2月29日は4年に一度しかこない閏日(うるうび)。この日は、「セビリアの理髪師」の作曲家ジョアキーノ・ロッシーニ(1792年)が生まれた日だが、ミステリー作家、赤川次郎の誕生日でもある。
赤川次郎は、1948年、福岡の博多で誕生した。東京育ちで、桐朋高校を卒業。子どものころから本好きで、会社勤めをしながら小説を書いていた。28歳のとき、『幽霊列車』で「オール讀物推理小説新人賞」を受賞し、作家デビュー。以後、「三毛猫ホームズ」シリーズ、「三姉妹探偵団」シリーズなどを書き、ユーモア・ミステリーともいうべき、独特の味わいの推理小説を量産し、大ベセトセラー作家となった。
1980年代、赤川次郎は「ベストセラー作家」の代名詞だった。
当時は毎年、確定申告が終わると、国税庁から「長者番付」が発表されていたが、彼はその番付の常連だった。
「長者番付」の作家部門に、何年も連続で第一位に君臨しつづけていた。しかも、第二位の作家を大きく引き離し、断トツの一位。さらに、作家の収入などたかが知れているので、総合ランキングの上位に作家が食い込むことはふつうないのだが、赤川次郎は例外で、仕手戦を制した相場師や、土地成り金、大企業の創業家の人間たちに混じって、総合ランキングの上位に顔を出していた。
節税対策、蓄財に無頓着な人物だった、とも言えるだろう。
デビュー作の『幽霊列車』には感心した。軽いタッチで描かれたミステリーで、おもしろかった。それまで、推理小説というのは、重苦しい、緊張の張りつめたものがほとんどだったけれど、赤川次郎はそういうミステリー界に吹き込んだ心地よい新風だった。現在、流行しているライト・ノベルのはしりで、若い世代に圧倒的な人気があった。
彼の母校の、桐朋高校の国語教師と話したことがあり、その人は赤川次郎がいたクラスを教えたことがあって、次郎少年を覚えていた。
「いい子でしたよ、とっても」
赤川家は母子家庭で、次郎少年は大学受験が思うようにいかなくて、家計のこともあり、浪人をあきらめ、就職していった、そういう事情だと聞いた。
父親は家庭を捨てて、べつに家庭をもって別居していたらしい。
どこかのエッセイのなかで赤川次郎はこういう意味のことを書いていた。
「若いころから、小説を書くのが好きで、それが本になるとか、お金になるとか、とはべつに、自分は一生、小説を書きつづけていこうと心に決めた。学校を出て、就職した。朝、職場に出かけ、仕事をして、帰りに一杯やる集まりがあると、それにつきあって、夜遅くに帰ってくる。それから小説を書いて、3時間ほど眠り、また出勤していく。そういう生活を何年か、毎日つづけた」
お金持ちになりたいとか、プロの小説家になりたいとかでなく(そういう気持ちもあったろうけれど)、純粋に小説を書きつづけていきたい、というところを出発点にしたピュアさに感心する。
(2024年2月29日)
●おすすめの電子書籍!
『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。
●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp
赤川次郎は、1948年、福岡の博多で誕生した。東京育ちで、桐朋高校を卒業。子どものころから本好きで、会社勤めをしながら小説を書いていた。28歳のとき、『幽霊列車』で「オール讀物推理小説新人賞」を受賞し、作家デビュー。以後、「三毛猫ホームズ」シリーズ、「三姉妹探偵団」シリーズなどを書き、ユーモア・ミステリーともいうべき、独特の味わいの推理小説を量産し、大ベセトセラー作家となった。
1980年代、赤川次郎は「ベストセラー作家」の代名詞だった。
当時は毎年、確定申告が終わると、国税庁から「長者番付」が発表されていたが、彼はその番付の常連だった。
「長者番付」の作家部門に、何年も連続で第一位に君臨しつづけていた。しかも、第二位の作家を大きく引き離し、断トツの一位。さらに、作家の収入などたかが知れているので、総合ランキングの上位に作家が食い込むことはふつうないのだが、赤川次郎は例外で、仕手戦を制した相場師や、土地成り金、大企業の創業家の人間たちに混じって、総合ランキングの上位に顔を出していた。
節税対策、蓄財に無頓着な人物だった、とも言えるだろう。
デビュー作の『幽霊列車』には感心した。軽いタッチで描かれたミステリーで、おもしろかった。それまで、推理小説というのは、重苦しい、緊張の張りつめたものがほとんどだったけれど、赤川次郎はそういうミステリー界に吹き込んだ心地よい新風だった。現在、流行しているライト・ノベルのはしりで、若い世代に圧倒的な人気があった。
彼の母校の、桐朋高校の国語教師と話したことがあり、その人は赤川次郎がいたクラスを教えたことがあって、次郎少年を覚えていた。
「いい子でしたよ、とっても」
赤川家は母子家庭で、次郎少年は大学受験が思うようにいかなくて、家計のこともあり、浪人をあきらめ、就職していった、そういう事情だと聞いた。
父親は家庭を捨てて、べつに家庭をもって別居していたらしい。
どこかのエッセイのなかで赤川次郎はこういう意味のことを書いていた。
「若いころから、小説を書くのが好きで、それが本になるとか、お金になるとか、とはべつに、自分は一生、小説を書きつづけていこうと心に決めた。学校を出て、就職した。朝、職場に出かけ、仕事をして、帰りに一杯やる集まりがあると、それにつきあって、夜遅くに帰ってくる。それから小説を書いて、3時間ほど眠り、また出勤していく。そういう生活を何年か、毎日つづけた」
お金持ちになりたいとか、プロの小説家になりたいとかでなく(そういう気持ちもあったろうけれど)、純粋に小説を書きつづけていきたい、というところを出発点にしたピュアさに感心する。
(2024年2月29日)
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人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。
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