1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月11日・川久保玲の前傾

2019-10-11 | ビジネス
10月11日は、ジャズドラマー、アート・ブレイキーが生まれた日(1919年)だが、ファッションデザイナーの川久保玲の誕生日でもある。「コムデギャルソン」の創設者である。

川久保玲は、1942年に、東京で生まれた。父親は大学の職員だった。慶応大学の文学部哲学科を出た彼女は、22歳の年に旭化成の宣伝部に入社した。
25歳のころに退社してフリーのスタイリストとなっ彼女は、あるとき、撮影のために必要な、イメージしている服が見つからなかったため、自分で服を作った。それをきっかけに、服のデザイン、縫製などすべてを自分で手がけるようになった。
27歳の年に、ファッションブランド「コムデギャルソン」を立ち上げ、婦人用のプレタポルテ(高級既製服)の製造・販売を開始。
その後、株式会社コムデギャルソンを設立し、社長に就任した。
33歳のときに東京コレクションに参加し、39歳からパリ・コレクションに参加した。無性別的で、アバンギャルドなファッションは世界を驚かせ、彼女がデザインした黒い穴のあいたセーターは「黒の衝撃」と呼ばれた。以後、つねに既成概念を打ち破る新しい個性を、前衛的なファッションを通じて提示しつづけている。
世界各国に店舗を展開し、フランス芸術文化勲章、英国王立芸術大学名誉博士号、フランス国家功労章などを受賞している。

「コムデギャルソン」というのは「少年のように」という意味で、「少年の持つ冒険心」をあらわしているらしい。
「ボロルック」と呼ばれた服や、生地を縫わずにテープでとめたジャケットも発表している。遊び心というのか、とんがった姿勢というのか、そういう未知に挑む精神を、ファッションで表現しているのが川久保玲である。哲学科出身のフッションデザイナーというのが、すでにかっこいい。おしゃれに思想があるのである。

新聞のインタビューで、彼女はこんなコメントをしていた。
「すぐ着られる簡単な服で満足している人が増えています。他の人と同じ服を着て、そのことに何の疑問も抱かない。服装のことだけではありません。最近の人は強いもの、格好いいもの、新しいものはなくても、今をなんとなく過ごせればいい、と。情熱や興奮、怒り、現状を打ち破ろうという意欲が弱まってきている。そんな風潮に危惧を感じています」
「1990年代あたりから、強いもの、新しいものを求めるムードがなくなってきました。それがどんどんひどくなってきて、特にここ5年ほどは業界はすっかり内向きになってしまった。そんな流れの中で『どこかで見たことがあるようなものはダメ』と自分を懸命に追い込んできました」(いずれも「朝日新聞」2012年1月7日夕刊)
世界のトップが競う最前線で戦っている彼女ならではのことばだけれど、このとんがり具合はすばらしい。その前傾姿勢を見習いたい。
(2019年10月11日)



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『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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10月10日・野坂昭如の肝

2019-10-11 | 文学
10月10日は、針金細工のように細長い彫刻で知られるスイスの彫刻家、ジャコメッティが生まれた日(1901年)だが、作家、野坂昭如(のさかあきゆき)の誕生日でもある。

野坂昭如は、1930年、東京で生まれた。父親は土木技師で、後に新潟県の副知事になった。昭如が生まれる直前に、両親が別居し、母親は彼を産むと間もなく没した。生まれたばかりの昭如は、神戸へ養子に出された。
戦争中には、疎開した先の福井で、妹を栄養失調で亡くした。このときの体験が後に『火垂るの墓』となった。
終戦後の17歳のとき、盗みをはたらいて捕まり、少年院送りとなったが、新潟にいた実の父親が保証人になって、身請けされた。
旧制新潟高校に入ると、彼が在学中に学制改革で学校は新制新潟大学となった。野坂は大学を退学。上京して、早稲田大学の仏文科に入学した。
在学中から放送用の台本や、コマーシャルソングの歌詞を書くようになり、26歳の年に大学を中退。テレビ番組用のコントや、雑誌に文章を書くようになり、33歳のときに小説『エロ事師たち』発表して小説家となった。
37歳の年に『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞を受賞。「焼跡闇市派」を標榜し、遅れてデビューした「大陸引き揚げ組み」の五木寛之と並び、若者たちに広く読まれるベストセラー作家として一時代を築いた。
52歳のとき、参議院選に出馬して当選。しかし、その半年後に、衆議院選に出るために参議院を辞職。当時、ロッキード事件で係争中だった田中角栄元首相の選挙区である新潟三区から出馬した。そして、田中は当選し、野坂は落選した。
野坂は、歌手としてレコードも出し、コマーシャルにも出演する人気者だったが、73歳のころ、脳梗塞で倒れ、リハビリ生活のかたわら、執筆活動を続けていたが、2015年12月、自宅で倒れているところを見つかり、緊急搬送された先の病院で死亡。死因は心不全。85歳だった。

丸谷才一は、野坂昭如の出た旧制新潟高校の四、五年先輩にあたり、そのつてをたどって、野坂は出版業界へ紹介してもらった経緯があった。出版社の文芸編集者と会うのに、下駄をはいていけと、丸谷はアドバイスしたという。

野坂のデビュー作『エロ事師たち』を褒めてくれた先輩作家たちのなかに三島由紀夫がいて、三島は野坂の才能を絶賛し、しばらくは新聞や雑誌の連載は断り、じっくり腰を据えて書いたほうがいいと、野坂にアドバイスした。野坂は三島の激賞や忠告に感謝しながらも、節操なく、すぐに連載の話を引き受けてしまった。さすが「焼跡闇市派」で、流儀や作法などおかまいなしで、ぬけぬけとタフに生き抜く、肚のすわった作家だった。
(2019年10月10日)


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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹らの現代作家から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、川端康成、江戸川乱歩ら昭和をへて、泉鏡花、夏目漱石、森鴎外などの文豪まで。あなたの読書体験を次の次元へと誘う禁断の文芸評論。


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10月9日・ジョン・レノンの言語

2019-10-11 | 音楽
10月9日は、組曲「動物の謝肉祭」を書いた作曲家、サン=サーンスが生まれた日(1835年)だが、ロックバンド「ザ・ビートルズ」のジョン・レノンの誕生日でもある。

ジョン・ウィンストン・レノンは、第二次世界大戦中の1940年10月9日の夕方、英国イングランドのリヴァプールで生まれた。それは、ナチス・ドイツによるリヴァプールへの最大の空襲があった夜だった。父親のアルフレッドは船乗りだった。
学校でのジョンは、ふまじめ不勉強で、つねに周囲の状況を茶化そうとする不良学生だった。からだの不自由な者のまねをして笑いをとり、教師へ皮肉を投げつけ、授業をサボり、全校的な行事を進んで壊そうと努力する反抗的な生徒だった。
16歳のとき、エルヴィス・プレスリーを聴き、彼はロックンロールに目覚めた。彼は音楽に熱中しだし、「クオリー・メン」というバンドを組んだ。
クオリー・メンが祭りのとき、教会で演奏していると、それを15歳のポール・マッカートニーが聴きに来ていた。演奏終了後、ジョンとポールは対面し、二人は意気投合。ここに史上最強の作曲家コンビ「レノン&マッカートニー」が誕生した。
ジョンは17歳のときにアート・カレッジに入学。相変わらず勉強そっちのけで音楽に入れ込む不良学生だった。
クオリー・メンは、ジョンが20歳の年に「ザ・ビートルズ(The Beatles)」と改名した。かぶと虫(beetle)と、ビート(beat)をかけた、ジョンによるしゃれた命名だった。
ビートルズは、ジョンとポール、そしてジョージ・ハリスン、リンゴ・スターという四人のメンバーで固定し、1962年、ジョンが21歳のときにレコード・デビューを果たした。
ビートルズは米国へ進出し、英国のMBE勲章を受け、彼らは世界のアイドルとなった。彼らは音楽産業を巨大化させ、ショービジネスの産業構造そのものを変えてしまった。
1970年、ジョンが30歳になる年に、ビートルズは事実上解散し、4人のメンバーたちはそれぞれソロ活動へ移行した。ソロ時代のジョンは「ジョンの魂」「イマジン」などを発表し、約5年間の育児休業に入ったが、1980年に活動を再開。新作「ダブル・ファンタジー」を発表した。しかし、その直後の同年12月8日、ジョンはニューヨークの自宅前で射殺された。40歳だった。

十代のジョンがシンシアに送ったラヴレターの写真を見たことがある。「I love you.」が延々と繰り返しつづられているもので、読んで、ちょっとゾッとした。
考えに考え抜いた結論を、ひじょうにシンプルなことばにして、提示する。説明はせず、ただ繰り返す。それがジョンの方法だ。1990年代米国のグランジの方法論に通じる。
一説に、ジョン・レノンは、学習障害の一種であるディスレクシア(難読症、読字障害)だったと言われる。ダ・ヴィンチやエジソン、アインシュタインなども同じ障害を抱えていたとされるが、ことばの理解の仕方が、多くの人と異なるのである。だから彼の歌詞は、聴く者の胸に突き刺さってくるのかもしれない。

29歳のとき、ジョンはこう言った。
「ほかの誰かがそれをやってくれると期待するのは、責任感がないだけだ。『おお、彼はわたしを助けてくれるにちがいない。もしも助けてくれないなら、彼を殺すか、追いだすかしよう』というわけだ。ぼくはそれはまちがっていると思う。」(Geoffrey Guiliano, The Illustrated John Lennon, Chartwell Books, Inc.)
(2019年10月9日)


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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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