1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

8月22日・北原怜子の決断

2021-08-22 | 歴史と人生
8月22日は、「亜麻色の髪の乙女」「海」の作曲家クロード・ドビュッシーが生まれた日(1862年)だが、社会奉仕家、北原怜子(きたはらさとこ)の誕生日でもある。

人呼んで「アリの町のマリア」北原怜子は、1929年、大恐慌がはじまる寸前に、東京杉並区の馬橋で生まれた。父親は大学の農学の教授で、怜子はその三女だった。
戦時中は学徒動員により飛行機工場で働いていた怜子は、20歳の年に、薬学の専門学校を卒業。21歳のとき、杉並区の高円寺にある光塩女子学院に併設されたメルセス修道院で洗礼を受け、カトリック信者となった。霊名はエリザベス、堅信名はマリアだった。
21歳のときに彼女は台東区の浅草へ引っ越した。そうして、隅田川にかかる言問橋(ことといばし)のほとりにあった、焼け跡から運ばれてきた土の捨て場にある「アリの町」を知った。アリの町は、バタ屋(廃品回収業)をする貧しい浮浪者の寄り集まった集落で、その職業から周囲からしばしば差別を受けていた。北原怜子はアリの町を訪ね、子どもたちと交流するようになった。しかし、通って手伝っているうちは、しょせん安全な場所にいて見下している傲慢な施しにすぎないと思いいたり、23歳のとき、アリの町に引っ越し、そこの住人となって、土地の人々といっしょに暮らし、いっしょにごみを集めはじめた。ピアノを弾き、音楽会に足を運び、スペイン語を習っていたお嬢さまが、高校教師の口を断って、ゴミ屋になった。「教授令嬢があき缶拾い」と新聞に取り上げられ、「アリの町のマリア」として有名になった。彼女はアリの町の子どもたちを箱根旅行へ連れだし、運動会を開催し、共同募金や戦犯死刑囚助命の運動を展開し、24歳になる年に、著書『蟻(あり)の街の子供たち』を出版した。
1958年1月、過労に腎臓病が重なり、アリの町で没した。28歳だった。

北原怜子がキリスト教に心ひかれるようになったのは、焼け野原となった東京で、戦争中は日本人たちからずいぶん迫害を受けていた外国人修道女のシスターたちが、戦前と変わらないやさしい態度でもって、日本人に接しているのを見て、打たれたのだった。世の中はすべてが変わったが、変わらぬものもある、と。
それで怜子は、妹が学校へ進むにあたり、光塩女子学院を強く推した。それが縁で、彼女は光塩女子学院を運営しているメルセス会に入信するようになった。

メルセス修道院はもともと、十字軍の時代のヨーロッパで、イスラム教徒が捕虜にしたキリスト教徒たちを奴隷としてアフリカへ連れ去るのを、解放する基金を集めようとはじめられた団体だった。そして、人質解放用の資金が足りないため、後には、修道士たちがみずから犠牲となり、一人の修道士がひとりの捕虜の身代わりとなって奴隷となり、そうやって捕虜の解放をはじめた。
「その名ごりで、今日でもなお、メルセス会の修道女になるには、清貧、貞操、従順のほかに、『必要があれば、教外者のために生命を捨てる』ことを誓うことになっています。」(松井桃樓『アリの町のマリア 北原怜子』春秋社)
北原が洗礼を受けたのは、この話に感銘を受けたためだった。
(2021年8月22日)



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