1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月21日・アルフレッド・ノーベルの陰影

2019-10-21 | 科学
10月21日は、あかりの日。1879年のこの日、米国の発明王エジソンが日本の京都産の竹を使って白熱電球を作った。10月21日はまた、ダイナマイトを発明したノーベルの誕生日でもある。

アルフレッド・ベルンハルド・ノーベルは、1833年、スウェーデンのストックホルムで生まれた。父親は建築家、発明家だった。4人目の子どもとして生まれたアルフレッドは未熟児で、生涯からだの弱さをひきずっていた。
アルフレッドは、少年時代は詩人志望で、語学に秀で、スウェーデン語、英語、フランス語など五カ国語で読み書きできた。
彼は16歳の年に米国へ旅行し、ロシアへもどってから、爆薬であるニトログリセリンの研究をはじめた。液状のニトログリセリンは少量で大きな爆発を起こすことができたが、不安定で扱いがむずかしく、爆発事故が絶えなかった。
ノーベルは実験室で、数えきれない回数の爆発実験をおこない、33歳のころ、ついにダイナマイトを完成した。これは、ニトログリセリンを珪藻土(けいそうど)にしみこませることで、扱いが安全な、爆発力が大きい爆薬としたものだった。
ノーベルはダイナマイトの特許を各国で取得し、ダイナマイトを生産する会社を興した。ダイナマイトは世界各地の採掘現場や工事現場で用いられ、ノーベルは世界有数の富豪となった。
51歳のころには、無煙火薬のバリスタイトを発明。これは、爆発しても黒煙が出ず、ただ蒸気だけが発生するという爆薬で、軍需産業を一変させる画期的なものだった。
57歳の年、ノーベルの昔の知り合いが、ノーベルが特許をもつバリスタイトに、ほんのわずかな変更を加えてコルダイトというべつの火薬とし、特許をとった。ノーベル火薬会社は、これに対し訴訟を起こしたが、結局裁判ではワーベル側が負けてしまった。
ノーベルは、1896年12月、イタリアのサンレモで脳溢血のため没した。63歳だった。

ノーベルは、自分の莫大な遺産の一部を原資として、毎年、科学ほかの分野ですぐれた業績をあげた人に賞を授与するよう遺言を残し、これに基づいて、ノーベル賞が創設された。当初のノーベル賞は、物理学、化学、医学または生理学、文学、そして平和賞の5部門で、経済学賞は後に作られた、正確にはスウェーデン国立銀行賞である。

ノーベルは生涯、独身を通し、子どももいなかった。
59歳のとき、ノーベルは手紙にこう書いている。
「僕が今までにしてきたことと言えば、鉛のように自分をぺしゃんこに押し潰すことだけです。」(ケンネ・ファント著、服部まこと訳『アルフレッド・ノーベル伝』新評論)
独創的な発明家であり、熱心な研究家だったノーベルは、生前から莫大な資産を築き、大富豪のまま死んだという意味では、歴史上の天才たちのなかでは恵まれた人だったのかもしれない。けれど、本人は、大成功し愉快な生活を楽しんでいる、という境地からはほど遠い思いで晩年を生きたようだ。
ノーベルの生涯はにがい陰影に満ちていて、人生についていろいろと考えさせる。
(2019年10月21日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。ノーベル、エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


●電子書籍は明鏡舎。
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10月20日・アルチュール・ランボーの火花

2019-10-20 | 文学
10月20日は、『堕落論』を書いた無頼派作家、坂口安吾(1906年)が生まれた日だが、象徴派の詩人、アルチュール・ランボーの誕生日でもある。

ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボーは、1854年、北フランスのシャルルヴィルで生まれた。父親は陸軍歩兵部隊の大尉で、母親は厳格なカトリック教徒だった。
ジャンが6歳のころ、両親が別居し、子どもたちは母親といっしょに暮らした。
11歳のとき、高等中学校に入学したジャンは、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、古代史などに抜群の成績をおさめた。
ランボーの思春期は、プロシア・フランス戦争、第三共和制、パリ・コミューンという戦乱の時代で、刺激のすくない田舎暮らしのなかで、ランボーはいてもたってもいられず、家出を繰り返し、パリを放浪した。
16歳のとき、パリの叙情詩人、ヴェルレーヌとパリで同棲をはじめ、ランボーが18歳のとき、ヴェルレーヌがランボーをピストルで撃ち、二人は決別した。
ランボーが詩集『地獄の季節』『イリュミナシオン』を書いたのはこの前後で、書き終えた20歳のランボーはそれ以後、生涯、詩を書かなかった。
ランボーは、欧州諸国を放浪し、26歳の年に、貿易会社の社員となり、アビシニア(エチオピア)で銃器の売買をおこなった。30歳のころには、独立して、アフリカで象牙、コーヒーの貿易、また武器の密輸に携わるようになったが、やがてリューマチに苦しみだし、右ひざに悪性腫瘍ができたため、仏国のマルセーユまでもどり、入院した。
36歳のとき、右脚を切断。いったんは退院したが、病状が悪化し、再入院した病院で、1891年11月、ランボーは没した。37歳だった。

ランボーの詩は、そこに登場してくる一つひとつのイメージがとても鮮烈で、ことばでつづられる内容の展開が、いちいちひねりが効いている。それがランボーの魅力である。

「平然たる非情の大河をくだってゆくうち、
 いつかおれはもう船曳きどもの導きを感じなかった。
 喊声あげる赤肌のインディアンらがかれらを的にと引っ捕え、
 彩色した杭にずらり裸で釘づけにしていたのだ。」(渋沢孝輔訳「酔いどれ船」『フランス名詩選』岩波文庫)

ランボーが詩を書いたのは、たった5年間ほどで、書いた詩も、とうぜんそんなに多くはない。でも、彼のことばの強烈な魅力は、たぶん人類が続いているうちは、永遠に輝きつづけるだろう。鋭い感受性と、若い情熱、そして明晰な頭脳が、思春期のランボーのなかで、たまたま出会い、はげしく火花を散らした。散った火花は、そのまま世界文学の奇跡となった。ランボーというのは、そういう現象だ。
読むと、その火の粉を浴びて、心が熱くなる、そういう詩人である。
(2019年10月20日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


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10月19日・チャールズ・メリルの指南

2019-10-19 | ビジネス
10月19日は、「映画の父」リュミエール兄弟の兄、オーギュスト・リュミエールが生まれた日(1862年)だが、米国の金融証券会社、メリルリンチを創設したチャールズ・メリルの誕生日でもある。

チャールズ・エドワード・メリルは、1885年、米国フロリダ州のグリーンコーブスプリングスで生まれた。父親は医者で、少年時代のチャールズは父親のやっている薬局をよく手伝ったという。チャールズは22歳の年にミシガン大学のロースクールを卒業した。
卒業後、カーテンやレースを製造する会社や、会社の約束手形や債権を扱う会社に勤務した後、29歳の年にチャールズ・E・メリル社を興して独立した。
翌1915年、30歳の年に、友人のエドマンド・リンチを共同経営者に迎え、社名を「メリル・リンチ」とした。メリルは、投資によって資金を増やし、さらに成長しそうな企業に再投資し、資金を増やしていった。
1929年の大恐慌が起こる以前から、メリルは恐慌の危険を察知していて、当時の第30代大統領のクーリッジに、国民に投機的行動をひかえるよう声明を出すべきだと訴えたが、大統領はこれを無視した。
メリルは自分の関係する証券を売却した。そして、1929年10月、ウォール街の株式が大暴落し、大恐慌がはじまった。
大不況のなか、彼は将来、チェーンストアが小売業界を支配すると予想し、セーフウェーや、Kマートの前身に積極的に投資した。セーフウェーはたちまち全米に3500店以上のチェーン店を展開する大企業に成長し、Kマートは世界的なコンビニエンスストアとなった。
メリルは、それまで証券取引所で直接取引されていた株式を、テレタイプによって通信でつなぎ、各地の支店で売買できるようにし、また、これからは、広く一般家庭の夫や主婦が株式を保有し、投資する時代だと、社員たちには夫婦そろって投資セミナーで勉強できるよう、託児所まで用意して勉強させ、金融投資の普及に努めた。
「ウォールストリートから、メインストリートへ」
というのが彼のうたい文句だった。
生涯に3度結婚し、
「バッテリーに充電するため(recharging my batteries)」
と称して、数多くの浮名を流し、新聞のゴシップ欄を賑わせた陽気で派手好きの男、メリルは、晩年は財団を設立し、科学機関や大学などへ寄付や援助をする慈善事業に力を入れた。1956年10月、71歳になる2週間前に没した。

チャールズ・メリルは、投機でなく、健康的で良識ある企業への投資を社会に広めた、投資の布教家、伝道師だった。
それにしても、大恐慌前後の彼のとった行動を見ると、その先見の明は神のごとくで、驚かされる。すべてがいいように見えるときにも危険はあり、八方塞がりに見えるときでも道はあって、それは見る人が見れば、ちゃんと見えるのである。
(2019年10月19日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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10月18日・ベルクソンの構え

2019-10-18 | 思想
10月18日は、「ジョニー・B・グッド」を書いた米国のギタリスト、チャック・ベリーが生まれた日(1926年)だが、哲学者、アンリ・ベルクソンの誕生日でもある。

アンリ=ルイ・ベルクソンは、1859年、仏国のパリで生まれた。父親はポーランド系ユダヤ人の音楽家だった。
18歳のとき、全国数学コンクールで一位を獲得した秀才だったアンリは、22歳のときに教授資格試験に合格し、30歳のときには『時間と自由』を書き、博士号を取得。
32歳のとき、ルイーズ・ヌービュルジェと結婚した。ルイーズは、『失われた時を求めて』を書いた作家、マルセル・プルーストのいとこで、結婚式では花嫁の付き添い役をプルーストが務めたという。
フランスの学問・教育の頂点のひとつを担う国立の高等教育機関、コレージュ・ド・フランスの講師を務めた後、41歳のとき、同校の哲学教授に就任した。
学校での講義以外にも、イタリアや英国など海外のさまざまな場に招かれ、さまざまなテーマについて講演をおこなった。
その国際的名声をたのまれ、58歳のときには、米国に第一次世界大戦への参戦をうながすための使節として派遣され、63歳で、国際連盟の国際知的協力委員会の議長となり、68歳のとき、ノーベル文学賞を受賞した。
60代なかばからリューマチをわずらっていたベルクソンは、第二次世界大戦中の1941年1月、ドイツ占領下のパリで気管支炎により没した。81歳だった。
著作に『物質と記憶』『笑いについて』『創造的進化』『精神のエネルギー』『持続と同時性』『道徳と宗教の二源泉』などがある。

ベルクソンは科学をはみ出した人で、彼は心霊研究会の集まりに顔を出した。失語症の研究から、精神と肉体は完全には照合しないことを発見した。

ベルクソンこそ、20世紀最大の哲学的問題だった。そして、いまだにベルクソンの問題は解決されていない。
たとえば、これは小林秀雄が講演で言っていたことだけれど、科学が仮定しているところによれば、人間の頭脳を細部にわたって精密に分析していけば、そのメカニズムを観察することによって、その人がどういう気持ちでいるかとか、自由についてどんな考えをもっているかとかが、わかるはずだ、というのが科学の確信である。なぜなら、科学は、肉体と精神は完全に並行しているという仮定に立って研究を進めている学問だからで、その大前提としている仮定が正しいかどうかは、科学者の知ったことではない。それは哲学の問題になる。その哲学の問題を、ほとんどの哲学者が引き受けなかったところ、ベルクソンは引き受けた。だから、ベルクソンの哲学は科学の領域を軽くはみだして、霊とか魂とかの分野にも平気で踏み入っていく。ベルクソンというのは、そういう大きな構えの思想家だった。ベルクソンは言っている。
「どこまで行けるか、確める方法は唯一つ。すぐにでも、出発して、歩き始めることだ。」
(2019年10月18日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家のとらえた「生」の実像に迫る哲学評論。ベルクソン、ブッダ、道元、ルター、デカルト、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、オーロビンド、クリシュナムルティ、マキャヴェリ、ルソー、マックス・ヴェーバー、トインビー、ブローデル、丸山眞男などなど。生、死、霊魂、世界、存在、認識などについて考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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10月17日・リタ・ヘイワースの舞

2019-10-17 | 映画
10月17日は、仏国の社会思想家、サン=シモン伯爵が生まれた日(1760年)だが、ハリウッド女優、リタ・ヘイワースの誕生日でもある。

リタ・ヘイワースは、1918年、米国ニューヨーク市のブルックリンで生まれた。本名は、マルガリータ・カーメン・カンシーノ。両親はカトリックで、ダンサーだった。「ヘイワース」は母親の姓である。マルガリータは3歳半のころから毎日ダンスの練習をさせられ、6歳のときには人前で踊り、8歳のときには短編映画に出演した。
彼女が9歳のころ、一家は西海岸のハリウッドへ引っ越し、父親はダンス教室を開いた。引っ越した2年後に大恐慌がはじまり、父親の新事業はたちまち傾いた。窮した父親は、娘のマルガリータをダンスのパートナーにして、メキシコの国境の街、ティワナのクラブでダンサーとして勤めた。米国の法律では、マルガリータは労働するにはまだ若すぎ、ティワナはロサンゼルスの米国人が大勢遊びにやってくる街だったからである。
高校へ通いながら、クラブで踊っていたマルガリータを、たまたまフォックス映画社の社長が見て、気に入り、彼女はフォックス社と半年の短期契約を結んだ。彼女は芸名を「リタ・カンシーノ」として何本かの映画に出たが、ぱっとしなかった。
その後、コロンビア映画に移り、髪を暗い赤に染め、芸名を「リタ・ヘイワース」と改めると、彼女の人気はにわかに高まりだし、コロンビアは彼女を新しいスターとして売り出しはじめた。そうして「血と砂」「踊る結婚式」「ギルダ」などに主演し、ヘイワースは押しも押されぬハリウッドの看板スターとなった。
「セックス・シンボル」と呼ばれた彼女はこうコメントしている。
「ほかのみんなはヌード・シーンを撮るけれど、わたしは撮らなかった」
私生活では、ヘイワースは18歳から43歳までのあいだに5度結婚している。彼女が結婚した相手は、横暴だったり、暴力的だったり、彼女を経済的に食い物にしたりする男たちで、いずれの結婚も5年以上続かなかった。スター女優としてばく大なギャラを得ていた彼女は、5度目の離婚をしてみると、二人の娘を抱えた一文なしの母親になっていた。
アルコール依存症だったと言われるヘイワースは、54歳のころ、経済的に困り、ふたたび映画に出演した。しかし、このころにはせりふが覚えられず、彼女が出る場面は、彼女が一行のセリフを言うごとにカットしなくてはならなかった。アルコール依存もあったが、アルツハイマー病のせいだった。1987年5月、ヘイワースはアルツハイマー病により、ニューヨークで没した。3カ月ほど前から昏睡状態に陥っていた。68歳だった。

「ギルダ」を観ると、彼女がとても健康的なセックス・シンボルだとわかる。魅力的で、存在感が大きい、大輪の花、芍薬である。彼女の人生は極端な幸不幸が交互みくるまわり舞台だったけれど、立派に、誠実に生きた、いい人生の挑戦だった。

ヘイワースは、こうコメントしている。
「わたしの人生の宝石と言えるのは、フレッド・アステアと撮った作品だけよ」
「ザ・ダンサー」アステアといっしょに踊りまくったのは、小さいときからダンサーとして鍛えられた彼女にとって、格別な思い出なのにちがいない。アステアとの共演作「踊る結婚式」「晴れて今宵は」のダンスは必見。
(2019年10月17日)



●おすすめの電子書籍!

『映画の英語名ゼリフ』(金原義明)
英語映画の名作から、元気になる名ゼリフ、癒される名文句の数々をピックアップして原語(英語)を解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新スタイルの映画紹介。「アナと雪の女王」「ハリー・ポッター」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ブレードランナー」「燃えよドラゴン」「ローマの休日」「シェーン」「カサブランカ」「風と共に去りぬ」などなど歴代の名作が目白押し。これだけは聞き取りたいという輝く英語フレーズが満載。これであなたも映画英語の通人。


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10月16日・オスカー・ワイルドの才

2019-10-16 | 文学
10月16日は、英語辞書を作ったノア・ウェブスターが生まれた日(1758年)だが、英国の作家、オスカー・ワイルドの誕生日でもある。『幸福な王子』の著者である。

オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルドは、1854年、アイルランド、ダブリンのプロテスタントの家庭に生まれた。父親は医者だった。
子どものころからしゃれ者だったワイルドは、17歳の年にダブリンのトリニティー・カレッジに入学し、在学中、古典の成績や詩作によって賞やメダルをつぎつぎと獲得した。
彼はイングランドのオクスフォード大学の奨学金を獲得して、20歳のとき、特待生として同大学に入った。英国の最高学府、オクスフォードでは、学生の90パーセントが男色に関係していた。学生寮で派手な生活をはじめたワイルドは、ギリシア旅行に出かけ、イタリアのラヴェンナやローマをまわって帰ってきた。ワイルドは、卒業前に長詩『ラヴェンナ』を書き、ニューディゲート賞に入賞した。この賞はオクスフォード大学内のコンテストで、詩人の登竜門とされていた。入賞作品は、審査主任の教授のていねいな添削を受けた後に印刷されるのが慣例で、ワイルドも教授にこまかな修正の指示を受けたが、自信家のワイルドは自作を一字一句直すことなく『ラヴェンナ』はそのまま出版された。若きワイルドはこう言い放った。
「毎年誰かがニューディゲート賞をとるのだ。しかしニューディゲート賞は毎年オスカーをとることはできない」(平井博『オスカー・ワイルドの生涯』松柏社)
オクスフォード大学を首席で卒業し、唯美主義を標榜する詩人、小説家、劇作家として成功した。「芸術のための芸術」を主張するワイルドは、米国へ講演旅行に出かけ、大成功をおさめ、彼は世界的名声に包まれて英国に帰還した。
小説『アーサー卿の犯罪』『ドリアン・グレイの肖像』、童話『幸福な王子』、戯曲に『ウィンダミア卿夫人の扇』『サロメ』『まじめが肝心』などを書き人気を博した。
ワイルドは当時、16歳年下の青年と男色関係にあった。あるとき、二人の関係を知った青年の父親から訴訟を起こされ、事件はこじれた。当時の英国では男色は犯罪だった。ワイルドは逮捕され、裁判に敗れ、2年間の禁固刑を受けた。さらに獄中で破産宣告を受けた。『獄中記(De Profundis、深淵より)』を書いた。出獄したワイルドは、仏国で知己を頼って過ごし、1900年11月、脳膜炎のため、パリのホテルで没した。46歳だった。

ワイルドはもっとも長く親しんできた外国人作家で、翻訳本や研究書、英語の全集を持っている。あふれんばかりの才能の人だった。
拙著『名作英語の名文句』『名作英語の名文句2』の両方でワイルドの作品を取り上げた。ワイルドの文章は、頭韻や脚韻、同一子音の連続など修辞学的技巧が自然にそなわっていて、流れるような音楽的効果をあげ、音読さずにはいられない、とても美しいものである。「ことばの王(a lord of language)」を自負していたワイルドは言っている。

「結婚の正しい基礎は、たがいの誤解にある(The proper basis for a marriage is a mutual misunderstanding.)」

ことばこそ大事だ、とワイルドは教えてくれる。ことばは、すでにある語句の組み合わせにすぎない。けれど、その組み合わせ方が下手か上手かによって、人生はつまらなくもなるし、すばらしく輝きもする。
(2019年10月16日)



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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「獄中記」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!


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10月15日・ニーチェの自信

2019-10-15 | 思想
10月15日は、『言葉と物』を書いた哲学者、ミシェル・フーコーが生まれた日(1926年)だが、「神は死んだ」と言った哲学者、フリードリヒ・ニーチェの誕生日でもある。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、1844年、現在のドイツのリュッケンで生まれた。父親は元教師でルター派の牧師だった。
フリードリヒは20歳の年にボン大学へ入学した。神学と古典文献学を修めた彼は、25歳の年にバーゼル大学の古典文献学の教授となった。
28歳で『悲劇の誕生』を出版。ニーチェはこの処女作で、明るい夢的な「アポロ的なもの」と、妖しい陶酔的な「ディオニュソス(バッカス)的なもの」という対照的な概念を提議した。
35歳のとき、偏頭痛や胃痛や、ほかのけがや病気の後遺症が重なって、体調をくずしたニーチェは大学を退職し、以後は在野の学者として著述生活を送った。
1883年、イタリアのジェノヴァに近いラパロの入り江にニーチェは滞在していた。その土地で彼は午前と午後に散歩するのを日課にしていたが、散歩の途中でとつぜん『ツァラトゥストラ』第一部の全体の構想が心に浮かんだ。
ニーチェはとりつかれたように机に向かい、それから10日間で『ツァラトゥストラはかく語りき』の第一部を一気に書き上げた。
『ツァラトゥストラ』は、ツァラトゥストラ(ゾロアスター)を主人公とした物語で、山で修行していたツァラトゥストラが、山から下りてきて、各地を旅しながら、人々に生きる思想を説いてまわる。
ツァラトゥストラは「神は死んだ」とつぶやき、神のいない時代である現代では、人生は価値のないものとなり、人はニヒリズム(虚無主義)に陥る、と説く。それが永遠に繰り返されるのが「永劫回帰」であり、それが人間の運命である。これを克服するには、
「よし、人生とはこういうものか。ならばもう一度生きてみよう」
と運命を積極的に受け入れ、それに挑む能動的ニヒリズムの態度が必要で、こうして人間であることを克服した者を「超人」と呼ぶ、と。
この書物は世界に強烈な衝撃をもって走り、人類の思想と文学に多大な影響を与えた。
1889年のはじめ、44歳のニーチェは、イタリアのトリノに滞在していて、街の広場で馬車ひきが馬を殴っているのを見て憤慨した。彼は馬車ひきを怒鳴り、逆上して倒れ、病院へ運ばれた。彼は発狂し、それきり、生涯正気にもどらなかった。
1900年8月、ニーチェは肺炎のため、ヴァイマールで没した。55歳だった。

永劫回帰、ニヒリズムの克服、超人、ラクダ・獅子・小児の精神の三様などなど、ニーチェの思想にはとてもお世話になった。

ニーチェの文章は、直観的、断定的で、およそ古典文献学の教授だったとは思われない論理的飛躍の連続である。でも、そこがニーチェのニーチェたるゆえんで、彼の魅力である。また、ニーチェは自分を天才だと完全に信じきって疑わない。いつも自信たっぷりの書きぶりで、読んでいて楽しい。その辺の新興宗教の教祖などふき飛んでしまいそうなうぬぼれぶりで、人間、これくらいの自信をもって生きたいものである。
(2019年10月15日)



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『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家のとらえた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、道元、ルター、デカルト、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、オーロビンド、クリシュナムルティ、マキャヴェリ、ルソー、マックス・ヴェーバー、トインビー、ブローデル、丸山眞男などなど。生、死、霊魂、世界、存在、認識などについて考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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10月14日・会田誠の疾走

2019-10-14 | 美術
10月14日は、「ポロ」ブランドで知られるファッションデザイナー、ラルフ・ローレンが生まれた日(1939年)だが、現代日本を代表する芸術家、会田誠の誕生日でもある。

会田誠は、1965年、新潟で生まれた。父親は社会学を教える大学教授だった。子どものころ、授業中も落ちつきなく歩きまわる多動性障害児童だったという誠は、東京芸術大学で油彩画を学び、26歳の年に同大学院を卒業し、同年「あぜ道」を発表した。
「あぜ道」は、タテ70チメートル、ヨコ50センチほどのアクリル画で、田んぼのなかに後ろを向いて立ったセーラー服の少女の肩から上がアップで描かれている。少女は髪を左右で結んでいて、髪はまん中で分けられているのだけれど、髪の分け目がそのまま背景のあぜ道と一本につながっている、というだまし絵のような作品だった。
28歳のときには「巨大フジ隊員VSキングギドラ」を発表。これはタテ3メートル、ヨコ4メートルもあるアクリル画の大作で、住宅街に身長百メートルくらいに巨大化した「ウルトラマン」の科学特捜隊の女性隊員、フジ隊員が、家々を押しつぶす恰好で倒れていて、そこにたくさんの頭をもつ怪獣、キングギドラがからみついている構図だった。フジ隊員の衣服ははがされ、乳首がさらされ、キングギドラの頭のひとつは彼女の腸をくわえて引きだし、ひとつは彼女の陰部にもぐりこんでいた。
以後、会田は、「ジューサーミキサー」「切腹女子高生」「滝の絵」「灰色の山」「電信柱、カラス、その他」など、スクール水着やセーラー服、あるいは全裸の美少女が躍動し、戦争や殺りくなど残虐、無残な風景が淡々と描かれた美しい問題作をつぎつぎと発表しつづけている。

以前、会田誠の個展を観にいった。エロ、グロ、ロリコンが満開、意図的にタブーを前面に押しだした芸術作品が、これでもかと並べられ、日ごろから商業デザインばかり目にして頭が硬くなっていたので、忘れかけていた芸術の自由の風にさわやかに吹かれ、脳が解放された。

それは、これまでの会田誠の主要作品が網羅された回顧展で、壮観だった。絵画作品や立体オブジェのほか、ビデオ作品もあって、ビン・ラディンに扮した会田がこたつに入って、ひとり酒を飲んでくだを巻いている動画や、会田が全裸になって、「少女ポルノ」だったか、なにかわいせつな熟語を書いた文字の前に立ち、その文字だけで欲情できるかに挑み、延々とひたすらマスターベイションに励んでいるビデオもあって、感心した。
「この人はほんとうになんでも体当たりでやってしまう人なんだ」
彼の作品に、眉をしかめる人、嫌悪する人はすくなくないだろう。なんで、こんなものを描くのか、と。しかし、その芸術的なインパクトの鮮やかさといったらなかった。美少女をさらりと描き上げる技量もさることながら、芸術を創造する上では、倫理観とか善悪とかにはこだわらず、考えたまま、感じたままに表現に走る、その純粋さ、度量の大きさに感じた。現代日本の芸術の最先端を突っ走っている芸術家である。
(2019年10月14日)



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『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らがいかにして作品を創造したかに迫り、鑑賞者はその美をどうとらえるべきか解説する美術評論集。会田誠など現代作家から、ウォーホル、岡本太郎、ダリ、棟方志功、シャガール、ピカソ、上村松園、ゴッホ、ルノワール、モネ、レンブラントをへて、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチなどルネッサンスの作家までをたどり、通読するとおのずと美の変遷史が把握される「読む美術史」。芸術作品の見方がぐっと深まる目からウロコの書。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com

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10月13日・ポール・サイモンの愁

2019-10-13 | 音楽
10月13日は、英国首相だったマーガレット・サッチャーが生まれた日(1925年)だが、音楽デュオ「サイモンとガーファンクル」のポール・サイモンの誕生日でもある。

ポール・フレデリク・サイモンは、1941年、米国ニュージャージー州のニューアークのユダヤ人家庭に生まれた。父親はウッド・ベースを弾くミュージシャンで、母親は小学校教師だった。ポールが5歳のころ、一家はニューヨーク市のクイーンズ地区へ引っ越した。そこの小学校で、ポールは、同い年の美声のユダヤ人少年、アーサー(アート)・ガーファンクルと出会った。二人は気が合い、デュオを組んだ。
17歳のとき、彼らは「トム・アンド・ジェリー」という名前でレコード・デビュー。
23歳のときには、「サイモンとガーファンクル」としてレコードを出した。24歳のときのシングル「サウンド・オブ・サイレンス」がヒットし、彼らはスターダムへの階段を上りはじめた。この曲は、2年後に公開された映画「卒業」に使われ、同映画に使われた「スカボロー・フェア」「ミセス・ロビンソン」も大ヒット。ポール・サイモンが書く愁いを含んだ知的な詞と美しい旋律、そして、アート・ガーファンクルの澄んだ声がうまくマッチして、二人は世界的なスターとなった。
その後、サイモンとガーファンクルは「ボクサー」「明日に架ける橋」「アメリカ」などの名曲を発表した後、サイモンが20代を終えるころには、二人の音楽の方向性のちがいが明らかとなり、事実上解散し、ソロとなった。
ソロになったサイモンは「時の流れに(Still Crazy After All These Years)」「グレイスランド(Graceland)」などの名作アルバムを発表し、高い評価と人気を集めつづけている知性派のシンガーソングライターである。

SF映画「スター・ウォーズ」のレイア姫役を演じた女優、キャリー・フィッシャーと、ポール・サイモンが結婚したというニュースには驚いた。当時サイモンは42歳、フィッシャーは27歳だった。
「人気ミュージシャンは、いくつになってもモテていいなあ」
という話だが、実際には、そう単純な結婚でもなかった。
彼らは1年後には破局を迎えた。フィッシャーは後にこうコメントしている。
「結婚は問題の解決にならなかったわ、そのために結婚したのにね。人と人との関係では、そんなことしてはいけないのよ。問題を解決するために結婚するなんて。」(ジョゼフ・モレラ、パトリシア・バーレイ著、福島英美香訳『サイモンとガーファンクル』音楽之友社)
彼らは5年間、つきあい、別れ、またよりをもどし、を繰り返した後に結婚し、すぐに離婚したのだった。そこにはいろいろな問題があったと本を読んで知った。人の人生というのは、うわべを見ただけではわからないものである。

ポール・サイモンの名曲「時の流れに(Still Crazy After All These Years)」の原題はこういう意味である。
「いろいろなことがあった時代の後で、ぼくはいまだにいかれたままだよ」
(2019年10月13日)


●おすすめの電子書籍!

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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10月12日・三浦雄一郎の純

2019-10-12 | スポーツ
10月12日は、プロボウラーの中山律子さんが生まれた日(1942年)だが、プロスキーヤー、三浦雄一郎の誕生日でもある。

三浦雄一郎は、1932年、青森で生まれた。父親は農林省の役人で、山岳スキーヤーだった。子どものころは病弱で、小学校のころは結核、肋膜炎を患い、長いあいだ入院していたという雄一郎は、親の仕事の都合でたびたび転校した。小学校時代からスキーだけは熱心で、中学、高校のときには、地元のスキー大会や、県下の高校生スキー大会で優勝するなどの記録を残した。
北海道大学の獣医学部に入り、卒業後は、同大獣医学部の助手を務めた。
26歳のとき、助手をやめ、スキー競技に出場したり、一時期は北アルプスで、登山者の荷物を背負って運ぶ歩荷(ボッカ)をしたりしていた後、30歳の年に世界プロスキー選手権に参加。以後、プロスキーヤーとして活躍した。
33歳のときに、ブレーキ用のパラシュートを背負って富士山を直滑降で降りた。
38歳で、エベレスト山の8000メートルス地点からスキーで滑降した。このときは、たまたまあったアイスバーンの穴にはまって、命拾いをしたという。
54歳で、世界七大陸の最高峰からの滑降をやり遂げた後は、冒険からは遠ざかっていたが、90代になってなおモンブランでのスキーに挑もうとする父親や、無酸素でエベレスト登頂に挑む息子などに触発されて、再起を決意。日々鍛練に励み、準備した後、2003年、70歳でエベレストに登頂するという当時の世界最高齢登頂記録を作った。
その後、この記録が塗り替えられたことに発奮し、ふたたび訓練にはげみ、2013年5月の80歳での登頂成功の快挙となった。

80歳になった三浦雄一郎が、エベレストに出かける前、たまたまテレビで、彼が作家・政治家の石原慎太郎と対談しているのを見た。
そのとき、三浦は毎日のトレーニングについて話した。彼は都心に住んでいるが、毎日、重りをつけた靴をはき、何十キロかの重りの入ったリュックを背負って、自転車で青梅街道を走って、高尾山のふもとまで通っていた。片道50キロメートル近い距離である。それからふもとに自転車をおき、標高600メートルの高尾山を登ってくる。そして、都心の自宅まで自転車で帰る。それを毎日の日課にしている、と。これが80歳すぎの人間のやることとは。

対談の発言からすると、三浦は、冒険に挑むなかで死ぬことについては、とくに恐怖を感じないらしかった。まわりにいた登山家やスキーヤーたちが死んでいくのを見ているし、自分も運が悪ければ、いつ死ぬかもしれない。そのときはそのときで、死ぬだけのことだ、と肚をくくっているわけである。もちろん、死にに行くわけではなく、死なずに目標をやり遂げられるよう、できるかぎりの準備はしていく。
何をやるのかがはっきりしていること。それから、恐怖とか不安とか、損得とか欲とかの余計な雑念にかまわず、まっすぐ目標に向かってひたすら努力を重ねていくこと。
このシンプルさが、肝である。
(2019年10月12日)



●おすすめの電子書籍!

『つらいときに開くひきだしの本』(天野たかし)
苦しいとき、行き詰まったときに読む「心の救急箱」。どうしていいかわからなくなったとき、誰かの助けがほしいとき、きっとこの本があなたの「ほんとうの友」となって相談に乗ってくれます。いつもひきだしのなかに置いておきたいマインド・ディクショナリー。


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