1月17日は、ヘアードレッサー、ヴィダル・サスーンの誕生日(1928年)だが、プロボクサー、モハメド・アリが生まれた日でもある。
モハメド・アリこと、本名カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアは、一九四二年一月一七日、合衆国ケンタッキー州のルイビルで生まれた。南部のアフリカ系黒人奴隷の血をひく家系で、父親のカシアス・シニアは広告板や掲示板、看板を描くペンキ屋だった。
人種差別がごくふつうにあった土地がらで育ったカシアス・ジュニアは一二歳のときに自転車を盗まれ、腹を立てた。対応した警察官に、
「自転車を盗んだやつをぶちのめしてやる」
と息巻いた。すると、その警官はたまたまボクシングのコーチをしていて、
「その前にまず、人の殴り方、ボクシングを習ったほうがいいよ」
とカシアス・クレイ少年にアドバイスした。
それでクレイはボクシングをはじめた。アマチュアボクサーとしてクレイは一〇〇勝五敗の戦績をあげ、一八歳でローマ五輪の米国代表となり、ライトヘビー級で金メダルを獲得した。母国へ凱旋帰国したクレイは、ふるさとルイビルのレストランに友人と立ち寄ったが、彼らは黒人だからと入店を断られた。クレイはもっていた金メダルをオハイオ川に投げ捨て、もっと有名になり黒人の社会的地位向上のために尽くすことを誓った(この逸話は彼の自伝により、その真偽については諸説がある)。
プロボクサーとしてデビューしたクレイは、予告通りのラウンドにKO勝利するなど派手なパフォーマンスで話題を巻き、二二歳のとき、WBA・WBC統一世界ヘビー級の世界王者となった。彼はこう自称した。
「Float like a butterfly, sting like a bee.(蝶のように舞い、蜂のように刺す)」(Goodreads)
ブラック・ムスリムに入信し、名を「モハメド・アリ」に改めた彼は、人種差別反対の姿勢を前面に押し出した。
二四歳のとき、軍隊への召集通知書が届いた(当時、米国はベトナム戦争中だった)。
「自分にはベトコン(ベトナムの共産主義者たち)とけんかする理由がない」
とアリは徴兵を拒否。チャンピオン・タイトルとプロボクサーの資格、パスポートをはく奪され、多額の罰金と懲役五年の実刑判決を受けた。アリは法廷闘争に入り、ベトナム戦争反対と人種差別反対を訴えてまわった。
二八歳のとき、裁判で勝利を勝ち取り、ようやくリングに復帰できたが、彼はボクサーとしてもっとも油ののった年齢の三年七カ月を犠牲にしたのである。その後、世界王者に返り咲いたアリは、ヘビー級史上初の三度王座獲得を成し遂げ、三九歳で引退。引退後は、パーキンソン病と闘いながら、中東・湾岸危機に際し病身をおしてイラクのバグダッドへ飛び米国人の人質を解放したり、あるいは一九九六年の米国アトランタ五輪の開会式で、聖火リレーのアンカーを務め、かつてオハイオ川に投げ捨てた金メダルのレプリカを授与されたりした。米国の大統領自由勲章を受けたモハメド・アリは、二〇一六年六月、敗血症ショックにより、アリゾナ州のフェニックスで没した。七四歳だった。
高い技術に裏打ちされた不世出のボクサーであり、宣伝効果を意識した派手なパフォーマンスで、人種差別と戦争に対して敢然と立ち向かった偉大な生涯だった。
(2021年1月17日)
●おすすめの電子書籍!
『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp
モハメド・アリこと、本名カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアは、一九四二年一月一七日、合衆国ケンタッキー州のルイビルで生まれた。南部のアフリカ系黒人奴隷の血をひく家系で、父親のカシアス・シニアは広告板や掲示板、看板を描くペンキ屋だった。
人種差別がごくふつうにあった土地がらで育ったカシアス・ジュニアは一二歳のときに自転車を盗まれ、腹を立てた。対応した警察官に、
「自転車を盗んだやつをぶちのめしてやる」
と息巻いた。すると、その警官はたまたまボクシングのコーチをしていて、
「その前にまず、人の殴り方、ボクシングを習ったほうがいいよ」
とカシアス・クレイ少年にアドバイスした。
それでクレイはボクシングをはじめた。アマチュアボクサーとしてクレイは一〇〇勝五敗の戦績をあげ、一八歳でローマ五輪の米国代表となり、ライトヘビー級で金メダルを獲得した。母国へ凱旋帰国したクレイは、ふるさとルイビルのレストランに友人と立ち寄ったが、彼らは黒人だからと入店を断られた。クレイはもっていた金メダルをオハイオ川に投げ捨て、もっと有名になり黒人の社会的地位向上のために尽くすことを誓った(この逸話は彼の自伝により、その真偽については諸説がある)。
プロボクサーとしてデビューしたクレイは、予告通りのラウンドにKO勝利するなど派手なパフォーマンスで話題を巻き、二二歳のとき、WBA・WBC統一世界ヘビー級の世界王者となった。彼はこう自称した。
「Float like a butterfly, sting like a bee.(蝶のように舞い、蜂のように刺す)」(Goodreads)
ブラック・ムスリムに入信し、名を「モハメド・アリ」に改めた彼は、人種差別反対の姿勢を前面に押し出した。
二四歳のとき、軍隊への召集通知書が届いた(当時、米国はベトナム戦争中だった)。
「自分にはベトコン(ベトナムの共産主義者たち)とけんかする理由がない」
とアリは徴兵を拒否。チャンピオン・タイトルとプロボクサーの資格、パスポートをはく奪され、多額の罰金と懲役五年の実刑判決を受けた。アリは法廷闘争に入り、ベトナム戦争反対と人種差別反対を訴えてまわった。
二八歳のとき、裁判で勝利を勝ち取り、ようやくリングに復帰できたが、彼はボクサーとしてもっとも油ののった年齢の三年七カ月を犠牲にしたのである。その後、世界王者に返り咲いたアリは、ヘビー級史上初の三度王座獲得を成し遂げ、三九歳で引退。引退後は、パーキンソン病と闘いながら、中東・湾岸危機に際し病身をおしてイラクのバグダッドへ飛び米国人の人質を解放したり、あるいは一九九六年の米国アトランタ五輪の開会式で、聖火リレーのアンカーを務め、かつてオハイオ川に投げ捨てた金メダルのレプリカを授与されたりした。米国の大統領自由勲章を受けたモハメド・アリは、二〇一六年六月、敗血症ショックにより、アリゾナ州のフェニックスで没した。七四歳だった。
高い技術に裏打ちされた不世出のボクサーであり、宣伝効果を意識した派手なパフォーマンスで、人種差別と戦争に対して敢然と立ち向かった偉大な生涯だった。
(2021年1月17日)
●おすすめの電子書籍!
『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます