべきかアドバイスを求めた。藤田はこういう意味のことを答えたという。
「日本人はまだ気づいていないが、コンピュータによってこれから世の中は大きく変わる。米国ではコンピュータを見てくるべきだ」
17歳のとき、高校を中退して渡米。米国の高校、大学を卒業した。大学在学中に、自動翻訳機のアイディアを、日本企業シャープに売り込み、代価1億円を得て、それを元手に米国で会社を興し、日本からインベーダーゲーム機を輸入し販売した。
大学卒業後、帰国。日本でも起業し、パソコン用ゲームソフトの販売、インターネット回線ADSL事業、プロ野球球団経営、携帯電話事業などと事業を展開、拡大させた。彼の企業ソフトバンクは国際的巨大企業となり、彼は世界有数の富豪となった。

孫正義はお手本とするべき大人物である。金銭的な成功者だからではない。苛酷な環境にくじけず、まっすぐに自分の大志に向かって邁進した。一部の日本人は、在日の人々を含む、日本人以外の有色人種を意味もなく蔑視するけれど、そうした差別や意地悪に対し、孫は資質を屈折することなく、自分を伸ばしてきた。小人や俗物の発する雑音に惑わされず、困難を乗り越え、わが道をゆく。これは、まさに英雄の生きざまである。

孫は『竜馬がゆく』を読んでいるところもえらい。すくなくとも二度以上通読している。彼が『竜馬がゆく』を再読したのは、26歳のころ、肝炎のために入院していたときだった。ソフトバンクの社長を一時ほかの者に譲り、入院して医師に「死ぬかもしれない」と言われた。それで若いときに読んだこの小説を読み返した。彼は言っている。
「二回目に読むと、いろいろと違うことが見えてきた。人間は必ず死ぬ。死ぬんだけどその瞬間に、ああオレは精一杯生きた、と思いながら死ねるような、おもしろおかしい生き方をしたいと思うようになりました」(山田俊浩『稀代の勝負師 孫正義の将来』東洋経済新報社)
(2021年8月11日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp


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8月10日・フーヴァーの清貧

2021-08-10 | 歴史と人生
8月10日は、大久保利通が生まれた日(文政13年、1830年)だが、米国の第31代大統領、ハーバート・フーヴァーの誕生日でもある。

ハーバート・クラーク・フーヴァーは、1874年、米国アイオワ州のウェストブランチで生まれた。父親はドイツ・スイス系の農夫で、両親ともにクエーカー教徒だった。
ハーバートは、6歳のとき父親が、9歳のときに母親が亡くなり、孤児となった。クエーカー教徒仲間が保護者として指名され、彼は親戚を転々としながら成長した。
スタンフォード大学に入学したフーヴァーは、地質学を専攻し、全米各地の測量のアルバイトをしながら大学に通った。大学卒業後は、金鉱採掘会社に入り、鉱山技術者となった。彼はオーストラリアの金鉱に勤務した後、中国へ転勤。天津の鉱山事務所時代に義和団の乱を体験し、火の海となった天津から生還した。
第一次大戦中、フーヴァーは連合国軍の食糧管理委員会の委員長となり、大戦後は、敗戦国のドイツや、革命後に飢饉に見舞われたロシアへの食糧支援を指揮した。共産主義国ロシアへの支援には批判もあったが、彼は人道主義を優先させ、主張をまげなかった。
フーヴァーは54歳の年に共和党の大統領候補となり、
「すべての鍋にチキンを」
と国民によりよい経済的生活を約束して、圧倒的な勝利をおさめた。しかし、大統領就任直後に「暗黒の木曜日」。ニューヨーク市場の株価が大暴落し、それを引き金に世界大恐慌となった。大恐慌に対し、フーヴァー政権は、保護主義の経済政策をもって応じた。2万品目以上の輸入品に平均40パーセントという高い関税を課して国内産業を守り、国内では賠償金の返済先のばし「フーヴァー・モラトリアム」を打ち出し、フーヴァー・ダム建設など公共事業投資による経済振興策に乗りだしたが、不況は改善されなかった。
米国の保護主義政策以後、世界各国が高い関税を輸入品にかける報復合戦が起き、世界貿易は細り、国際経済の血流は止まった。不況は深刻になった。
フーヴァーは2期目の大統領選では、民主党のフランクリン・ルーズヴェルトに敗北した。第二次世界大戦後は、敗戦後の飢餓状況にあった日本やドイツへの食糧供給の促進に努め、1964年10月、ニューヨークで没し、国葬がとりおこなわれた。90歳だった。

大恐慌時代の、フーヴァーは運の悪い大統領だった。彼の保護主義政策が、列強を保護主義に走らせ、結果として植民地や資源を持たない日本やドイツを暴発させ、第二次大戦の遠因となったともいえる。これは、フーヴァーがクエーカー教徒だったこともすくなからず関係しているのではないか。クエーカーの人たちは、清貧を旨とする人々で、物資の乏しい環境下でも、それにめげず耐えていける人々だからである。

彼の後を引き継いだルーズヴェルト大統領のニュー・ディール(新規巻き返し)政策も不況は克服できず、結局、大戦争に突入し、戦時国債を山のように刷り、殺戮、破壊、援助の果てにようやく恐慌は終わった。世界中のみんなが清貧を旨とし、貧者に分け与えるなら、不況など問題にならないのだけれど、世界のほとんどは非クエーカーだから、富裕層と民族主義者などが誰のせいだと叫びだして収拾がつかなくなり、対立、衝突、開戦布告、結局戦争で不況は終わるのである。

フーヴァーは言っている。
「年をとった連中が戦争を宣言する。でも、若い人たちが戦い、死ななくてはならない。(Older men declare war. But it is the youth that must fight and die.)」
(2021年8月10日)



●おすすめの電子書籍!

『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?


●電子書籍は明鏡舎。
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8月9日・トーベ・ヤンソンの創造

2021-08-09 | 文学
8月9日は、米軍の爆撃機ボックスカーが長崎に原子爆弾を投下し、7万人以上の人々が殺戮された日(1945年)だが、女流作家トーベ・ヤンソンの誕生日でもある。「ムーミン・シリーズ」を書いた人である。

トーベ・マリカ・ヤンソンは、1914年、フィンランドの首都ヘルシンキで生まれた。父親は彫刻家で、母親は画家だった。トーベは3人きょうだいの一番上の長女で、下に弟が二人いた。
ふだんスウェーデン語を話す父母のもとで育ったトーベは、両親のアトリエで芸術作品が生まれていくのを日々見ながら育つうち、自分も画家を目指すようになった。
15歳でスウェーデンの首都ストックホルムへ留学し、フランスやイタリアでも画家修行をした。
第二次世界大戦が終わった1945年、31歳のころには、雑誌に挿絵も描く名の知れた新進画家になっていたが、その年にムーミン・シリーズの第一作『小さなトロールと大きな洪水』を発表。以後、ムーミン・シリーズの児童文学と、大人向けの小説を書きながら、絵画や壁画も制作しつづけた。「ムーミンの産みの母親」というピュアなイメージとちがって、若いころからヘビースモーカーでアルコール好きだったという。
2001年6月、ヘルシンキで没した。86歳だった。

ずっと昔、観ていた「ムーミン」のシリーズは、もう再放送されないらしい。
1990年ごろに新しいテレビアニメ「楽しいムーミン一家」シリーズが放映され、これを機に、昔の「ムーミン」はお蔵入りとなり、「楽しいムーミン一家」が、本国の著作権管理者が認める公式認定の「ムーミン・シリーズ」になったそうだ。

「ムーミン」というのは、本来は種族の名前で、ムーミンパパとムーミンママのあいだに生まれた男の子は、原作では名を「ムーミントロール」という。原作者のヤンソンによれば、彼らは妖精ではなくて、スウェーデン語で「バーレルセル(存在してはいるのだけれど、どう呼んでいいからわからないもの)」。ムーミンたちの大きさは、電話帳くらいのつもりだそうだ。「トロール」は映画「アナと雪の女王」にも登場していた。

作者トーベ・ヤンソンは、50歳のころ、フィンランド湾の沖合に浮かぶ小さな岩礁の島に渡り、ひとり暮らしをした。一周しても数分しかかからない、電気も水道もないこの島で、太陽の光と、貯めた雨水を頼りに寝起きし、大人向けの小説を書いた。
そうしたスナフキンのような環境で書かれた短編小説をいくつか読んだ。ムーミン・シリーズのゆったりとのどかな雰囲気とは対照的に、短く切り詰めた緊張感に満ちた作品だった。
画家、児童文学作家としての成功に安住せず、さらに大人向けの純文学に挑んだのは、おそらく、彼女のなかの創造性の本能が、彼女をけしかけたのだろう。生まれつきのクリエイターであり、最後までクリエイトする貪欲さを失わなかった、創造の精神につき動かされて走りつづけた生涯だった。彼女の誕生日から、8月9日は「ムーミンの日」とされる。
(2021年8月9日)



●おすすめの電子書籍!

『心をいやす50の方法』(天野たかし)
見て楽しめるヒーリング本。自分でかんたんにできる心のいやし方を一挙50本公開。パッと見てわかる楽しいイラスト入りで具体的に紹介していきます。「足湯をする」「善いことをする」「あの世について考える」「五秒スクワット」「雲をながめる」などなど、すぐに実行できる方法が満載。ストレス、疲労、孤独、無力感、やる気が出ないイライラなどの諸症状によく効きます。


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8月8日・新渡戸稲造の地球

2021-08-08 | 歴史と人生
8月8日は、アニメ映画「攻殻機動隊」の押井守が生まれた日(1951年)だが、教育者、新渡戸稲造(にとべいなぞう)の誕生日でもある。以前、五千円札の肖像だった人である。

新渡戸稲造は、文久2年(1862年)に、岩手の盛岡(当時の盛岡藩)で生まれた。幼名を、稲之助といい、父親は藩の勘定方の役人で、その三男だった。
稲造が生まれたのは、桜田門外の変があった動乱の年で、明治維新があったのは、彼が6歳のときである。
9歳のとき兄に連れられて上京し、東京にいた洋服屋の叔父の家の養子となり、そこから学校へ通った。外国語学校で英語を学んだ後、15歳の年に札幌農学校(現在の北海道大学)に進んだ。クラーク博士が「少年よ、大志を抱け」と言って農学校を去ったのとちょうど入れ違いに入学した恰好だった。
農学校を卒業後、東京大学に在籍したり、役所の手伝いをしたり、学校の教師をしたりした後、22歳の年に私費で米国へ留学。米東部メリーランド州の大学で農政、農業経済学を学んだ。また、この米国滞在中にクエーカー教(フレンズ)の会員となった。
29歳のとき、米国女性と結婚し、帰国して札幌農学校の教授となった。以後、学校を設立し、高校の校長になり、大学の学長につきと、教育分野を中心に活躍した。
38歳のとき、英語で書いた『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)を出版。この本はたちまち評判を呼び、仏語、独語などに翻訳され、世界中で読まれた。日本語版が出たのは、その8年後だった。
58歳のとき、国際連盟の事務次長に就任。国際社会の協調に尽力するとともに、しだいに軍国主義の色合いが強まる日本と、日本を非難する諸外国とのはざまで、国際協調のため奔走した。
1933年、新渡戸はカナダで開かれた国際会議に日本代表団の団長として出席し、会議を終えた後に倒れた。そして、同年10月、西海岸のビクトリア市で没した。71歳だった。

友人にはクエーカー教徒がすくなくない。平等主義、平和主義、博愛主義で、質素を尊び、自分の良心が照らす道を信じて行動する人々で、彼らをとても尊敬している。

新渡戸は51歳のとき、道友会という会の講演でこう言っている。
「例えば自分に背かぬという精神、正しいと思えばその通りをやるという真面目に於て、日本人の到底及ばぬものが、米人にある。(中略)
 また話をするにしても、西洋人に向ては精神上の話が出来るが、日本人には出来ぬ。情けない事だが、道友会なればこそ、これだけの話も出来るのである。
 時々、胸襟(きょうきん)を開いて話をしては馬鹿を見る、度々「お前もか」というような目に遇(あい)て、失望することが多い。要するに吾々日本人は、人格なるものを認知し得ないのではなかろうか。
 階級で人を度(はか)ったり、衣服で人を度ったり、ないしは成功で人を度ったり、官吏ならば、勅任だの、奏任だのと、官等で人を度ったり、あるいはまた学問や技芸で人を度ったりして、人格で人を度らぬ、附属で人を度って人格で人を度らぬ。全く今の日本には男一匹の交際が少ない。」(「人格を認知せざる国民」)
新渡戸は国際人だった。地球人だった。
(2021年8月8日)



●おすすめの電子書籍!

『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。


●電子書籍は明鏡舎。
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8月7日・アベベ・ビキラの瞑想

2021-08-07 | スポーツ
8月7日は、作家の司馬遼太郎(1923年)が生まれた日だが、エチオピアのマラソン選手、アベベ・ビキラの誕生日でもある。

アベベ・ビキラは、1932年、長い歴史のある国、エチオピアのオロミア州、ジョル村で生まれた。家は貧しい農家で、父親は羊飼いだった。ほとんど学校に通わず、家の手伝いをしていたアベベは、家計を助けるため、エチオピア王室の護衛に志願した。彼の家から、王室のある首都アディスアベバまでは20キロメートル以上あったが、アベベはその道を歩いていったという。
19歳のとき、皇帝の親衛隊に入隊したアベベは、エチオピアが参加していた国連軍の兵士として、極東に派遣され、一時期、朝鮮戦争下の釜山に駐留した。
王族のボディーガードをしていたアベベは、足が速いのを見込まれ、国の陸上の強化選手となり、当時、エチオピア政府に招かれていたスウェーデン人コーチの訓練を受け、マラソン競技の国の代表選手になった。
1960年、28歳のとき、ローマ・オリンピックの男子マラソンに出場。当初は靴をはいて走る予定だったところ、靴がだめになり、本番のレースをアベベは裸足で走った。
当時無名だったアベベが、先頭をきってゴールのコンスタンティヌス凱旋門に入ってくると、世界中のスポーツ・ファンが驚き、エチオピア国民は狂喜した。エチオピアは第二次世界大戦時、ムッソリーニのイタリアに侵略、占領されていた過去があり、そのイタリアの地でエチオピア人が、イタリア人たちの鼻をあかした恰好だった。
レース後、アベベは、なぜ裸足で走ったかと聞かれ、こうコメントした。
「わたしは世界中に知ってほしいのです、わが母国エチオピアは、いつも決断と英雄的なおこないによって勝利してきたことを」(I wanted the whole world to know that my country, Ethiopia, has always won with determination and heroism.)
4年後の32歳のとき、アベベは東京オリンピック出場のため来日。今回は、シューズメーカーのすすめもあって靴をはいて走り、みごと優勝。史上初のオリンピック・マラソン二連覇をなし遂げた。瞑想するかのような淡々と走る姿から「走る哲人」と呼ばれた
アベベは、36歳のとき、メキシコ・オリンピックにも出場したが、このときはひざ故障していて、レース途中で棄権した。
メキシコ五輪の翌年、アベベは自動車を運転していて事故を起こし、頸椎を損傷し、下半身付随のからだとなった。
その後、リハビリに努め、39歳の年には、ノルウェーで開かれた身障者のスポーツ大会の犬ぞりレースに参加して優勝し、世界の人々にアベベ健在を印象づけた。
1973年10月、脳出血のため、アディスアベバで没した。41歳だった。

現代では、みんながみな、
「わたしは誠心誠意一所懸命やっています」
「わたしは死ぬほどがんばっています」
と大声でわめいている時代で、アベベのような、闘志や苦労は内に隠し、表向きには平然、淡々と、というスタイルは流行らなくなった。淡々とした風を装っていると、
「すかしている」とか「真剣さが感じられない」と非難されたりする。
人を外見で判断し、その心中を推し量れない人ばかりになった。
走るアベベのような顔で生きたい。
(2021年8月7日)



●おすすめの電子書籍!

『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。


●電子書籍は明鏡舎。
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8月6日・アレクサンダー・フレミングの気づき

2021-08-06 | 科学
8月6日は、米軍の爆撃機エノラゲイが広島に原子爆弾一個を投下し、約14万人が死亡した、人類史上はじめて原爆が実戦で使用された日(1945年)だが、細菌学者アレクサンダー・フレミングの誕生日でもある。ペニシリンを発見した人である。

アレクサンダー・フレミングは、1881年、スコットランドのエアシャー地方、ロッホフィールドの農場で生まれた。父親は農夫で、アレクサンダーは父親が59歳のとき再婚した後にもうけた4人の子どものうちの、上から3番めだった。父親は前の妻とのあいだに4人子どもがあったという。アレクサンダーが7歳のとき、父親は没した。
田舎の農場の貧しい環境に育ったアレクサンダーだったが、彼は医学の道を志した。ロンドンへ出て、奨学金を得たり、船舶会社に4年間勤めたり、親戚や、先に医者になっていた兄から学資を援助してもらい、22歳のとき、ようやく病院の医学校に入学した。
医学校卒業後は、学校の病院に就職した。1914年、フレミングが33歳の年に第一次世界大戦がはじまると、彼は召集され、戦地のフランスに渡り、負傷した兵士の治療にあたった。このとき、感染症によって負傷兵たちがつぎつぎと死んでいくのを目の当たりにして、感染症治療の必要を痛感し、細菌学研究の道へ進んだ。
47歳のころ、フレミングは研究室でブドウ球菌の実験していた。たくさんの皿を並べ、それぞれの皿のなかでブドウ球菌を培養していたのだが、その実験では、培養皿を密閉せず、菌を空気に触れさせる必要があった。そのため、空気中の細菌が培養皿に舞い降りて、ブドウ球菌が細菌に汚染され、実験に使えない皿もでてくるわけだが、あるとき、フレミングは、青かびがつき、繁殖して使えなくなった培養皿に、ふと目を止め、驚いた。ブドウ球菌のなかに点々と青かびの勢力範囲ができているのだが、青かびの周囲の部分が、透明になっているのだった。この透明の部分は、ブドウ球菌が溶かされてしまっていることを意味していた。すると青かびには、ブドウ球菌を撃退する「力」があることになる。
これが、ペリニシリン発見の瞬間だった。
フレミングの研究成果を手がかりに、多くの学者がさらに実験を重ねて、感染症に効く「魔法の弾丸」ペニシリンが開発された。ペニシリンは、第二次大戦において、数えきれない負傷兵たちを感染症から救った。
フレミングは、63歳のとき、ペニシリンの開発にかかわった2名の学者とともに、ノーベル医学生理学賞を共同受賞した。フレミングはエディンバラ大学の学長を務めた後、1955年3月、心臓発作のため、ロンドンで没した。73歳だった。

ペニシリンのアレクサンダー・フレミング、007シリーズの作者イアン・フレミング、「左手の法則」の物理学者ジョン・フレミング、三人のフレミングはみな英国人である。

細菌学者たちは昔から日々実験するなかで培養中の細菌のなかに、べつの汚染物質がまぎれこんでしまい、細菌がだめになっているのを、よく目にしていた。それを学者たちは、
「ああ、この菌は不純物が入ってしまったから、使えなくなった」
と、培養皿を捨てていた。でも、フレミング博士は捨てずに踏みとどまった。
「いや、待てよ。これは、かびが、細菌を殺しているということなのではないか。つまり、病原菌を退治しているということなのではないか」
と、その重要性に気づいた。気づきのえらさ、である。
日々、なんとなくながめ、見過ごしている風景のなかに、踏みとどまってみれば、とんでもない大発見の種がちりばめられている。
(2021年8月6日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
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8月5日・モーパッサンの戦争

2021-08-05 | 文学
8月5日は、天才数学者アーベル(1802年)が生まれた日だが、仏国の作家、モーパッサンの誕生日でもある。

ギ・ド・モーパッサン(アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン)は、1850年、仏国のノルマンディー地方で生まれた。裕福なブルジョワの家庭だったが、父親は女性関係が派手で、アンリが12歳のころ、母親は彼とその弟を連れて家を出、父親と別居し、エトルタの別荘で暮らすようになった。
アンリは、13歳で寄宿学校に入れられたが、その宗教色の強い教育方針になじめず、18歳のときにルーアンの学校へ入り直した。
やがてプロシアとフランスの普仏戦争がはじまり、モーパッサンは召集されて戦闘に参加した。彼は無事エトルタへ帰ってきたが、戦場で目にしたさまざまなできごとをきっかけにして、彼の人間不信がはじまったと言われている。
22歳のとき、モーパッサンはパリに出て、海軍省の役人になった。以前から詩を書いていた彼は、母親の友人だった作家のフローベールに師事し、小説を見てもらうようになり、フローベールの紹介で、エミール・ゾラとも親交をもつようになった。フローベールは『ボヴァリー夫人』『サランボオ』、ゾラは『居酒屋』『ナナ』を書いた、いずれも文学史上の巨星である。
25歳のころから短編小説を発表しだしたモーパッサンは、30歳のとき、ゾラたちと出した同人誌に『脂肪の塊』を発表。この作品によって作家としての地位を確立。以後、『女の一生』『ベラミ』など長編を数編と、二百とも三百とも言われる数の短編を書いた。
モーパッサンは、神経を病んでいて、神経衰弱や頭痛、不眠に悩み、麻薬を用いだし、自殺未遂を起こし、精神病院に収容された。そして、そのまま病院で、1893年7月に没した。42歳だった。

「文学の王国」フランスには、スタンダール、ユゴー、バルザック、ロマン・ロラン、プルーストなどなど、世界文学の高峰がいくつもそびえているが、フランス文学の短編の名手となると、やはりメリメと、このモーパッサンということになるだろう。
モーパッサンの短編を『脂肪の塊』を含め、二、三十編くらいは読んでいる。小学校時代に読んだ『首飾り』が、数あるモーパッサン作品のなかでも有名な作品らしい。気のきいた筋の運びと、どんでん返しのある、皮肉な味わいの好短編である。ただし、後をひく、深みのある読後感が残るという意味では、たとえば、同じ貴金属を扱った短編でも、『宝石』のほうが感じが深い。読み比べ、おすすめです。

モーパッサンの経歴では、戦争体験が重要な位置を占めている。戦場での経験が、彼の作家としての視座というものをしっかりと定めた面もあったろう。しかし、その経験は、彼の人間としての精神を、確実に壊し、修復不能にしてしまった。
たった十数年の活躍で、不滅の輝きを放ちつづける作品群を残した天才作家であり、その生涯が短かったのが惜しまれる。
(2021年8月5日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書


●電子書籍は明鏡舎。
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8月4日・ルイ・アームストロングの美

2021-08-04 | 音楽
8月4日は、詩人シェリーが生まれた日(1792年)だが、ジャズトランペッター「サッチモ」こと、ルイ・アームストロングの誕生日でもある。

ルイ・アームストロングは1901年、米国南端の街、ニューオリンズで生まれた。街の貧しい地区の貧しい家庭だった。ルイが幼いとき、父親は女を作って、家を出ていった。母親も家を出て、ルイと三つ年下の妹は祖父に預けられたが、ルイが5歳のころには母親はもどり、いっしょに暮らしはじめた。
ルイの母親はからだを売っていたという。ルイは新聞配達をし、捨てられた食べ物をレストランへ売り、また、11歳で学校をやめてからは、仲間と少年カルテットを組んで街角で歌ったり、またユダヤ人の廃品回収業者を手伝ったりして母親を助けた。
街の不良少年だったルイは、悪さをしてはつかまり、ニューオリンズの黒人浮浪児用施設に何度も入れられた。彼はその施設のバンドでコルネットを演奏し、腕を磨いた。彼はまた、施設長に可愛がられ、個人的に音楽レッスンを受けた。そうして、施設のバンド・リーダーに指名された。
14歳のとき、施設を出たアームストロングは、ダンスホールで演奏するバンドマンの職を得、街のパレードでもブラスバンドとして演奏するようになり、譜面を見て演奏するなど音楽の幅を広げ、ミュージシャンの知り合いも増えた。やがてシカゴへ旅立った先輩の後任として、バンドでトランペットを吹くようになった。
20歳のころには譜面を読めるようになっていたアームストロングは、曲のトランペットのソロの部分を引き延ばして演奏するようになり、いかに個性的な音を出すか工夫をし、歌も歌いだした。
21歳の年に、先にシカゴへ旅立っていった先輩トランペッターに呼ばれて、アームストロングもシカゴへ移り、そこの楽団ではじめてのレコーディングに臨んだ。
その後、ニューヨークへ移り、またシカゴへもどったりと、バンドを移籍しながら、アームストロングは音楽キャリアを積んでいった。
25歳のときには、音楽史上初となるスキャットをレコードに録音。スキャットは「ダバダバドゥビドゥバ」などという風に、声を楽器として即興で歌うもので、これはレコード録音中にアームストロングが歌詞を書いた譜面を落としてしまい、アドリブで歌ったのがそのまま採用されたものだと言われている。
彼は「Such a mouth! (なんていう口!)」に由来すると言われる「サッチモ」の愛称で親しまれた。ヒット曲に「バラ色の人生」「キッス・オブ・ファイア」「ハロー・ドーリー!」「この素晴らしき世界」などがあり、出演映画に「上流社会」「5つの銅貨」「ハロー・ドーリー」などがある。
1971年7月、ニューヨークで心臓発作により没した。69歳だった。

映画「女王陛下の007」の挿入歌「We Have All The Time in The World(愛はすべてを越えて)」が、初めて聴いたサッチモの歌である。美の感覚が広がった。

以前、テレビで女優の大竹しのぶが「人生の最後に聴きたい一曲」として、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」を挙げていた。なるほど、サッチモのしゃがれ声は、ほんとうに美しい。
(2021年8月4日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音に関する美的感覚を広げる「息づかいの聴こえるクラシック音楽史」。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

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8月3日・アン・クラインの美

2021-08-03 | ビジネス
 ファッションデザイナー、アン・クラインは、1923年8月3日、米国ニューヨークで生まれた。
 本名は、ハンナ・ゴロフスキ。
 ブルックリンに住むユダヤ人家庭の出身である。
 女子商業高校で学んだハンナは後にファッションの専門学校にも通った。15歳のとき、マンハッタンの七番街でファッションのスケッチャー(デザイン画描き)として働きはじめた。やがて女性服のデザイナーとして頭角を現した彼女は、25歳のときに、同じくファッション業界で働くベン・クラインと結婚し「アン・クライン」となった。
 彼ら夫婦は、若い女性向けにエレガントな服を提供する「ジュニア・ソフィストケイツ」ブランドを興した。アン・クラインはそこのチーフデザイナーとして活躍した。
 最初の夫と離婚した後、再婚した夫とともに、45歳のとき「アン・クライン社」を設立。
 クラインは、新しいデザイン感覚によって、米国の伝統的なボタンとリボンで飾られた「少女らしい服」を過去のものに追いやってしまった。
 そうして、もっと洗練された、スタイリッシュな、大人びたデザインを、1950年代の若いアメリカ女性たちに提供し、大成功を収めた。
 ファッション業界の数々の賞を受賞した後、クラインは1974年3月、乳ガンのため没した。50歳だった。
 彼女の死後も、「アン・クライン」ブランドは、服やベルトのほか、靴、時計などさまざまな装身具まで幅を広げながら発展を遂げ、多くのデザイナーを輩出している。

 アン・クラインは女性服のデザイナーだが、モデルかと見まがう美形である。
 はじめ写真を見たとき、ジーン・セバーグかオードリー・ヘップバーンかしらと目をみはったが、キャプションを見ると、ちがって、女性服デザイナーだったのである。
 外見と中身はちがうとは言うものの、それらは相互に影響し合っている。
 ファッションについて筆者は朴念仁なのだけれど、敬愛するデヴィッド・ボウイなどを見ると、そのときどきのファッションと、折々の思想やメッセージが密接につながっていて、感心する。やっぱり美意識というのは、服装に出る、と。
 日本人の場合は、服装のファッションが、それを着る人の思想と密接に関係している度合いは低いようだが、米国では、しばしばフッションセンスがそのまま、その人の考え方を表していたりする。
 アン・クラインの大人らしい洗練されたデザインは、それを着る若い女性たちの時代精神とマッチして、新しい時代の風を起こした。
 そして、彼女によって覚醒された時代感覚は、より洗練されたオフィス・カジュアルウェアの方向と、それとは正反対の、ジーンズにバーケンストックのサンダルといった自然派的、対抗文化的な方向へと、両極端に分かれて発展していった、と言っていいだろう。
 1990年代の、わざとボロボロなものを着るグランジ・ファッションも、そうした発展と揺り返しの延長線上に必然的に生まれてきたものと言えよう。

 アン・クラインはこう言っている。
「Clothes aren't going to change the world, the women who wear them will.(服は世界を変えたりしない。服を着る女性たちが変えるのよ)」(Goodreads, Inc.)
(2021年8月3日)




●おすすめの電子書籍!

『ブランドを創った人たち』(原鏡介)
ファッション、高級品、そして人生。世界のトップブランドを立ち上げた人々の生を描く人生評論。エルメス、ティファニー、ヴィトン、グッチ、シャネル、ディオール、森英恵、サン=ローランなどなど、華やかな世界に生きた才人たちの人生ドラマの真実を明らかにする。

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。

●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp


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8月2日・中坊公平の正義

2021-08-02 | 歴史と人生
8月2日は、作家の中上健次が生まれた日(1946年)だが、弁護士、中坊公平(なかぼうこうへい)の誕生日でもある。

中坊公平は、1929年、京都で生まれた。父親は小学校教師をへて苦学して弁護士になった人物だった。
24歳で京都大学法学部を卒業した公平は、司法試験に合格し、弁護士となった。父親の弁護士事務所をへて、30歳の年に独立して自分の事務所を構えた。
裁判で勝訴を続け「勝てる弁護士」として顧問弁護士を務める企業も増えて、すっかり裕福になっていた43歳のとき、森永ヒ素ミルク中毒事件の弁護団の団長になってくれないか、という依頼を彼は受けた。この事件は、森永の乳児用ミルクにヒ素が混入していて、それを飲んだ多くの赤ちゃんが中毒になり、からだに重篤な障害が起きた事件で、森永側は自分たちに非はないと主張し、厚生省側はみんな治っていて後遺症もないと説明していた。
最初、中坊はこの依頼を断ろうと思ったという。せっかく顧客も増えて生活が安定してきたところに、森永のような大企業を敵にまわす裁判にかかわっては、お客さんを逃すことになる。そんな左翼系の弁護士たちの仲間になるのは損だ、と。
中坊は、左翼嫌いの弁護士として通っている父親のところへ相談に行った。きっと父親も自分の意見に賛成してくれるだろう、と。すると、父親はこう言った。
「情けないことを言うな。お父ちゃんは公平をそんな人間に育てた覚えはないぞ。この事件の被害者は誰や。赤ちゃんやないか。赤ちゃんに対する犯罪に右も左もない。お前は確かに一人で飯を食えるようになった。しかし、今まで人の役に立つことを何かやったか。出来が悪かったお前みたいな者でも、人様の役に立つなら喜んでやらしてもらえ」(中坊公平『中坊公平・私の事件簿』集英社新書)
父親のことばに打たれた中坊は、弁護を引き受けた。そして、被害の事態調査からやり直し、「森永ミルク中毒の子供を守る会」と弁護団のあいだにはさまれて苦しみ、病気になり、自殺を考えた瞬間もあるという苛酷な裁判だったが、彼はこれをみごとやりぬいた。前掲の書に収録されている、この事件の裁判の冒頭陳述の原稿は、感動なしには読めない名文である。

中坊はその後も、豊田商事事件などむずかしい大型訴訟を手がけた後、67歳のとき、住専(住宅金融専門会社)事件の責任者となり、再建回収に奔走した。
住専処理事件は、バブル崩壊に端を発した不良債権問題で、そのツケは最後には税金にまわされるという、いわば被害者が国民という事件だった。
中坊は住専の住管機構と整理回収機構の社長を引き受け、一円の報酬も受けとらず奮闘した。そうして、目標額に近いお金を回収することに成功した。彼はこう書いている。
「何千億も回収できるなんて奇跡だと言う人もいますが、人間、退路を断って懸命にやれば、世の中は動くものなのです。」(同前)
中坊は、2013年5月、心不全により京都で没した。83歳だった。

森永ミルク事件の被害者と会ったことがある。赤ちゃんのとき被害にあい、すでに高齢の女性となっていたが、事件の痛々しさ、深刻さをあらためて感じた。
「公平」という名前がすばらしい。
(2021年8月2日)



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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
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