1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

8月21日・ビアズリーの意味

2021-08-21 | 美術
8月21日は、ビッグバンド・ジャズの大物、カウント・ベイシーが生まれた日(1904年)だが、英国の画家ビアズリーの誕生日でもある。

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーは、1872年に英国イングランドのブライトンで生まれた。父親は祖父からもらった遺産で暮らしていたが、それをつかいきると、不定期にビール工場で働いた。母親は軍人の娘で、ピアノ教師をして家計を支えた。ヴィンセントはからだの弱い子どもで、9歳のころから、結核の症状を見せていたが、11歳のころから、ひとつ年上の姉とともに演奏会を開き、その音楽、芸術方面の天才を認められていた。姉は後に女優になった。
グラマー・スクールを出た彼は、17歳で保険会社の事務員となった。そこで働きながら、17歳のとき、はじめて雑誌に詩を発表し、19歳のときには、雑誌にデッサンが載った。
事務から解放され、芸術の仕事をしたいと考えたヴィンセントは、姉とともに高名な画家であるバーン-ジョーンズを訪ねていき、追い払われそうになったが、幸運にも会うことができた。ヴィンセントは大画家に見せた絵を褒められ、美術学校の夜間クラスに入るよう勧められた。彼はアドバイスにしたがい、19歳ではじめて美術の教育を受けた。
20歳のとき、保険会社を辞め、本格的に画家としてやっていくことを決心。以後、書籍や雑誌に、世紀末的、頽廃的で、かつ洗練された、独特の挿絵を発表し、雑誌の編集にも携わった。
21歳のとき、ワイルドの戯曲『サロメ』の挿絵を担当。
1895年、ビアズリーが23歳の年に、ワイルドが当時の英国にはあった男色の罪で逮捕され、投獄されるというスキャンダルが起きた。ビアズリーには無関係の事件だったが、社会の非難は彼にも及び、彼はいったんフランスへ逃れた。
その後も、挿画や詩、小説などを書いた後、医師にすすめられ、健康のために転地していた先の南仏のマントンで、1898年3月、結核のため没した。25歳だった。
生前からビアズリーはこう言っていたという。
「ぼくは、キーツより長くは生きられないだろう」(I shall not live much longer than did Keats.)
ジョン・キーツは25歳と4カ月で亡くなった英国ロマン派の詩人で、ビアズリーのほうが3カ月ほど長生きだった。

ビアズリーの影響は多大で、日本でも、手塚治虫や、米倉斉加年、魔夜峰央ほかたくさんのの絵描きが影響を受けているし、クリムトの絵画の構図にもビアズリーの影響が見られる。ビアズリーのエロティックで背徳的な雰囲気と、すべての色彩を白と黒に還元し、すべての視覚を一本の線に封じ込めた洗練は美術史上でも屹立している。
ビアズリーは言っている。
「もちろん、わたしはひとつの意図、グロテスク、をねらっている。もしもわたしの絵がグロテスクでなかったら、わたしに意味はない。(Of course, I have one aim, the grotesque. If I am not grotesque I am nothing.)」(Finest Quotes.jp: https://www.finestquotes.com/)
(2021年8月21日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

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8月20日・高杉晋作の詩心

2021-08-20 | 歴史と人生
8月20日は、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のヴォーカリスト、ロバート・プラントが生まれた日(1948年)だが、幕末の風雲児、高杉晋作の誕生日でもある。

高杉晋作は、天保10年(1839年)の8月20日に、現在の山口県の萩で生まれた。父親は二百石扶持の長州藩士で、晋作は長男だった。
小さいころから漢学、剣術を学んだ晋作は、18歳のとき、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門。師の松陰は、ただちに高杉の才能を見抜き、彼を発奮させようと策を案じた。
19歳のとき、高杉は藩の命令で江戸へ留学した。すると、師の松陰が幕府に捕縛され、江戸に連れてこられた。晋作は獄に師を見舞うが、松陰は幕府によって処刑された。
22歳のとき、藩命で、中国の上海を旅した。そして、西欧諸国の帝国主義に浸食され、内乱により国内がばらばらになった中国の惨状を見て帰ってきた。これが高杉の大きなターニングポイントとなった。なお、このとき、上海から回転式拳銃(リボルバー)を持ち帰り、後に坂本龍馬に護身用として贈っている。
高杉は運動を起こし、長州藩を外国人排撃の方向へ動かした。そして高杉が24歳のときに、長州藩は関門海峡を封鎖し、海峡にいる外国船へ砲撃を加えた。このとき下関を守るため、高杉が長州藩内に組織したのが「奇兵隊」で、これは武士、農民、町人で構成された、身分制度にとらわれない近代部隊だった。しかし翌4年には、英仏米蘭の四カ国の連合艦隊が長州の下関を攻撃し、砲台が占領された。この戦後処理にあたり、高杉は藩の命を受けて講和会議に出席し、列強との交渉にあたった。このとき、欧米列強が突きつけてきた要求のなかに、関門海峡に浮かぶ彦島(またの名を巌流島)の期限付き租借があったが、上海を見てきた高杉は要求を拒絶し、長州藩は江戸幕府の命令にしたがったまでのこと、と損害賠償のツケは江戸幕府へとまわされた。この諸国分立の封建体制が列強を手間どらせ、日本が植民地化をまぬがれた一因ともされる。
一方、この下関戦争と同時期に京都であった政変により、長州藩は、薩摩藩を主力とする軍隊によって京都から追い払われ、朝廷の敵ということにされていた。
西国諸藩の軍隊を結集した幕府連合軍の長州への攻撃が近づくなか、長州藩内では、江戸幕府にわびを入れ、幕府になびこうという俗論派が台頭してきた。藩内にいる、幕府との対決を主張する正義派がつぎつぎと処分され、襲われた。高杉もいったん福岡に逃げて身を隠すが、ふたたび長州へ舞いもどり、奇兵隊を決起させ、クーデターを起こして、藩内の俗論派を一掃し、長州藩を江戸幕府を倒す方向でまとめた。歴史はその後、薩長連合、大政奉還、江戸幕府終了と動いていくが、以前から肺結核を病んでいた高杉は、大政奉還を見ることなく、慶応3年4月(1867年5月)に没した。28歳だった。

「日本のチェ・ゲバラ」高杉晋作ははげしい人生を生きた革命家だけれど、詩人でもあった。
「三千世界の鴉(からす)を殺し、主と朝寝がしてみたい」
こんな秀逸な都々逸(どどいつ)を歌った高杉の辞世はこうだった。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
(2021年8月20日)



●おすすめの電子書籍!

『心をいやす50の方法』(天野たかし)
見て楽しめるヒーリング本。自分でかんたんにできる心のいやし方を一挙50本公開。パッと見てわかる楽しいイラスト入りで具体的に紹介していきます。「足湯をする」「善いことをする」「あの世について考える」「五秒スクワット」「雲をながめる」などなど、すぐに実行できる方法が満載。ストレス、疲労、孤独、無力感、やる気が出ないイライラなどの諸症状によく効きます。


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8月19日・ココ・シャネルの解放

2021-08-19 | ビジネス
8月19日は、米大統領だったビル・クリントンが生まれた日(1946年)だが、ファッションデザイナーのココ・シャネルの誕生日でもある。

ガブリエル・ボヌール・シャネルは、1883年に、仏国北西部のソーミュールで生まれた。母親は洗濯をして生計を立てている未婚女性で、私生児のガブリエルにはほかに4人のきょうだいがいたという。ガブリエルを産ませた男は、洋服を売り歩く行商人で、ガブリエルが生まれたのは修道院が運営す慈善病院だった。
12歳のとき、母親が気管支炎で没すると、ガブリエルは修道院へ預けられた。
十代後半で修道院を出たガブリエル・シャネルは、お針子をしながら歌手を目指し、酒場で歌った。そのころの流行歌の歌詞のなかに出てくる「ココ」という名から、彼女は「ココ」の愛称で呼ばれるようになった。
そのころ、地元に駐屯していた仏軍の将校とシャネルは知り合い、23歳のころ、彼女はその男の愛人になった。将校の男は裕福な商家の跡取りで、彼は彼女を大きな屋敷に住まわせ、ぜいたくな暮らしをさせた。そしてシャネルは、愛人の友人である英国人の金持ちと恋仲になった。シャネルは後に当時を振り返ってこう言っている。
「二人の紳士がわたしのホットな肉体を、せり落とそうと高く値をつけあっていた。」(Two gentlemen were outbidding for my hot little body.)
三角関係の時期をへて、愛人の移譲がおこなわれ、彼女は新しい英国人の恋人にねだって、パリに帽子屋の店を出し、パリで暮らしはじめた。
この帽子店をふりだしに、シャネルは富裕層向けに女性向けのドレス、スーツ、バッグなどを、洗練された、動きやすいデザインで作り、事業を発展させていき、後には香水をも売り出した。一説に香水「シャネルの19番」は彼女の誕生日にちなむと言われる。
事業のかたわら、シャネルは詩人のジャン・コクトー、画家のパブロ・ピカソ、作曲家のストラヴィンスキーなどとも親交を重ね、芸術家のパトロンともなった。『肉体の悪魔』を書いて夭逝した作家、ラディゲの葬儀はシャネルが出している。
1971年1月、春のカタログの準備中に、30年以上住居としていたパリのホテル・リッツで没した。87歳だった。

シャネルは、石や貴金属を用いない「ガラクタ」の素材で、洗練されたデザインの首飾りを作り、富裕層に高い金で買わせた。バッグや化粧品など、どの商品にも偏執狂的に、ココ・シャネルのイニシャル「CC」を組み合わせたマークを刻み、ついにそのマーク自体に価値があることになった。

彼女はまた、それまでコルセットでしめつけられていた女性のからだを、動きやすいスポーティーなデザインの服によって解放し、スカートにポケットをつけ、女性の服を機能的にした。そして、ジャージーの素材を使って、動きやすい、スマートな服を創った。彼女は、そうやってファッションの面から女性解放を支援したひとりだった。

シャネルは言っている。
「成功はしばしば、失敗するに決まっているのがわからない人によってなし遂げられる。(Success is often achieved by those who don't know that failure is inevitable.)」Brainy Quote: http://www.brainyquote.jp/)
(2021年8月19日)



●おすすめの電子書籍!

『ブランドを創った人たち』(原鏡介)
ファッション、高級品、そして人生。世界のトップブランドを立ち上げた人々の生を描く人生評論。エルメス、ティファニー、ヴィトン、グッチ、シャネル、ディオール、森英恵、サン=ローランなどなど、華やかな世界に生きた才人たちの人生ドラマの真実を明らかにする。

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。

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8月18日・マルセル・カルネの方法

2021-08-18 | 映画
8月18日は、映画俳優ロバート・レッドフォードが生まれた日(1936年)だが、映画監督マルセル・カルネの誕生日でもある。

マルセル・カルネは、1906年、仏国パリで生まれた。父親は家具製作をしていて、マルセルの母親は彼が5歳のときに没した。
マルセルは、映画批評から出発して、23歳のころには映画雑誌の編集者となり、25歳のときにははじめての短編映画を監督していた。
第二次世界大戦がはじまり、ナチス・ドイツの侵攻が近づくと、ヨーロッパの映画人はつぎつぎと米国へ亡命したが、マルセル・カルネは残った。
1940年、カルネが34歳になる年にはパリが陥落し、街にドイツ軍の制服があふれた。その政治的にも物資的にもきびしい状況のなかで、彼は映画を作りつづけ、36歳のとき「悪魔が夜来る」を発表。さらに「天井桟敷の人々」を撮り、39歳になる1945年に、解放後のパリで公開した。ドイツ軍占領下で、3年以上の歳月をかけて制作されたこの大作は、フランス国内はもちろん、世界各国で映画の人気投票がおこなわれると、いまなお世界映画のナンバー・ワンに選ばれる、永遠の名作となった。
カルネはその後、「嘆きのテレーズ」「危険な曲がり角」「若い狼たち」といった作品を発表した後、1996年10月、クラマールで没した。90歳だった。

フランスで歴代映画の最高傑作のアンケートをとるといつも一番になる映画「天井桟敷の人々」は、19世紀のパリの芝居小屋が並ぶ街を舞台にした恋の物語である。主人公のパントマイム役者と、芝居小屋の女優が出会い、ひかれあうのだけれど、この世にいる男女は彼らだけではなく、運命のいたずらもあって、二人の仲はそうすんなりとはいかない。そんな恋物語が、パリを活気ある街にしている市井の人々の生活ぶりを背景に、第一部「犯罪大通り」、第二部「白い男」を通して描かれる。タイトルの「天井桟敷の人々」は、芝居小屋のいちばん料金の安い、天井すれすれの立ち見席で芝居を見る人たちのことを指している。この作品は当時占領下にあったパリの庶民に捧げられた作品である。
「圧巻」とはこの映画のためにあることばである。

この映画を観て不思議に思ったのは、第一部と、第二部を通して登場する人物がたくさんいるのだけれど、ある人物が、どうも前半で観たのと感じがちがう人のように見える点だった。後で知れたところ、その役者はレジスタンスの一員で、ナチスに追われる身となり、地下にもぐった。それで、後半はべつの役者が彼の役を引き継いで演じたのだった。

映画「天井桟敷の人々」は全編を通じて、反戦だとか、反ファシズムだとか、抵抗だとかいった要素はみじんも登場しないのだけれど、観終わると、なぜか、マルセル・カルネ監督の、戦争や占領を憎み、自由を求める気持ちが、強烈に観るこちらの胸に迫ってくる。言いたいことを、ひと言も言わず、そのことによって、かえって強烈にそれを訴えかけることができるのだ、と教えてくれた巨匠、それがマルセル・カルネ監督である。
(2021年8月18日)



●おすすめの電子書籍!

『映画の英語名ゼリフ』(金原義明)
英語映画の名作から、元気になる名ゼリフ、癒される名文句の数々をピックアップして原語(英語)を解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新スタイルの映画紹介。「アナと雪の女王」「ハリー・ポッター」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ブレードランナー」「燃えよドラゴン」「ローマの休日」「シェーン」「カサブランカ」「風と共に去りぬ」などなど歴代の名作が目白押し。これだけは聞き取りたいという輝く英語フレーズが満載。これであなたも映画英語の通人。


『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。人と作品による映画史。チャップリン、エイゼンシュテイン、溝口健二、ウォルト・ディズニー、ハワード・ヒューズ、ヴィスコンティ、黒澤明、パゾリーニ、アラン・レネ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、ベルトリッチ、北野武、黒沢清……などなど監督論30本を収録。映画人たちの人生を通して「映画を観ることの意味」に迫り、百年間の映画史を総括する知的追求。映画ファン必読の「シネマの参考書」。



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8月17日・ヘルタ・ミュラーの闘い

2021-08-17 | 文学
8月17日は、映画俳優ロバート・デ・ニーロが生まれた日(1943年)だが、女流作家ヘルタ・ミュラーの誕生日でもある。

ヘルタ・ミュラーは、1953年、ルーマニア西部のティミシュ県のニツキードルフで生まれた。ミュラー家は、ルーマニアのなかでドイツ語を話す少数派に属していた。ヘルタの祖父は、農業と商売をして裕福だったが、ルーマニアに共産主義体制が敷かれると、その資産は没収された。第二次大戦中は、ルーマニアのドイツ人たちの多くがナチス親衛隊に動員されたが、ヘルタの父親も大戦中はナチスの親衛隊員で、戦後はトラックの運転手になった。ヘルタの母親は戦争が終わった17歳のとき、ほかのルーマニアのドイツ人たちとともに、ソビエト連邦の強制労働キャンプに連れていかれ、そこで5年間働かされた。
大学でドイツ文学とルーマニア文学を専攻したヘルタは、23歳で大学を卒業し、工場の技術翻訳者として働きはじめた。が、秘密警察への協力を拒んだため、職場から追いだされることになった。ある日とつぜん彼女の机と椅子が片づけられ、仕事場への入室が禁じられ、彼女は秘密警察のスパイだといううわさが流されたという。
当時、チャウシェスク政権下のルーマニアでは、失業は犯罪だった。ヘルタ・ミュラーは代用教員、幼稚園教師、ドイツ語の家庭教師をして食いつなぎながら、詩や小説を書いた。
29歳のとき、ドイツ語で書いた最初の短編集『澱み』を出版。しかし、その内容は、検閲され、当局によっていちじるしく改ざんされたものだった。
31歳のとき、『澱み』の未検閲版が西ドイツで出版され、西側諸国で高い評価を受けた。彼女は著名人となり、これにより、ルーマニア当局は彼女の生命には手を出せなくなった。それでも、ミュラーに対する尋問、家宅侵入、脅迫は続き、彼女が31歳のとき、ついに出版活動を禁じられた。彼女は34歳のときに夫とともに西ドイツへ移住。大学で教鞭をとりながら、ルーマニアの管理された苛酷な状況を描いた作品を執筆しつづけた。
2009年、56歳のとき、ノーベル文学賞を受賞。長篇小説に『狙われたキツネ』『息のブランコ』などがある。

ミュラーがノーベル文学賞を受賞した後も、なかなか彼女の作品を読まなかった。しかし、2012年に、中国の莫言(モーイエン)がノーベル文学賞を受賞したとき、批判的なコメントを発したのを機に、ようやく短編をすこし読んだ。
短編集『澱み』に収録されているヘルタ・ミュラーの作品は、いずれも、きびしく管理された体制下の状況を描いているのだけれど、とても新鮮に感じられた。短編のせいか、表現がいちいち詩的でまるで「東欧の新感覚派」だった。現代作家の外国作品を翻訳で読むのは、日本語の言語感覚についても刺激があっていい。
ジョージ・オーウェルの『1984年』や、カフカの『審判』の世界が現実となった世界をよく観察して、それをまた架空の物語として描いている、というのがヘルタ・ミュラーの世界である。
安部公房の『砂の女』を、東欧の人々が読むと、これは管理社会の状況を象徴的に描いたものだ、とただちに感得されたという事情が、ミュラーを読むとわかる。日本に生まれた不幸と、日本に生まれた幸福を感じさせてくれる作家である。
(2021年8月17日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


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8月16日・マドンナの方法

2021-08-16 | 音楽
8月16日は、作家チャールズ・ブコウスキーが生まれた日(1920年)だが、歌手マドンナの誕生日でもある。

マドンナ・ルイーズ・チッコーネは、1958年、米国ミシガン州ベイシティで生まれた。父親はイタリアからの移民で、母親はフランス系カナダ人の血をひいていた。父親は自動車のデザイナーで、父親の最初の結婚で生まれた6人きょうだいの上から3番目がマドンナだった。
マドンナが5歳のとき、母親が乳ガンで没し、それが彼女の自立心を芽生えさせた。
ローマ・カトリックの家庭で育った彼女は、8歳のとき「ヴェロニカ」というクリスチャン・ネームを受け、マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネになった。
十代のころの自分について、マドンナは後にこうコメントしている。
「なにかをさがし求めている孤独な少女だった。よくいる反抗的な子どもではなかった。なにか光るいいものをもった存在でありたかった。わきの下の毛はそらず、ふつうの女の子たちのするような化粧もしなかった。でも、わたしは努力していい女でいた……わたしはたいした人間になりたかったのよ。(I wanted to be somebody.)」
ピアノ、バレエ、ダンスを習っていたマドンナは、ミシガン大学を中退し、19歳のとき、単身ニューヨークへ出た。
「ポケットに35ドルの全財産を入れて。いままでわたしがしたことのなかで、もっとも勇敢な行動だった。(I came here with $35 in my pocket. It was the bravest thing I'd ever done.)」
彼女は極貧の生活のなかで、舞台のバックダンサーやヌードモデルの仕事をして食いつなぎ、チャンスを待った。夜のリハーサルが終わった帰り道で、暴漢にナイフを突きつけられ、レイプされたこともあったという。
21歳のころ、意気投合したミュージシャンとバンドを組み、クラブで演奏するようになった。マドンナはボーカルと、ギターやドラムを担当した。
24歳のとき、レコード会社と契約。シングル「エヴリバディ」で歌手デビュー。
25歳の年に「バーニング・アップ」(原題、Madonna)でアルバムデビュー。シングルカットされた「ラッキー・スター」「ボーダーライン」「ホリデイ」などもヒットし、マドンナはストリートで踊る若者たちのアイコンとなった。
26歳の年にリリースされたセカンド・アルバム「ライク・ア・ヴァージン」は全世界で2000万枚以上売れ、11カ国でチャート第一位を獲得した。
その後も「ライク・ア・プレイヤー」「エロティカ」「レイ・オブ・ライト」など話題作を発表し、つねに体制や常識に反抗するセクシャルな存在として人気を保ちつづけている。彼女はまた女優として「ボディ」「エビータ」などの映画にも出演し、災害の被災者や子どものための慈善事業に関与し、チャリティコンサートや寄付活動をおこなっている。
ニューヨークでの下積み時代、寝る場所に困り、道を歩くときはいつもマクドナルドの紙袋をさがし、フライドポテトの食べ残しをあさっていた少女は、10年後、年収百億円を超える大金持ちになっていた。

成功の秘訣について、マドンナはこう言っている。
「成功するために大切なのは、あきらめず、やりぬくこと。きみには才能がないからべつの道を行ったほうがいいと周囲に説得されて、あきらめていった人をたくさんわたしは見てきた。わたしも回数多くそう言われたが、忠告にしたがわなかった」
(2021年8月16日)



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『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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8月15日・オーロビンドの思想

2021-08-15 | 思想
敗戦記念日の8月15日は、仏皇帝ナポレオン・ボナパルトが生まれた日(1769年)だが、インドの思想家オーロビンドの誕生日でもある。

オーロビンド・ゴーシュは、1872年に英国の支配下にあったインドのコルカタ(カルカッタ)で生まれた。父親は医者で、オーロビンドは6人きょうだいの上から3番目だった。
7歳になったオーロビンド・ゴーシュは、上の二人の兄とともに英国へ留学した。これは、インドの行政組織であるICS(Indian Civil Service)の官僚になるためだった。
英国留学中にオーロビンドは愛国心に目覚め、インド独立のために行動を起こす決意を固めた。
21歳のとき、14年ぶりにインドへ帰国したオーロビンドは、バローダ州のICSに勤務しながら詩を書きためて、詩集を出版した。
25歳のころから、バローダ大学で仏語や英語を教えるようになり、29歳のころから、しだいに民族主義運動に力を入れだし、国内の独立革命を目指す活動家たちと連絡を取り合い、革命機関紙を編集し、各地の集会で講演をした。
36歳のとき、爆弾テロ事件に関与した容疑により、オーロビンドは未決囚として刑務所に収監された。その刑務所の独房で、強い幸福感をともなう神秘体験をし、瞑想によってその境地に入れるようになった。37歳のとき、無罪が確定し、釈放されたオーロビンドは、ふたたび政治活動をはじめたが、38歳のときに政界からの引退を表明。数人の弟子を連れ、インド南部のポンディチェリーへ移り住み、著述と瞑想三昧の生活をはじめた。「マハトマ」ガンディーが南アフリカからもどり、独立運動を開始するのは、その5年後である。

南インドへ居を定めたオーロビンドは、42歳のころ、瞑想修行のパートナーとなるフランス人女性、ミラ・アルファサと出会い、彼女の働きによって、ポンディチェリーのアシュラム(修行道場)は整理され、発展していった。オーロビンドのアシュラムは学校をはじめ、学校はその後アシュラムから独立し、大学までの教育カリキュラムを備えた「聖オーロビンド国際教育センター」となった。ミラはまた、人類のつぎに地球上で繁栄する種の出現のための準備として巨大なコミュニティー「オーロヴィル」を創設した。
1947年8月15日、インド独立が成り、その記念式典において、オーロビンドはラジオの全国放送を通じ、全インド国民に向かって演説をした。その後も、思索と著述を続け、1950年12月、ポンディチェリーで没した。78歳だった。

オーロビンドは、西洋哲学と東洋思想を仔細に検討して修正を加え、整理し、生の真実を探求しようとした人である。
オーロビンドによると、人類の苦悩は、物質面、環境面などの外的ないちじるしい進化に比べて、人間の内的な進化が遅れ、ついていけないために起きたものだという。苦悩を解決するためには、内面を進化させなくてはならず、精神的存在である人間を、霊的存在へと進化させることが必要になってくる。彼の考えはこうである。
「生とは、苦しみでも、無味乾燥な繰り返しでもなく、本来楽しいはずの、生き生きとした聖なる営みである。生は魂の冒険であり、魂は転生を繰り返して、そのつど新しい体験の旅に出、新しい体験を重ねて進化していく。そこに新たに生まれ変わる意味がある」
(2021年8月15日)



●おすすめの電子書籍!

『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を追求した人物。その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。われわれ人間の「生きる意味」とは? その答えがここに。

『オーロヴィル』(金原義明)
南インドの巨大コミュニティー「オーロヴィル」の全貌を紹介する探訪ドキュメント。オーロヴィルとは、いったいどんなところで、そこはどんな仕組みで動き、どんな人たちが、どんな様子で暮らしているのか? 現地滞在記。あるいはパスポート紛失記。南インドの太陽がまぶしい、死と再生の物語。


●電子書籍は明鏡舎。
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8月14日・シートンの哀しみ

2021-08-14 | 文学
8月14日は、映画女優エマニュエル・ベアールが生まれた日(1963年)だが、作家アーネスト・シートンの誕生日でもある。『シートン動物記』の作者である。

アーネスト・トンプソン・シートンは、1860年、英国イングランドのサウス・シールズで生まれた。両親はスコットランド系イングランド人で、父親は船主だった。アーネストは11人きょうだいの9番目の子で、6歳で亡くなった姉のほかは、みんな男の兄弟だった。
父親は海運事業をやめ、一家はアーネストが6歳のときに大西洋を渡り、カナダのオンタリオ州リンゼイに引っ越した。父親はそこで農場経営をはじめたが、うまくいかず、アーネストが10歳のとき、一家はトロントへ越し、父親はそこで会計係の仕事についた。
子どものころから自然にひかれ、動物の観察を好んだアーネストは、19歳のとき、美術学校で金メダルを受賞し、美術研究のために英国へ渡った。英国では奨学金を得てロイヤル・アカデミーで勉強しはじめたが、体調をくずし、21歳のとき、カナダへ帰った。
22歳のころ、兄のひとりが農場をやっている、カナダ中西部のマニトバ州へ引っ越し、同州の公認博物学者に任命された。その後、辞典に収録するための動物の挿絵を描いたり、パリで絵画の修行をした後、33歳のころ、米国ニューメキシコ州で放牧された家畜を、オオカミに殺されて困っている牧場主から、助けを求める依頼を受けて、シートンは現地へ向かった。このときのオオカミ退治の話が、後に『オオカミ王ロボ』となった。
38歳のとき、『ロボ』の話を含む、はじめての著書『私の知っている野性動物』を発表。ベストセラーとなり、以後、作家、講演家として活躍した。『シートン動物記』と呼ばれる一連の動物物語や、森林冒険生活のバイブル『二人の小さな野蛮人』などを書き、ボーイ・スカウト創設に関わった後、1946年10月、ニューメキシコ州で没した。86歳だった。

アーネスト・シートンの父親は、家庭内では絶対的な暴君で、性格的に異常で、ひじょうに粗暴な人物だった。一歳になったわが子が泣き出してもかまわず殴りつづけ、妻の遺産を自分の趣味の射撃に使い果たしてしまった。
アーネストが21歳になったとき、父親は彼のためにこれまでにつかった養育費の明細を見せ、アーネストにはこれを返済する義務があり、以後は利子をつけて計算すると宣言した。そのなかには、出産時の医者の費用までが記載されていた。アーネストは衝撃を受けたが、二、三年のうちにそれを返済した。アーネストは父親のことを生涯憎みつづけたという。

『オオカミ王ロボ』はとても感慨深い話である。シートンの文章は、オオカミの運命への共感や憐れみ、尊敬などが込められていて、百年前に書かれた古さをまったく感じさせない構えの深さをもっている。シートンを読むと、オオカミも、牛も、羊も、人間も、みんな生きているというのはただそれだけで悲しい、とわかる。

23歳のとき、シートンは田舎から大都会のニューヨークへ、自活するためにひとりで出てきた。ポケットには全財産の2ドルがあるきりだった。シートンは毎日、ロールパンを半分だけ食べてしのぎ、職をさがした。そのとき、彼はこう決心した。
「僕の生きている限り、もし『お腹が空いた』といって寄ってくる者は、人間でも動物でも僕は絶対彼らを拒みはしないぞ」(同前)
彼は出世してから、浮浪者にお金をせびられると、必ず応じてお金を手渡した。
(2021年8月14日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


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8月13日・ルーシー・ストーンの言

2021-08-13 | 歴史と人生
8月13日は、キューバのフィデル・カストロが生まれた日(1926年)だが、米国の女性運動家、ルーシー・ストーンの誕生日でもある。

ルーシー・ストーンは、1818年、マサチューセッツ州のウェストブルックフィールドの農場で生まれた。9人きょうだいの8番目の子どもだった。当時の農場の生活は苛酷で、とくに女の日常は多忙で、家庭では父親の命令が絶対で、女には発言権がなかった。
母親の大変な仕事ぶりを見て育ったルーシーは、物心つき、女性解放運動や奴隷解放運動のこを知るようになると、「自分はどんな男をも、主人とけっして呼ばない(call no man my master)」と決意した。
学校を出たルーシーは、16歳から学校の教師になった。当時の教師の給与は、男性教師より女性教師のほうが安かった。あるとき、彼女が、やはり教師をしている兄弟の代わりを務めたことがあったが、そのとき彼女がもらった額は兄弟の日給よりすくなかった。
オハイオ州のオーバーリンに全米初の女子学生と黒人学生を受け入れる大学ができ、彼女は25歳でそこに入学した。
ストーンは大学時代、大学の系列女子学校の数学のクラスなどを教えるアルバイトをしたが、同じ仕事をする男性の賃金が半分ほどだった。午前2時に起きて、ハードワークを続けた彼女は疲れきり、ついに大学の教授会に、男女の賃金差の不公平について訴え、男性教師と同等の賃金を要求した。要求は却下された。すると、ストーンは教師の職を放棄した。教授会は問題を再検討し、3カ月後、ついに女性教師に男性と同等の賃金を支払うことを決定し、ストーンを元の教師職に復帰させた。
彼女は29歳で学士号をとり、オーバーリンを卒業したストーンは、マサチューセッツ州で最初の大卒女性となった。卒業後、マサチューセッツへもどったストーンは、まず教職に就いて、借りていた学生ローンを返済しなくてはならなかったが、地元の教会で、奴隷解放と女性の権利について演説会を開いた。すると、これがマサチューセッツ反奴隷制協会の注目するところとなり、ストーンはその協会と契約し、奴隷解放運動の講演家となった。
彼女が各地でおこなったスピーチは論争を巻き起こし、演壇で彼女はしばしば腐った果物や卵などを投げつけられた。協会側は、女性問題には関心がなかったが、
「わたしは、奴隷廃止論者である前から、女性だったのよ(I was a woman before I was an abolitionist.)」
という彼女の主張をいれ、週末だけは反奴隷制を説いてもらい、平日は彼女が自由に女性の権利について語ってもらってけっこうという、週末だけの契約を結んだ。この契約のおかげで、週末の演説の収入で、平日の活動費用がまかなえるようになった。
ストーンはその後も各地で集会や演説会を開き、新聞や雑誌で健筆をふるい、投票権を含む女性のさまざまな権利獲得について訴え、1850年にオハイオ州で第一回目が開かれた「全国女性権利会議」の開催に尽力し、権利平等協会の結成に立ち会った後、1893年10月、胃ガンのため、マサチューセッツ州ボストンで没した。75歳だった。

ルーシー・ストーンは、結婚後も「ルーシー・ストーン」の名前のままで活動した夫婦別姓の先駆である。現代の日本女性たちの多くが知らぬうちに恩恵を受けている、19世紀の女性運動家の巨星である。
(2021年8月13日)



●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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8月12日・ブラヴァツキー夫人の波

2021-08-12 | 思想
8月12日は、理論物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが生まれた日(1887年)だが、神智学を開いたブラヴァツキー夫人の誕生日でもある。

ブラヴァツキー夫人は、エレーナ・ペトローヴナ・フォン・ハーンとして、1831年、現在のウクライナのドニプロペトロフシで生まれた。父親はドイツ貴族の血をひく軍人で、母親はロシアの上流出身で小説家だった。父親の転勤にともなって、エレーナたち家族は子供のころからよく引っ越しをした。エレーナが11歳になる年に、母親が没し、彼女たち子どもは、サラトフの市長だった、母方の祖父のもとに預けられ、複数の家庭教師の環視のもとでみっちりと教育やしつけを施された。
管理された境遇からの自由を求めたエレーナは、18歳になる年に、ずっと年上の政治家、ニキフォル・ブラヴァツキーと結婚し、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーとなった。しかし、彼女はすぐに 年輩の夫から逃げだし、親族のもとへもどってしまった。それから彼女は旅に出、エジプト、フランス、ギリシア、東ヨーロッパ、インド、チベットなど、世界を何年間もかけて放浪した。父親がときどき生活費を送金していたらしい。
42歳のとき、米国ニューヨークに着いた。夫とは別れたものの、ブラヴァツキー夫人を名乗る彼女は、米国でおこなわれた降霊会で知り合った米国人ヘンリー・オルコット大佐と意気投合し、1875年、彼女が44歳のとき、ニューヨークで「神智学協会」を創設した。
神智学協会とは、人種や信条、性別、階級、皮膚の色のちがいにとらわれず人類の普遍的同胞愛の中核となること、そして、宗教、哲学、科学の比較研究を促進し、未知の自然法則や、人間の潜在能力を研究することを目的とした私設の国際組織である。
初代会長には、オルコット大佐が就き、ブラヴァツキー夫人は交信秘書となった。
彼女が48歳のとき、神智学協会は本部をインドへ移した。その後、ブラヴァツキー夫人は、神智学協会の理論的柱として、『シークレット・ドクトリン』『神智学の鍵』など膨大な書を著し、1891年5月、インフルエンザのため、没した。59歳だった。彼女の遺体は火葬され、その灰は英国、米国、インドの各神智学協会に分けられた。

彼女の死後、ルドルフ・シュタイナーが神智学協会の会員となり、ドイツ支部を設立する。その後、神智学協会の幹部が、インド人少年、クリシュナムルティを、キリストの再来として担ぎ上げ、クリシュナムルティを教師と仰ぐ「星の教団」を結成する。と、歴史は動いてゆくことになる。

ブラヴァツキー夫人の文章を二度読もうと試みたけれど、挫折して、いまだちゃんと読めていない。キリスト教やヒンドゥー教など、いろいろな宗教と、その宗教から異端視されたオカルトの考えを集めて煮込んだシチューのような神秘哲学、というぼんやりした印象がある。ただ、言えることは、「科学的な検証」は、こうした分野の研究に当てはめないほうがいいということである。
オカルトとは、もともとラテン語で「隠されたもの」という意味のことばで、科学的に明らかにできない分野の問題を研究しているのだから、それを、
「科学的に証明できないからうそだ」
と批判するのは、ナンセンスである。いずれによせに、ブラヴァツキー夫人の投じた一石からさまざまな大きな波が生まれた。人間存在を考えるうえで、とても重要な役割を果たした人である。
(2021年8月12日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家のとらえた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、道元、ルター、デカルト、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、オーロビンド、クリシュナムルティ、マキャヴェリ、ルソー、マックス・ヴェーバー、トインビー、ブローデル、丸山眞男などなど。生、死、霊魂、世界、存在、認識などについて考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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